第二話「少女」
歩き続けているうちに陽が落ちた。
一休みするために一旦駅前まで戻り、行きつけの喫茶店で軽食を取る。
急かす斑目を引き連れて再び学校までやって来た頃には、既に午後九時を過ぎていた。
「ここなんですか?」
斑目はとても信じられないようだった。
「盗まれたものって、コインロッカーとか犯人の家とかにあるものだと思ってたんですけど」
「まぁ以前には公園の茂みだとか、自分の職場なんかに隠した奴もいましたからね」
「いろいろ考えられているんですねぇ」
「斑目さん、そこは感心するところではないかと」
閉ざされていた校門をよじ登り、二人は校舎に向かう一本道を歩いていた。
彰が通っていた頃とあまり変わっていない。
道の両脇に植えられた木は、もう少し経てば桜の花を満開にすることだろう。
やがて一本道を抜けると、そこには綺麗な校舎が建っていた。
中学と高校が一つになっており、クラスの数も多いため、校舎はかなり大きい。
夜に見るとなにやら威圧感を感じてしまい、少し落ち着かない。
斑目の『線』は、高校の屋上へと伸びていた。
「それじゃ、斑目さん。宿直の先生に見つからないよう、これからは黙って進みましょう。くれぐれも気をつけて」
「はぁ……なんだってこんなことに」
あちこち歩きまわって疲れたのか、斑目は投げやりな口調でぼやいていた。
彰はその声を黙殺し、高校の玄関にそっと忍び込む。
不服そうではあったが、斑目もその後に続いた。
懐中電灯の光がないことを確認しながら階段を駆け上がる。
幸い宿直の教師との鉢合わせはなかった。
斑目の呼吸が乱れているのが気になったが、とりあえずは無事に屋上前へと到着する。
「大丈夫ですか、斑目さん」
「はぁっ、はっ……す、すみません。体力には、あまり自信がないもので」
「見つからないようにという緊張もあったんでしょう。少し休みますか? あまり長居は出来ませんが」
「いえ。人に見つかるとまずいですから、急いで確認しましょう」
「分かりました。大丈夫、きっと見つかりますよ」
斑目の線は扉の向こうに伸びていた。間違いなくこの先に鞄がある。
彰は音を立てないよう、ゆっくりとドアを開けた。
外から、まだ少し肌寒い夜風が吹き込んでくる。
「変わってないな、ここも」
殺風景な屋上。ここは、在学していた頃の彰が一番気に入っていた場所だった。
一人になれるからである。
人の意識を直視出来る彰にとって、対人関係ほど恐いものはなかった。
普通の人ならば気づかない、あるいは気にしないような悪意さえ、彰の右眼は容赦なく捉えてしまう。それも、事実だけを。
本来、自分が誰にどう思われているかを判断するのは想像力である。
普段の言動などが一応判断材料になるが、最終的に決めるのは自分自身だった。
だから、ある程度都合よく受け止めることが出来る。
彰にはそれが出来ない。
人が自分のことをどう思っているかを、そのまま認識してしまう。
都合のいい解釈など入る余地がないくらい、はっきりと。
無論、普段は眼帯で右眼を隠しているため、線は見えない。
それでも、一度気づいてしまえば後戻りは出来なかった。
人の悪意というものが、どれだけ恐ろしいかを知ってしまったのだから。
教室は居心地が悪かった。
結局試したことはなかったが、もしあそこで右眼を開いていたら、何が見えていたのか。
想像するだけで寒気がした。
だから彰は一人になることを好んだ。
屋上を愛用していたのはそのためである。
「……っと、懐かしさに浸ってる場合じゃないな」
今は依頼を済ませることが先決だった。
斑目は一生懸命あちこちを捜し回っている。
彼の『線』は、屋上の端へと伸びていた。
彰はそれを辿る。
屋上の片隅、入り口からは死角となっている場所で視線を止めた。
学校の裏側を向いたフェンスの外に、不自然な黒い鞄が置かれていた。
「斑目さん、あれじゃないですか?」
振り返る。
――その瞬間、視界に刃が飛び込んできた。
闇の中、輝く凶器は彰目掛けて真っ直ぐに振り下ろされる。
それに合わせるように彰は右腕を振り上げた。
手にはポケットから取り出した、護身用のナイフが握られていた。
刃と刃が衝突する。
彰はそのままの体勢で、自分を襲撃した相手に引きつった笑みを向けた。
「……随分と物騒なもん持ってますねぇ、斑目さん」
「君の方こそ。なかなかいい反応じゃないか」
斑目は愉快そうに笑う。
どこに隠していたのか、刃渡り二十センチはありそうなナイフを手にしていた。
彰から距離を取り、片手で器用にナイフを回している。
先ほどまでのようなみすぼらしい雰囲気は完全に消え失せていた。
だらしなかった双眸も、今は不気味な輝きを宿している。
豹変した斑目を前に、彰は舌打ちをした。
営業用の笑顔、言葉遣いを瞬時に頭から叩き出す。
……くそっ、久々にこいつの世話になるとは……!
真っ当な商売でない以上、たまに危険な仕事を持ち込まれることもある。
依頼人に騙されたケースも一度や二度ではない。
そのため、彰は護身の武器を常に携帯していた。
それでも、こんな事態は慣れるものではない。
斑目は両手を大きく広げ、彰に賞賛の言葉をかける。
「今の動きは実にいい。気づいていたのかな、私の目的に」
「そんなもんは知らない。あの鞄に何が入っているのかも、全然見当つかないね」
彰の言葉に、斑目は意外そうな表情を浮かべた。
「ほう、それにしてはいい動きだったが……」
「……『線』が見えたんでね」
彰が振り返ると同時に、斑目から伸びていた『線』が一瞬にして彰の方に戻ってきたのだ。
それも、明確な殺意を伴いながら。
「あんなおっかない『線』を向けられたらさすがに気づく。こんなところにある捜し物も変だ。斑目さんよ、あんたの話、どっからどこまでが本当だ?」
「線、というのはよく分からないが……」
興味深そうな視線をこちらに送りながら、斑目は苦笑した。
「盗まれたというのは本当だ。中身については若干嘘をついたがね」
「……まさか妙なお薬じゃないでしょうね」
「そんなつまらないものではないよ。もっともっと重要なものだ」
鞄は彰の後方にある。
斑目が手にするためには、間にいる彰をどうにかする必要があった。
彰と斑目の距離は五メートル。
屋上の出口は斑目の背にあるので、彰は逃げ道を塞がれた形になる。
彰は自分と斑目のナイフを見比べた。
こちらはせいぜい刃渡り五センチ。
向こうの獲物と比べると、あまりに頼りない。
「ともあれ、最初の一撃で仕留められなかったのは誤算だったな」
斑目は溜息をつきながら、軽くステップを踏む。
「少し、君を苦しませてしまうかもしれない」
何をするつもりだとナイフを構えた瞬間、彰の視界から斑目の姿が消えた。
……っ!
自分へと向けられた殺意の『線』は右の方へ傾いていた。
その発信源を視線で追う。
刹那、右肩に衝撃が走った。
次いで浮遊感。
少し遅れて、何かに叩きつけられたような痛みが背中に襲いかかる。
身体がよろめく、どころではない。
最初の衝撃によって、彰はフェンス際まで吹き飛ばされたのである。
彰は痛みに顔をしかめながら、斑目の姿を捜す。
こちらへと向けられた線は、上の方から伸びていた。
「うっ……!」
見上げた先に斑目はいた。
跳んでいる。
斑目は、フェンスの高さを軽く越えた位置からこちらを見下ろしていた。
右手のナイフをこちらに向けながら、一直線に落下してくる。
彰は両腕でフェンスを押し、その反動で前へと飛び出した。
わずかに遅れて、斑目がそこに着地する。
……あいつ、化け物か!?
彰は無我夢中で出口に向かって走りながら、脅威の眼差しを斑目に向けた。
五メートルの距離を一瞬で埋めた移動速度、人間を文字通り吹き飛ばすほどの力、そして軽々と三メートル以上跳躍してみせた脚力。
どれを取っても人間離れしている。
否、現実離れしていると言った方がいい。
彰も荒事には慣れているし、運動神経に自信はあった。
が、あんな相手とまともに戦って勝てるとは思えない。
急いで逃げなければ、確実に殺される。
だが、出口まで後一歩というところで、斑目が眼前に飛び込んできた。
「逃げられるのは、困るな……!」
突然現れた斑目に驚き、彰の足が止まる。
その隙を狙って斑目は右腕を振るった。
下から弧を描くように、武骨なナイフが彰の心臓に迫る。
急激な停止の直後だったため、彰は反応するのが遅れた。
防御も回避も、間に合わない。
死がすぐ側に迫っていることを理解し、彰の思考が停止する。
そのとき、彰は見た。
斑目に向かって伸びる、敵意の『線』に。
次の瞬間――二人の間に、凄まじい勢いで小柄な影が躍りこんできた。
彰めがけて伸びていた斑目の右腕が影に弾かれ、ありえない方向に曲がった。
斑目は顔を苦痛に歪めながら、即座に横へ飛び退く。
それは一秒にも満たない間の出来事。
突然のことに、彰は何が起きたか理解するのがやや遅れた。
自分の胸に手を当てて、まだ生きていることを確認する。
そして、改めて乱入者に目を向けた。
落ちてきたのは少女だった。
夕方、彰が校門前で目撃した子である。
先ほど見たときとほとんど同じ格好で、違う点といえば鞄を持っていないことぐらい。
その横顔は間近で見ると綺麗なのだが、それ以上に頼もしさを感じさせる。
芯の強さと鋭き意思を秘めたその姿は、気高き戦士を思わせる。
斑目に敵意の『線』を向けているのは、彼女だった。
少女は彰の方を見た。しかし、すぐに背を向けて斑目と対峙する。
「最初は両方そうだと思ったけど……どうやら、"悪魔"は貴方の方だけだったみたいね」
少女の凛とした声が、静かな屋上に響き渡る。
彰には言葉の意味は分からなかったが、斑目の方は露骨に顔をしかめた。
「まいったな。こんな時間まで見張ってたのか? いや……これは罠だったと見るべきか」
と、忌々しそうに吐き捨てる。
少女のことを知っているようだった。
「その口ぶりからして、貴方、この前私がぶっ飛ばした奴かしら? 貴方たちってすぐに姿変えるから誰が誰だか分かりにくいのよね」
悪魔。
姿を変える。
そんな異常な言葉に対し、彰の思考は追いつかない。
両者の会話に、彰が立ち入る隙はない。
少女の登場によって、完全に傍観者へと追いやられてしまった。
「まあいっか。どんな方法使ったのかは知らないけど、尻尾を掴んで逃がす馬鹿はいないわ。二度と妙な真似が出来ないように懲らしめてあげる」
「盗っ人猛々しい。アレはもともと我らのもの。是が非でも返してもらう」
「やれるもんならやってみなさい。言っとくけど、手加減はしないわよ」
少女はその場で右腕を振るった。
彼女の手に、一瞬眩い光が生じる。
やがてそこから一振りの刀が現れる。
やや大振りな刀で、見た目は時代劇などで見るような日本刀に似ている。
ただ、刀身が淡い緑色の光をまとっているのが特徴的だった。
……なんだこれは。
無茶苦茶な光景だった。
何もないところから突然刀が現れるなど、彰の理解の範疇を越えている。
自分自身奇妙な右眼を持っているくせに、彰はこの非常識な現象にただ呆然としていた。
そんな彰を置き捨てながらも、状況は止まることなく進行していく。
刀を手にすると、少女は一直線に斑目の元へ跳躍した。
速い。
地を一度蹴っただけで、瞬時に斑目の胸元へと接近する。
斑目は舌打ちと同時に左腕を突き出した。
少女の顔面を狙ったストレート。
少女は上体をわずかに落とす。
少し遅れて、彼女の頭上を斑目の左腕が通過した。
斑目の胴に隙が生じる。
すかさず少女は刀を突き出した。
弾丸のような勢いで放たれた突きは、斑目の腹部を深々と貫く。
「ぐ、あ……っ!」
斑目は苦しそうに呻き声をあげた。
歯をむき出しにした凄まじい形相で、自らの懐にいる少女を睨みつける。
少女は即座に刀を引き抜いて、後ろに下がった。
不思議なことに、刀には血が一切ついていない。
「げ、ぐ……」
斑目は貫かれたところを押さえている。
血は出ていない。
その代わり、黒い霧のようなものが溢れ出ていた。
「これで勝負ありね」
少女の言葉の通り、勝負は決まっていた。彼女の完全勝利である。
「これに懲りたら早くどこかに消えなさい。アレを諦めるんだったら、別に命まで取ったりはしないわ」
そう言って少女は踵を返す。斑目に背を向けて、ゆっくりと彰の方に歩いてくる。
あれだけ人間離れした斑目を、いともあっさりと倒した。
そのことが、まず彰には信じられなかった。
……こんな、女の子が?
決して体格のいい少女ではない。
見た目からは、むしろ華奢な印象を受ける。
手にした短めの刀も、彼女には少し大きいような気がした。
それでも、少女の強さは本物だった。彰自身がその目で見たのだから間違いない。
今更ながら、何者なのかという疑問が生じてきた。
じっと、歩いてくる彼女の姿を見つめる。
そのとき、彰は斑目が放つ殺意の『線』に気づいた。
それは少女に向かって伸びている。
眼を血走らせ、少女の背を凝視している。
もう腹部は押さえておらず、いつのまにか左手にナイフを持っていた。
「――危ないっ!」
彰は咄嗟に叫んだ。
自分でも想像していなかったほどの大声が、夜の屋上に響き渡る。
それを合図としたのか、斑目が少女めがけて飛び出す。
人間のものとは思えない叫び声をあげ、斑目は左腕を振り下ろそうとした。
しかし。
「……馬鹿」
斑目の叫びに、少女の呟きが重なる。
同時に少女は、左足を軸にして一気に身体を回転させた。
手にした刀が斑目の胴へと軌道を描き、一太刀でその身体を真っ二つに切り裂く。
勢いに乗った上半身が、かすかに宙へと浮かぶ。
「この、逆徒めが……!」
斑目は憎悪を露わにした表情で、その場に崩れ落ちた。
少女が手にした刀は光に包まれ、やがて静かに消えていく。
惚れ惚れするような戦いぶりだった。
少女の動きにはほとんど無駄がなかった。
必要最低限の動作で結果を叩き出し、斑目に完勝した。
彰も武術を学んでいるから、少女がどれだけ強いのかはよく分かる。
しかし勝利を収めたにもかかわらず、なぜか少女は沈んだ表情を浮かべていた。
さっきまで力強く吊り上がっていたはずの双眸は、目尻が下がり憂いの色が見え隠れしている。
無傷の勝利だったはずなのに、どこか辛そうに見えた。
崩れ落ちた斑目を、じっと見続けている。
屋上は再び元の静けさを取り戻し、立っているのは彰と少女の二人だけ。
少女の横顔に、先ほどまでの頼もしさはない。
まるで、悪いことをして親に叱られた子供のような表情だった。
「……大丈夫か?」
彰は心配になって、少女に声をかけた。
少女はハッとして彰を見た。
どうやらすっかり忘れていたらしい。
最初は少し気まずそうに目を伏せていたが、やがて小さく頷いた。
「そっちこそ大丈夫? 怪我とかない?」
「ああ、おかげさまで。ありがとう、助かった」
この少女がいなければ、今頃彰は凶刃に倒れていただろう。
……本当に危なかった。
命を救われたことを胸に刻みつけて、彰は頭を下げた。
「本当に助かった。感謝してもしきれない」
「別に頭下げなくてもいいよ。私、危うく貴方のこと見殺しにするところだったんだから。本当はお礼なんか言われる立場じゃないの」
少し後ろめたそうに告げる少女。
だが、それは彰にとっては些細なことだった。
「それでも実際こっちは救われたんだ。状況はよく……っていうか全然分からないけど、助けてもらったんだから、きちんと礼は言わなきゃいけないだろ」
彰は再び頭下げてから、少女の後ろにある斑目の遺体に目を向けた。
そこからは黒い霧が溢れ出ている。
先ほど斑目の腹部から出ていたものと同じもののようだった。
血は全く流れていない。
彰は真っ二つになった人間など見たことはないが、それでもこの遺体がおかしいということは分かる。
これは、明らかに異常だった。
「……出来れば、説明をお願いしたいんだが」
「え?」
少女は目を丸くした。
どうやら質問されるとは思っていなかったらしい。
途端に困ったような顔で、彰と斑目の遺体を交互に見る。
「……特撮の撮影とか」
「いや、それはないだろ」
とか、などと言っている時点で嘘くさい。
「むぅ……それじゃ、えーと……」
なにやら必死に考えているようだった。
本当のことは話したくないらしい。どうにかしてごまかすつもりのようだった。
確かに、見なかったことにして帰るのも一つの方法ではある。
というより、普通の人ならばこんな場所からはさっさと逃げ出しているだろう。
しかし、彰はそういうわけにもいかない。
巻き込まれたわけでもなく、無関係でもない。
斑目をここに連れて来たのは彼なのである。
事情は分からないが、彰もまた当事者なのだ。
状況を把握しないまま帰ることなど出来ない。
眼帯をこっそりと元に戻しながら、彰はしゃがみ込んで斑目の遺体に触れた。
まるで破裂した風船の残骸のような触感だった。
一応依頼人ではあったが、こちらを殺そうとした相手でもある。
同情する気にはなれない。
「これ、どうするんだ?」
「あ、それは放っておけば魔力が消えて自然と消滅するから」
「……」
駄目元で尋ねてみたら、きちんと答えが返ってきた。
少女は口が滑ったことに気づいたのか、慌てて口元を抑えていた。
少女はさっきまでとは打って変わって、年相応の女の子しか見えなかった。
斑目を撃退した彼女と同一人物とは思えない。
「魔力って、この黒い霧みたいなやつ?」
「……」
さすがに同じミスはしないらしい。
彼女は彰に背を向けて沈黙している。
彰はその背中に声をかける。
「こいつをここまで連れて来たのは俺なんだ」
少女は肩を震わせた。
やや緊張した面持ちで振り返る。
それは、斑目と対峙していたときの顔だった。
「……貴方が? 単に巻き込まれたってわけじゃないの?」
「ああ。でもこいつの目的とかは全然知らない。さっき君はこいつを悪魔って言ってたけど、それはどういうことなんだ?」
悪魔と聞いて彰が最初に思い浮かべたのは、黒い肌に翼を生やした異形の存在だということ。
次いで、サタンやベリアルなどといった固有名前などである。
しかし、斑目はほとんど人間と変わらない外見をしていた。
血の代わりに黒い霧が流れ出ているということ、そして人間離れした力を持っているということ。
この二点を除けば、普通の人間となんら変わらない。
恐いのはそこだった。
斑目は見た目こそ人間そのものだったが、内面はまるで異なる。
人を容易く殺せるような力を持っていた。
そんな奴が、他にもいるとしたら。
自分たちの日常の、すぐ側に潜んでいるとしたら。
そう考えると、この件はとてもではないが放置しておけない。
少なくとも、相手の正体ぐらいは知っておかないと安心出来ない。
現に彰は、ついさっき殺されそうになった。
この恐怖は、前にも一度体験したことがある。
それは、初めて自分に向けられた悪意を『線』として見てしまったときだった。
日常の中に潜む、『本当に恐いもの』に気づいてしまったときの恐怖。
それが今再び彰の心を蝕んでいた。
「頼む。どうしても駄目だっていうわけじゃないなら、教えてくれないか」
彰が単なる好奇心だけで尋ねているわけではないと察したのか、少女の口元から力が抜けていく。
「あんまり、知らない方がいいと思うんだけど……」
「もう知ってる。少なくとも、こいつがただの人間じゃないってこと、それにその鞄の中身が何か重要なものだってことは。生兵法は大怪我の元とも言うし、出来ればきちんと知っておきたい。また同じようなことが起きたときのためにも」
彰は少女の眼を見据えた。
やがて、少女は根負けしたのか、溜息をついて肩を落とした。
「……分かった。私も聞きたいことが出来たし、簡単な説明でいいなら」
「ありがとう。……そうだな、助けてもらったお礼にどこかで奢るよ。そこで話を聞かせてくれないかな」
この季節だと、まだ屋上は寒い。
彰は構わないが、少女の方は制服姿である。
上着もつけていないし、かなり寒そうに見えた。
「あ、でもこんな時間に制服姿でうろつくのもますいか。えっと、それじゃ……」
「明日の放課後でいいなら、時間空けられるけど」
「明日か」
彰としては、この異常事態について早く説明が欲しい。
だが今日中に聞かなければならないかと言われれば、そうでもない。
一日ぐらいは待ってもいいだろう。
「……分かった。それじゃ、明日にでも頼む」
「了解。……あ、そうだ。忘れてた」
少女は彰の前にやって来ると、初めてにっこりと微笑んだ。
向日葵を連想させる可愛らしい笑顔だった。
不意打ちのように放たれたその表情に、彰は思わず見惚れていた。
「挨拶が遅れたわね。私は 倉凪永久 。一応、退魔士よ」
退魔士。
おそらく、その名の通り魔を狩る者のことなのだろう。
斑目が悪魔だとするなら、それを倒した彼女にはよく似合う肩書きのように思えた。
「俺は不瞳彰。こっちは、そうだな……」
なんとなく、彼女とつり合う肩書きがないかと意識してしまう。
しかし、結局思い浮かんだのは一つだけだった。
ポケットから取り出した名刺を彼女に手渡しながら、
「――捜し屋、ってとこだな」