そしていつしか色を知る
異変に気が付いたのは、随分後になってからだった。
家でただ一つの畳の部屋は、祖母のお気に入りの部屋だ。
可愛らしい花の形を模した傘の付いた電灯は点けず、いつもカーテンを開けた、日と月の光だけが頼りの部屋。
祖母によると、そこが一番よく見える場所なのだとか。
祖母は生まれた時から全盲だ。
目蓋は開いていても、その薄い茶色の瞳は全くレンズの役割を果たしていない。
だが祖母はよく「見える」という言葉を使う。
手の平を頭の上にかざしてみたり、花や食べ物の匂い、物の感触など、それをはっきり感じとることができたときのみ「見えた」と祖母は嬉しそうに笑う。
自分が着ている着物の色さえ分からないのに、そう言うのだ。
そんな祖母の傍らに、しかめっ面の祖父の姿を昨日見た。
すでに葬式も終わっている祖父が、だ。
夕方の優しい日差しの中。
祖母の手の上に手を重ね、祖母をじっと見つめていたのだ。
思えば、すでにおかしなことはいくつも起きていた。
祖母が誰もいないはずの部屋で、誰かと話をしていた。
誰も教えていないのに自分の服の色を当てた。
不審な点は他にいくつもあった。
だが祖母だけは全てのことをちゃんと分かっているようだった。
いつも強面だった祖父と、わたしはあまり話したことがない。
沈黙に耐えきれなくなって話題をふっても、会話が続かないことがほとんどだった。
苦手意識だけが大きくなって、それを克服する間もなく祖父はあっさりとこの世界から消えてしまった。
祖母を大事にしていたから、このままでも大丈夫だとは思う。
思うけれど、やっぱり気になった。
亡くなった祖父が現れた場所とは違う場所で、わたしはついに祖母に一連のことを尋ねてみた。
祖母は優しくわたしの手を握ってくれた。
それからゆっくりと静かに教えてくれる。
おじいさんはもうここにはいないけど、思い出はここにまだあるのよ、と。
昔話を聞いた。
昔、目の見えない女の子がいて、その子に「色」を教えてくれた男の子の話。
その子はひどく不器用で、好きになった女の子にどう接すればいいのか分からなかった。
だからなるべく怪我だけはしないよう、男の子は、男の子が見えるもの、感じるもの全てをこと細かく女の子に伝えたのだという。
女の子は目が見えなかったけれど、男の子のおかげで暖かい橙色やひんやりした青、ふわふわした桃色を知ることができた。
幸せの色を教えてやる。
そう言った男の子の手は、いつもより熱かったのだとか。
祖父がそんなくさいセリフを言っていたことが信じられず、思わず嘘、と言ってしまった。
本当だよ、と祖母がくすくす笑って続ける。
今はその幸せ色をいつでも見ることができるの。
幸せ色はね、消えたりしないの。だから、大丈夫よ。
声を弾ませて言う祖母の隣に、うっすらと祖父の姿を見た。
祖父は不機嫌そうにそっぼを向いていたが、少ししてからわたしの頭を撫でた。
手の感触はしなかったけれど、ぬくもりが伝わってきて、泣きそうになった。
数年経って、私の目はもうほとんど見えなくなった。
祖母のいないあの畳の部屋は、ごろごろと寝転ぶために使っている。
――畳は、清々しい草の匂いがした。
鼻から口、肺へと薄い緑の空気がすーっと通る。
顔に暖かいものを感じた。橙色の日の光だ。
指先にふにゃりと暖かくて、すべすべして、ふわふわしたものが触れた。
「ふやあ」とぐずりだしてしまったけれど、夫の「大丈夫」という声で治まった。
きっとこれが幸せ色なのだ。
「見えた」と嬉しくて声をあげた。
わたしの頬を、二人分のぬくもりが優しくなでていった。