第十二話「追走」
彰は自分に向けられた『線』を辿りながら、バイクで夜道を駆け抜けていた。
住宅街に安眠妨害を撒き散らし、一心不乱に走り続ける。
永久の『線』は、アパートから見て駅の反対側――涼宮町の郊外に向かっていた。
しかし、少しずつその『線』は薄れてきている。
永久との間に距離が開きつつあるのか、あるいは向こうが彰のことを意識しないようにしているのか。
……くそ、消えるな!
彰は自分の意識を表す『線』を見ることが出来ない。
そのため、万一この『線』が消えてしまえば、永久を追うための手がかりが途絶えてしまう。
やがて、次第に人家が減り始めてきた頃。永久と彰を繋ぐ『線』は完全に消えてしまった。
彰は舌打ちすると、道の脇にバイクを停止させる。
もう一度携帯をかけてこちらを意識させようとしたが、今度は電源を切られていた。
周囲は街灯の数も少なく、深い闇に包まれている。
何軒か家が見えたが、さらに進んでいけば完全な田園地帯に出るだろう。
「……どこだ?」
駄目だということは分かっているが、彰は永久の姿を強く思い浮かべた。
しかし、やはり自分が発する意識は『線』として見えてこない。
焦りと苛立ち、そして高揚感が彰の胸中を駆け巡る。
永久に合流することが出来れば、この戦いに終止符を打つことが出来る。
相手の出方を待つのではなく、こちらから攻め込むことが可能なのだ。
「……なんで逃げるんだよ。昨日も今日も」
顔をしかめて彰は毒づいた。
しかし答えが返ってくるはずもなく、溜息ばかりが外にもれる。
このまま立ち往生している場合ではない。
自分一人では彼女を追うことが出来ないなら、誰かに協力してもらう必要がある。
永久のことを具体的に意識出きる人物がいれば、その人の発する『線』を追っていけばいい。
最初に思いついたのは朝見だった。
彼は一度永久と顔を合わせているから、彼女を意識することも不可能ではないだろう。
ただ、彼をこの件に巻き込むのは出来るだけ避けたい。
そのとき、彰は自分に向けられた『線』を捉えた。
永久が去っていったのとは逆の方、つまり彰が走ってきた方から伸びてきている『線』である。
わずかな動揺と、それを押し殺そうとする強い意思を秘めた『線』だった。
ふわりと、彰の頬に柔らかな風が当たる。
次の瞬間、その『線』の発信源が彰の眼前に飛び込んできた。
永久よりも一回り小さい少女だった。
闇に溶け込むようなおかっぱ頭。
そして、永久と同じ涼宮高校の制服を着込んでいる。
少女はかすかに顔を強張らせ、彰の正面に立った。
「不瞳さん。貴方は何をしているのです」
その声を聞いて、彰は少女が何者かに気づいた。
「……君は、秋野葉子か?」
「ええ。突如貴方が部屋を飛び出したので、慌てて追って来たのです」
葉子は徒歩のようだった。
自分の足だけで、バイクで疾走する彰を追って来たということなのだろう。
そのくせ息は全く乱れていない。
どうやら悪魔というのは本当らしい。
少なくとも、普通の人間ではないだろう。
彼女は彰に対し、非難するような眼差しを向けた。
『線』も若干刺々しい形をしている。
「まったく。なぜか今晩は倉凪永久が厳重に見張っていたせいで、貴方の部屋に近づけませんでした。さらに貴方は貴方でいきなり飛び出すし……実に面倒なことです」
「永久を追ってたんだ。彼女に伝えたいことがあって」
葉子の声が剣呑さを増してきたので、彰は話を変えるために最初の質問に答えた。
「それで、見失って立ち往生しているのですか?」
「う……まあ、そんな感じだ」
反論出来ず、彰は曖昧に言葉を濁した。
葉子は呆れ顔で肩を竦める。
「ならば早々に部屋に戻られることをお勧めします。夜は悪魔の真価が発揮される時間。貴方が外を出歩くのは危険です」
「いや、それは駄目だ。俺は今、彼女に会って話をしたい」
今、の部分を強調して、彰ははっきりと告げた。
「ですが、見失ってしまったのではどうしようもありません」
彰の関与を嫌っているのか、葉子は渋面を浮かべる。
だが彰はそれを黙殺し、
「君は、永久のことをどの程度知っている?」
と訊ねた。
突然の質問に若干戸惑いながら、葉子はゆっくりと答える。
「……退魔士であること。『九裁』に所属していないモグリであること。『天満の左腕』を内包する候補者であること。直接会って話したことはないので性格は分かりませんが、姿なら遠くから見たことが何度かあります」
「それだけ分かれば充分だ。まだ追いかけられる」
葉子の『線』を見て彰は笑みを浮かべた。
彼女の『線』は彰ではなく、永久が去っていった方向に伸びている。
これを追っていけば、永久の元に辿り着けるだろう。
「細かい話は行きながら説明する。手伝ってくれないか?」
「私がですか?」
「君たちは天魔を復活させないのが目的なんだろ? だったら、手伝って欲しい。俺や永久も目的は同じだ。うまくいけば、今晩中に決着がつく」
彰の言葉に、葉子はぴくりと眉を動かした。
しばし黙考し、やがて重々しく頷く。
「……いいでしょう。その自信、根拠をお聞かせください」
「決まりだな、乗ってくれ」
彰に促され、葉子が後部座席に腰を下ろす。
「……ああ、そうそう。言い忘れてた。倉凪永久に関することだ」
「なんですか?」
「永久は危険なんかじゃない。彼女は単なる、不器用なお人好しだ」
きょとんとした表情を浮かべる葉子に、彰は笑ってそう言った。
涼宮町の南部には、いくつもの山が連なっている。
夜風が木々を揺らし、葉がざわざわと音を立てる。
時折、鳥の鳴き声が聞こえることもあった。
まだ少し雪が残っていて、所々が白に染まっている。
その一角、涼宮町を見渡すことが出来る場所に永久はいた。
「はぁ……二度も見つかるなんて思わなかった」
憂鬱そうに言って、彼女は溜息をついた。
あんな風に別れを切り出した手前、今更彰と顔を合わせることなど出来ない。
それに、アパートを見張っていたことなど知られたくなかった。
知られれば、彰に無用の気遣いをさせてしまう。
彼には、何も気にせずに元の日常に戻って欲しかった。
「でも、あの様子だと気づかれちゃったかな……」
うあー、と永久は呻いた。
昨日は彰のアパートに着いた途端発見され、今日は前触れなくいきなり呼びかけられた。
どうにもついてない。
「でもま、彰も馬鹿じゃないし。まさか追ってきたりはしないわよね」
胸中にある不安を振り払うように言って、永久は視線を下に向けた。
彼女は今、何の変哲もない木の上に腰かけていた。
視線の先にあるのは、その根元である。
降り積もった雪が、木の根元を見事に覆い隠している。
そこに、『天魔の右腕』が隠されていた。
最初、永久は右腕を守りつつそれを餌にし、奪還しようとしてくる悪魔を倒そうと考えていた。
屋上ならほぼ一日中見張ることが出来たし、学校関係者以外にはおいそれと近づけない。
近づく者がいれば、それは十中八九悪魔である。
実際、斑目はそうやって正体を看破された。
しかし、彰と出会ってからは、彼のアパートも見張らなければならなくなった。
『天魔の右腕』を見つけたのが彼の力だからである。
それを知って、悪魔が彼を狙う可能性があった。
だから今度は、単純に見つかりにくそうな場所に隠した。
多少目を離しても、そう簡単には発見されないように。
町中では安心出来なかったので、結局こんな郊外になってしまったが。
「幸い今のところ見つかってないし。彰もきっと家で大人しくしてるはず。だからあとは、明日までこれを守り抜けば……」
それで今回の戦いは終わる。
あるいは、右腕奪還に失敗した悪魔たちが永久を襲ってくるかもしれない。
そうなったら、返り討ちにして終わらせればいい。
そして、その後は、また一人で――。
「……あー、やめやめ」
先のことはそのときになってから考えればいい。
先のことなど分からないのだ。
分からないことを考えても仕方がない。
携帯していた牛乳を飲みながら、永久は遠くに見える町並を眺めた。
彼女は高校入学に伴ってこちらに来たから、まだ二年しかここで過ごしていない。
それでも、永久はこの町が好きだった。
守りたいと強く願う。
ただ、その町も今は遠い。
永久は一人きりで、山の中に身を潜めている。
誰も訪れないであろう、寂しい場所で――。
「……え?」
そのとき、視界の片隅に何かが移った。
ここから遥か下、山と町を繋ぐあぜ道。
そこを、一台のバイクが爆走していた。
速度規定など無視しきった、信じられないくらい乱暴な走り方である。
乗っているのは二人。
距離があるので、それが誰かはよく分からない。
運転している方がヘルメットをしているのがかろうじて分かった。
そのヘルメットが、わずかに永久の方を見たような気がした。
「……まさか」
そう呟いたときには、既にバイクは見えなくなっていた。
永久は慌てて木から飛び降り、道がある方へと走り出す。
彼が来るはずなどない。
あんなひどいことを言って別れたのだ。
たった数日、一緒にいただけなのだ。
それなのに、危険だと言っておいたにも関わらず、こんな時間にこんな場所までやって来るはずがない。
それでも、確認しておきたかった。
不安を拭い去るために、そしてかすかに浮かび上がった期待を押し殺すために。
木々の間を駆け抜けていくうちに、バイクの走行音が次第に近づいてくる。
やがて道が見えてきた。
永久はそこには出ずに、脇にある木の上に跳躍する。
もしバイクに乗っているのが彰なら、隠れている永久に気づくだろう。
他人だったら、そのまま素通りするはずである。
バイクはすぐに現れた。
真っ暗な夜の山を、ライトが眩しく照らし出す。
永久は思わず目を瞑った。
そして、バイクは永久が潜んでいる木の前で停止した。
運転していた方がバイクから降りる。
彼は、ヘルメットを外しながら永久の方を見上げて言った。
「――君は、そんなところで何をやっているんだ?」
呆れと安堵が入り混じった視線を永久に向けて、不瞳彰がそこに立っていた。
木から飛び降りてきた永久は、何か言いたげな視線を彰たちに向けてきた。
葉子は彰の後ろでじっとしている。
永久を警戒しているようだが、積極的に敵対行動を取るつもりはないようだった。
一応、彰が事前に説得しておいたのである。
永久は一瞬、彰を見て安堵の表情を浮かべた。
が、すぐにそれを打ち消し、厳しい面持ちで睨みつけてくる。
「なんで、こんなところに来たのよ」
「君を追ったらここに着いたんだ」
「……なんで、私のところに来たのよ」
「放っておけないからに決まってるだろ」
彰は自嘲気味に笑う。
「最初からそうだったんだ。放っておけなかったんだ。一人きりで戦ってる君が放って置けなくて、協力を申し出た。……今度も同じだ。やっぱり君は、放っておけない」
永久はそっぽを向いて、
「迷惑」
と、短く言った。
しかし彰は怯まない。
「そうでもない。役に立てる方法がようやく思いついたんだ」
「……え?」
永久は意外そうに口を丸くした。
彰は、顔の右半分を覆い隠す前髪をかき上げた。
その下にあったのは眼帯ではなく、強い意思を秘めた右眼である。
「この目と君がいれば、今夜にでも決着がつけられる。俺が来たのはその方法を思い出したからだ」
「そんな方法、あるの?」
「自分でも呆れるぐらいだ。あのベランジェールって悪魔と戦ってから、俺は自分のことを役立たずだと思いこんでいた。だから忘れてたんだ、と思いたい」
少しだけ冗談っぽく言ってから、彰は言った。
「君は既に敵の親玉と出会い、相手を認識した。つまり君は、奴へと続く『線』を作ることが出来るようになっているはずなんだ」
「あっ……!」
永久も気づいたのだろう。口元に手を当てながら瞠目する。
最初に出会ったときは、敵のことがよく分からなかった。
だから彰の右眼が真価を発揮出来なかった。
しかし今は違う。
永久がベランジェールを強く意識すれば、彰が相手の元へ続く『線』を見ることが出来るのである。
相手の出方を待つ必要はない。こちらから攻めることが出来るのだ。
「永久、どうだ? これでも俺は役立たずか?」
彰は永久に向かって一歩進む。
「俺は君を放っておけなかった。君は一人で戦ってる。一人で自分の内にあるものと、外の敵と戦ってる。その辛さは、俺にも少しは分かるつもりだ」
誰もが敵となった、幼い頃のあの教室。
そして、それを否応なく彰に伝えた右眼。
彰はそこから逃げた。
しかし、永久は逃げずに戦っている。
ゆえにその姿に憧れた。
けれど、それはとても危うい光景だった。
「だから、助けたいと思ったんだ」
自分が逃げたところで頑張っている少女には、自分のようになって欲しくなかった。
「君に迷惑をかけたいわけじゃない。俺が完全に役立たずなら大人しくしていた。君が本気で嫌がるなら、俺は何もしない。……けど、俺はそうは思わなかった」
永久の目の前で足を止め、彰はじっと彼女を見た。
「君は無理して俺に気を使ってるだけだ。これ以上巻き込まないようにと」
彰は永久を正面から見据え、はっきりと言った。
「俺に――仲間に妙な気遣いはいらない。前にも言ったことだ。……永久、仲間として答えてくれ。君は、俺と一緒にいない方が本当にいいのか?」
永久は哀しげに目を伏せ、ゆっくりと首を振る。
「……そんなことない」
小さくて、今にも消えてしまいそうな声だった。
「そんなことない。……彰と一緒にいて楽しかった。いろんなところを一緒に歩いたり、あちこちで食事したり。危ないのに、離れてた方が安全なのに、それでも一緒にいてくれて……駄目だって分かってるのに、嬉しかった」
永久は今にも泣きそうな顔をしていた。
嬉しさと、それを否定する思いとがない交ぜになっているのだろう。
そんな彼女の頭に、彰はポンと手を乗せた。
「その言葉が聞けて良かった」
彰は満足げに何度も頷く。
そして、永久に向かって手を差し伸べた。
「未熟者でいらん苦労や迷惑をかけるかもしれない。けど、一つでも出来ることがあれば、俺は全力で君を助ける。――約束だ」
永久は少し悔しそうな表情でそっぽを向いて、
「……馬鹿」
と、彰の手をそっと握った。
顔は背けたまま、永久は手に力を込めて呟く。
「彰、約束は出来る限り守る主義なのよね」
「ああ。進んで破ったことは一度もない」
「それならもう一つ約束して。……絶対に死なないって」
彰からは永久の表情は伺えない。
しかし彼女から伸びる『線』が、そして震える手がその心境を如実に物語っている。
……これは、なんとも厳しい約束だな。
そして、なによりも優しい約束でもある。
「――約束しよう。俺は死んだりしない」
彰がそう言うと、永久は正面に向き直った。
そこには申し訳なさと喜びがない交ぜになった顔があった。
「ごめんなさい。……それと、ありがとう」
どこか恥じ入るように、永久は頭を下げた。