第十五話「封印」
夜の山中に激震が走った。
震源地は永久の目の前。
一人の女悪魔が黒い霧となって空に昇る、まさにその場所だった。
女悪魔がいた場所に黒い球体が浮かんでいる。
天魔の魂――その右腕部分である。
それが、山を揺さぶっていた。
あちこちで木が倒れていき、鳥たちが騒ぎ出す。
永久はどうにか踏ん張りながら、球体に向かって腕を突き出している。
この球体を、再度封印しなければならない。
急がなければ、欠片は勝手に宿主を探し出して入り込んでしまう。
一番危険なのは永久自身だった。
目の前にいるのだから、まず最初に目をつけられるだろう。
……それは最後の手段にしないと……。
先ほど偉そうに言ったものの、永久とて天魔の力を完璧に使いこなせているわけではない。
むしろ使用する度に、暴走しないかどうか自分でもかなり不安に思っている。
『左腕』一つでも、永久はかろうじて抑えていられるという状態である。
もし『右腕』まで取り込んでしまえば、今度は永久の方が大きすぎる波に飲み込まれる恐れがあった。
それは、出来るなら避けたい。
「光の壁よ、狩人を囲う檻となれ!」
永久が詠唱すると、球体の周囲が眩い光に包まれた。
光は次第に長方形型の水晶へと形を変えていく。
しかし、その水晶は若干濁っていた。
すぐさま亀裂が走り、砕け散ってしまう。
「くそ、やっぱり駄目か……!」
永久は刃を振るって魔を退治するのが専門である。
そのため封印に関する技術は専門外なのである。
基礎は一応覚えているが、ほとんど役に立たない。
それに、今の永久が使っている魔力は封じるべきものと同質のものである。
そんなもので結界となる水晶を作っても、対象を活性化させてしまうだけだった。
かと言って、天魔の力なしではとても太刀打ち出来る相手ではない。
「……どうしよう、梨絵……」
永久の表情が弱気なものになっていく。
早く決めなければ、『天魔の右腕』が宿主を探しに動き出してしまう。
迷っている時間はなかった。
「やるしかない、か」
永久は迷いを断ち切るように、首を振って、両手で頬を叩いた。
封印することは不可能。
かと言って、無関係の誰かの元にこんなものが行くのはまずい。
それならば、残された方法は一つしかない。
……責任取って、私がこいつを背負う。
正直、恐い。
天魔の力を得るということは、それだけ自分が人間から離れていくということである。
左腕を得たことで抱いた疎外感は、永久の中で未だに根強く残っている。
自分が人間ではなくなってしまったのだと、今でも泣きたくなることもある。
だからこそ、決めた。
他の誰かにこんな思いはさせたくないと。
そのために、たった一人でも戦い続けると。
その決意を思い起こし、永久は震える手を球体へと伸ばす。
しかし、その手は横から割り込んできた別の手に止められた。
永久は驚いてそちらに顔を向ける。
「……やめろ、永久」
そこには、彼女が初めて得た仲間――不瞳彰が立っていた。
彰は肩で息をしながら、永久と球体を交互に見た。
どうやら戦いは終わったらしい。
しかし、それより厄介な問題が起きているようだった。
「永久、また封印するのは無理なのか?」
「……ええ、私じゃ出来ない。それに、放っておくと勝手に宿主を探しに出る」
永久は罰が悪そうな顔で小さく頷いた。
彰はそれだけで、およその状況を把握した。
「それで、君は自分がそいつを背負おうと思ったわけか」
「……」
返ってきたのは沈黙だった。
彰はそれを肯定と認識し、深い溜息をつく。
……まったく、この子はいつもこうだ。
人を気遣ってばかりで、自分のことをあまり気にかけようとしない。
自分一人でなんとかしようとして失敗するタイプなのだろう。
「君は天魔になどなりたくないんだろう? だったら、それはやめておけ」
「でも、それじゃあどうするの!?」
永久が泣きそうな顔を彰に向けてきた。
「右腕を守りきれなかったのは私のせいなのよ? それで誰かがこんなもの背負わなきゃいけなくなったら……」
「それを言うなら、俺にも責任はあるだろ」
彰は苦笑して、そんな彼女の頭をポンポンと叩く。
「だいたい、君がもし『右腕』まで取り込んで暴走でもしたらどうする。誰にも止められなくて、物凄い被害が出るかもしれないぞ?」
「そっ、それは……」
「そうならないとは言い切れない。そう言ったのは君自身だ」
と、彰は視線を永久から黒い球体へと移した。
この激震の中、唯一動かぬ禍々しい力の象徴。彰はそれに一歩近づいた。
「君がそんな危ない橋を渡るより、もっといい方法がある」
そう言って――彰はおもむろに右手で球体を掴み取った。
「あ、彰!?」
彰が取った突然の行動に、永久が悲鳴を上げた。
球体はずぶずぶと右手の中に入り込んでくる。
右腕が膨張していくような錯覚を抱く。
細かい痛みがちりちりと走り、脳が内側から揺さぶられるような気色悪さを感じた。
少しずつ自分の身体が侵されていく。
「彰、すぐにそれを離してっ!」
「悪いがそれは聞けない。これが多分最善だ。俺は無関係じゃないし、こうなったことに対する責任もある。万一暴走したとしても、君なら止められるだろ?」
視界が歪んできた。
それと同時に身体中が熱くなってくるのを感じる。
落ち着け、と自分に言い聞かせながら、彰は永久の方に振り返った。
「それに約束したからな。……俺はやれることが一つでもあるなら、君を助けると」
「……っ!」
彰の言葉に永久が大きく口を開いた。
しかし、そこから言葉が出てこない。
何を言えばいいのか、分からないのだろう。
永久の表情には、怯えの色が見え隠れしていた。
「……彰は分かってない、それがどんなに辛いことか」
「ああ、確かに……まだ分かってない。多分、これから分かっていくんだろうな」
「ずっと、死ぬまでそれと付き合っていかなきゃいけないのよ?」
「それは知ってる」
「少しだけど……人間じゃなくなるのよ?」
「分かってる」
「いろんな悪魔に狙われるかもしれない」
「そのときは助けてくれ」
冗談めかした彰の言葉に、永久が顔を伏せて叫んだ。
「……馬鹿、馬鹿馬鹿っ! 彰の馬鹿!」
「君ほどじゃない」
そう言って彰は笑った。
意識は次第に霞んできている。
『天魔の欠片』を取り込むことは、想像以上に負担がかかるらしい。
既に球体は、完全に体内に入り込んでしまったようだった。
気づけば揺れも止まっている。
周囲には再び夜の静寂が訪れていた。
どくん、と彰の心臓が鼓動を刻む。
自分の中で、決定的な何かが変わったのを実感した。
例えるなら、熱い湯水の中に冷水を入れたときのような異物感。
そしてそれは、次第に混ざって区別がつかなくなっていく。
不瞳彰という存在と一体になっていく。
彰は後悔していない。
その場に尻餅をつきながら、呆然とした様子の永久に微笑を送る。
「俺は、半端なのはもう嫌だったんだ」
「え……?」
「昔、とてもやりたかったことがあった。けど途中で俺は逃げた。それからずっと後悔してきたんだ。だから今……最後まできっちり出来たことに、満足してる」
それは偽りなき本心だった。
昔、友達を助けたかったが一心で彰は動き、挫折した。
もうあんな思いをするのは絶対に嫌だと思った。
周囲全てが敵という状況。
そして、惨めに逃げた自分自身。
どちらも同じくらい嫌だった。
だが今は違う。
彰はやろうと思ったことを、最後までやり遂げた。
それに、もう一人ではない。
そう思うと、張り詰めていたものが霧散していく。
身体から力が抜けて、彰は仰向けに倒れこんだ。
「……彰っ!」
徐々に暗くなっていく意識の中、心配そうにこちらを覗き込む少女の姿を焼きつける。
彼女が彰に向けてくる、温かで優しい『線』のことも。
そして、その向こうにある満天の星空を。
……綺麗だな。
いつか見た夕焼け空を思い出す。
この光景を忘れぬよう、心に刻みつける。
そこで彰の意識は、完全に闇の中へと呑まれていった。