第十話「暗澹」
午後六時過ぎ。
彰と別れた永久は、一人民家の屋根の上に座っていた。
少し早めに出てきた月を、憂鬱そうに見上げている。
もっと早く、ああしておくべきだったのかもしれない。
夕方の彰とのやり取りを思い出して、永久は溜息をついた。
彰は不思議な右眼を持っているようだが、それ以外は普通の人間と変わらない。
そんな彼を、このような争いに巻き込むべきではなかった。
永久は月に向けて左手を伸ばした。
月光に照らされた掌を見つめる表情は毅然としている。
その内には、天魔の魂が宿っている。
それを手に入れた日――戦うと決めた日に誓った。
もうあの子のような犠牲者を出さないために、たった一人でも戦い続けると。
「これでいいんだよね、梨絵……?」
永久は、今はもう亡き親友に問いかけるように呟いた。
そのとき、ポケットに入れていた携帯が震動した。
着信画面には、今の親友の名前が表示されている。
『あ、もしもし。永久?』
のんびりとした、しかしそこに心配そうな響きを含めた声。
それを聞いて、永久は申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「うん、私。どうしたの、茜」
『今日も帰らないの?』
家出した子供を心配する母親のような口調だった。
永久はやや気まずそうに答える。
「うん……ごめん」
『理由は、やっぱり教えてくれないのかな』
「ごめん」
『いいよ。でも、無茶だけはしないでね』
温かい言葉をかけてくれる親友に、永久は心の底から感謝した。
最近毎晩出歩いているせいか、永久にはいかがわしい噂が流れていた。
男を作って遊び歩いている、危ない薬に手を出した、などといった類のものである。
茜もその噂は聞いているのだろう。
しかし、永久の前ではそのことをおくびにも出さない。
永久を心から信用し、支えてくれているのである。
そんな親友がいるからこそ、永久はこうして戦い続けることが出来る。
ありがたい親友だった。
だからこそ、茜に本当のことは言えない。
永久のしていることを知って、茜がどんな反応を示すか。
彼女は類稀なるお人好しだから、おそらく放ってはおかないだろう。
彰のように協力を申し出てくるかもしれない。
それだけは絶対に避けねばならない。
彰も茜も、こんな戦いに関わるべき人ではない。
彼らには、日常の中で生きていて欲しい。
「茜」
『何?』
「……いつも、ありがとね」
そう言って、永久は返事も待たずに電話を切った。
口にした瞬間、恥ずかしさが込み上げてきたのである。
通話が終われば、彼女はまた一人。
いつものことだというのに、なぜか今日は少し寂しかった。
初めて仲間を得て――そして、失ったからだろう。
彰と過ごした時間は、友情を育むには短すぎた。
それでも、今まで一人きりで戦い続けてきた永久にとっては、心躍るような日々だった。
役に立とうが立つまいが、永久は彰がいてくれたことが嬉しかったのである。
だから、彼の好意に甘えてしまった。
何かあっても、自分が彼を守ればいい。
そう考えていた。
しかし、昨日ベランジェールが襲撃してきたときに永久は気づいてしまった。
自分の力では、彼を守り切れるかどうか分からないということに。
昨日の戦いで黒い霧によって視界が覆われたとき、永久が一番焦ったのは敵の姿が見えなくなったことではなかった。
彰の様子が分からなかった。
そのことが、もっとも彼女を動揺させた。
結果、隙を見せるはめになり、必要以上の傷を負ってしまった。
その事実が、永久の心に陰りを生じさせた。
戦いが終わってから彰のことを誉めそやしていたのは、内心湧き上がりそうになる不安を抑えつけようとしたからである。
……駄目ね、こんなんじゃ。
彰を突き放す覚悟が出来たのは、今日彼の話を聞いてからだった。
それまでは決断することが出来なかった。
気が緩んでいる証拠だと、永久は自分自身に喝を入れる。
極力普通の人は巻き込まず、たった一人でも戦い続ける。
それが、倉凪永久本来のスタイルだった。
気を引き締めなおして、明日まで右腕を守り抜かねばならない。
否、その先も戦い続けなければならない。
決意を新たに、永久は左手を力強く握り締めた。
……でも、楽しかったな。
その言葉を、心の片隅に追いやりながら。
――昔、彰が『先生』と出会う前の頃。
友達の家で不幸があった。
母親が亡くなったのである。
その子は普段から元気で、誰からも好かれる子だった。
しかし、母親を亡くしてからは別人のように無口になり、クラス全体が沈みがちになってしまった。
その子は、彰と一番仲の良い友達だった。
沈んだ友達を、そしてクラスを放っておけず、彰はいろいろなことをやって雰囲気を変えようとした。
だが、それはほとんど失敗に終わった。
無理に場を盛り上げようとする彰の言動は不謹慎と取られ、次第に彼を見る周囲の視線は冷えていった。
それでも彰は、一番の友達であるその子を元気づけようと奮闘した。
しかし、それも終わりを迎えることになった。
『いい加減にしてよ!』
一番の友達だったはずの子は、そう言って彰に殴りかかってきた。
子供だったこともあり、彰もかっとなってそれに応じた。
そして、喧嘩の最中に眼帯が外れ――彰はようやく、自分の置かれている状況に気づいた。
あちこちから自分に向けられた『敵意の線』。
それは、地獄と言ってもいい光景だった。
仲の良かったはずの友達が、顔と名前ぐらいしか知らないクラスメートが、全く面識がないよそのクラスの子が。
そして、彰が一番の友達だと思っていた子が。
誰一人残すことなく、彰に敵意の視線を向けていたのである。
……やればやるほど、泥沼になっていった。
彰が人と関係を持つことに臆病になったのは、それからである。
あんな光景は、二度と見たくなかった。
憎まれるぐらいなら、いっそ『線』など向けられないようにした方がいいと思った。
嫌な奴と思われるよりは、どうでもいい奴と思われた方が楽だった。
楽しそうに笑いあうクラスメートたちの輪を、少し離れたところでじっと見ながら、ずっと自分にそう言い聞かせてきたのである。
捜し屋を始めてからも、そのスタイルは変わらなかった。
親身になって顧客の相手をしたことはあるが、あくまでそれはビジネスだと割り切っていた。
彼らにとって彰は捜し屋であり、彰にとって彼らは客である。
仕事が終われば、それきりの関係だった。
しかし、永久の場合は違った。
出会ったきっかけは捜し屋の仕事だったが、彼女は客ではなかった。
永久にとっても、彰は捜し屋ではなかった。
……仲間だった。
この二日間、短い間ながら、二人は確かに仲間として過ごしてきた。
彰はさして役に立てなかったが、それでも永久は嬉しいと言ってくれた。
彰も、彼女と過ごした時間は楽しかった。
「くそ、何を今更……」
それを捨てたのは彰自身である。
その判断が間違っているとは思わない。彼女の負担を減らしたことは、事実なのだから。
しかし、彰の気分は晴れない。
むしろ、どんどん沈んでいく。
永久が別れ際に少しだけ見せた辛そうな表情。
そして右眼が捉えた、大きく揺れる彼女の『線』。
それが、彰の脳裏に焼きついて離れない。
「あんな顔してるから、放っておけなかったのに……俺がさせて、どうするんだよ」
陽はとっくに落ちているのに電気もつけず、彰は暗い部屋の中、一人苛立たしげに髪を掻き毟っていた。