第九話「決別」
翌日の、夕刻。
永久の学校が終わる時間を考慮して、二人はいつもの掲示板前で五時に待ち合わせをしていた。
「……どうも」
「……ああ」
昨日は笑って別れたはずなのに、今日の挨拶は憂鬱だった。
彰も永久も互いに表情を曇らせ、相手から視線を逸らしていた。
全ては昨晩のことが原因である。
それは分かっているのだが、どう切り出していいかが分からない。
彰はこっそりと溜息をついた。
昨日、秋野葉子と名乗る悪魔から聞かされた話。
彰はそれを全て信じているわけではなかった。
いきなり訪ねて来た相手の言うことを鵜呑みにすることは出来ない。
しかし、頭から否定出来ないのも事実だった。
葉子の言葉は、出任せにしては出来すぎている。
永久自身に尋ねてみろとまで言い切ったのだ。
全く根拠のない話だとは思えない。
永久はまだ何かを隠している。
それは間違いないだろう。
問題は、どうやってそれを聞き出すかである。
二人は今、駅の裏手にある涼風大橋にやって来ていた。
数年前の駅の改装に合わせて造られた、比較的新しい橋である。
川向こうにある風切町と繋がっており、移動が便利になったということで人々に人気の場所だった。
今も車道を、車が何台か駆け抜けていく。
「なあ、永久」
橋の真ん中で、彰は足を止めた。
「……昨日、あんなところで何してたんだ?」
訊きながら後ろを向く。
永久は困ったように頭を掻いていた。
「訓練の途中だったのよ」
「なら、なんで逃げたんだ?」
「べ、別に逃げたわけじゃないわよ。そういう彰こそ、昨日はどうしたのよ。夜は部屋から出るなって言っておいたじゃない」
「あー……それは」
彰は永久から視線を逸らす。
冷たい風が前髪を揺らし、隠された眼帯をわずかに晒していた。
「……悪魔って名乗る女が、訪ねてきたんだ」
隠しても仕方がない。
彰は素直に話すことにした。
当然、永久は驚いた。
「訪ねてきたって……大丈夫だったの、彰?」
「ああ、ベランジェールだっけ? 昨日の昼間の奴と違って、敵意はないみたいだった」
「ふうん。親人派かしら。あるいは、彰のことを利用しようとしているか……」
永久は口元に手を当てて、なにやらぶつぶつと呟き始める。
声が小さくて何を言っているかは分からなかったが、どうやら彰を訪ねてきた悪魔について考察しているようだった。
「ねえ、そいつは何か言ってた?」
永久の問いかけに、彰は開きかけた口を慌てて閉じた。
葉子が話した内容を、そのまま永久に言っていいものかどうか。
その迷いが顔に出てしまったらしい。
永久は険しい表情を彰に向けてきた。
「彰、答えて。場合によっては貴方が危ない目にあうかもしれないのよ」
「……永久」
このまま黙っていては何も分からない。
彰は意を決して、永久を正面から見据える。
「そいつにいろいろな話を聞かされた。答えてくれ、君は――『左腕』を持ってるのか?」
その瞬間、永久の表情が凍りついた。
驚愕に目を見開き、半歩後退りする。
予想以上の反応に彰も驚いたが、どうにか呼吸を整えて尋ねなおした。
「答えてくれ。君は、『天魔の左腕』をその身に宿しているのか?」
問いかけながら、彰は眼帯に手をかけた。
右眼が開かれ、彼女が発する『線』が見えた。
小さく、か細い『線』である。
風が吹けば千切れてどこかに飛んで行きそうなくらい弱々しかった。
それは彰ではなく、彼女自身の左腕に向けられている。
やがて永久は沈んだ表情で、小さく頷いた。
「……ごめん」
その謝罪は肯定を意味していた。
「なんで、黙ってたんだ?」
なるべく平常心を保つよう心がけながら、彰はそっと尋ねた。
永久は橋の外に目をやりながら、
「あんまり、話したいことじゃなかったの」
沈痛な面持ちで、そう答えた。
斑目や童女を打ち倒したときと同じ顔だった。
その顔を見て、彰は問いかけたことを少し後悔する。
しかし、まだ訊かなければならないことはあった。
「君は……天魔になるつもりなのか?」
秋野葉子が示した、倉凪永久の可能性。
そのことは、絶対に確かめなければならなかった。
永久は肯定も否定もせず、ただ川の流れを見ていた。
沈黙が流れる。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。
それと同時に、彼女は静かに言った。
「私に、そのつもりはないわ」
しかし、と彼女は続ける。
「いつまでそう言ってられるかは、分からないけど」
彰は昨日、葉子が言っていたことを思い出す。
永久に残された道は、天魔になるか他の候補者に大人しく殺されるかのどちらかだけ……。
「天魔の魂だもの。欠片と言ってもそれを欲しがる奴は多い。もし手に入れられたら、絶大な力が自分のものになるんだし。……私の持ってる『左腕』だけでも、この橋ぐらいは簡単に壊せる」
言われて、彰は周囲を見渡した。
涼風大橋はざっと見ても、五百メートルぐらいはありそうだった。
二車線の車道と、その脇に歩道を備えた頑丈そうな橋である。
これを簡単に壊せるほどの力。
それを、眼前の少女は有していると言う。
「一旦取り込んだ天魔の魂は死ぬまで引き離せない。だから私はそれを狙う奴らと一生付き合っていかなくちゃいけない」
永久の『線』が一際大きく震えた。
まるで、その事実に怯えるかのように。
「いつかそのことに嫌気がさして、いっそ自分が天魔になってやろうって思うようになるかもしれない。少なくとも、そうならないって保証は出来ないわ」
誰かが天魔になれば、『天魔の欠片』を巡る戦いは終わる。
それはつまり、永久が生きて平穏を手にするためには、自らが天魔になる以外に方法はないということだった。
天魔になるか、殺されるか、一生戦い続けるか。
どの道も、重すぎる。
「――なら、なんで君はそんなものを取り込んだんだ」
彰は非難するように言った。
天魔になるつもりがないのであれば、最初から『天魔の左腕』など取り込まなければよかったのである。
今更言ったところで意味はない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「……それは」
永久は言いにくそうに口を閉ざした。
冷たい風が明たちの間を通り抜けていく。
まるで、二人の間を遮るかのように。
「……悪い。こんな風に訊くことじゃなかった」
彰は頭を下げた。
……まったく、俺らしくもない。
他人に必要以上の干渉をすることは出来るだけ避ける。
それが、彰が普段心がけていることだった。
だと言うのに、余計なことを言ってしまった。
彰は永久から視線を外し、彼女と同じように川に目を向けた。
「……その悪魔は、彰になんて言ったの?」
覇気のない声で永久が尋ねる。
彰は少しためらいながらも、正直に話すことにした。
永久が危険だと言われたこと。
そして、今回の一件から手を引くように言われたこと。
それを全て聞き終えると、彼女はゆっくりと頷いた。
「そっか……」
どこか寂しげに呟き、永久は彰の方に向き直った。
「ねえ、彰」
「なんだ?」
何か、嫌な予感がした。
永久の『線』は彰へと伸ばされている。
先ほどまでのような弱々しさはない。
強い意思を秘めた、真っ直ぐな『線』だった。
ただ、それはひどく儚くも見えた。
永久はかすかに眉尻を下げて、言った。
「――もう、終わりにしよ」
その言葉を後押しするように、一際強い風が吹いた。
「その悪魔の言う通り。彰はそろそろ、こんなことから手を引くべきだと思う」
永久の『線』に、拒絶の色が浮かび上がる。
それを向けられているのが自分なのだと理解して、彰の胸が痛んだ。
「これ以上関わったって、彰にはいいことなんかないわ。それどころか、死ぬかもしれないのよ。だからもう、無理して私に付き合わない方がいい」
昨日、朝見にも似たようなことを言われた。
無理はするな、と。
脳裏に浮かび上がったその言葉を打ち消すように、彰は言った。
「……俺は、別に無理して君に付き合っているわけじゃない」
「それは多分、自分では気づいてないだけよ。私から言わせれば、貴方は無理に無理を重ねてる。分かってる? 貴方は三回も死にかけてるのよ?」
そのことを持ち出されると、彰は何も言えなくなる。
永久がいなければ、あの晩、彰は斑目に殺されていただろう。
あの童女に殺されていたかもしれない。
昨日だって、危ないところだった。
「だけど、全く戦えないわけじゃない。昨日はそれなりにやれた。君だってそう言ってただろう!」
「あんなの、お世辞に決まってるじゃない」
食い下がろうとする彰を、永久は無情の一言で切り捨てた。
次第に表情が氷のような冷たさを帯び始めてきている。
「それに、私としても貴方がいない方がやりやすいわ」
「なに……?」
「だってそうでしょ。その右眼も全然役に立ってないし、戦う力も持ってない。貴方がいない方が、私も集中して戦える分、気が楽なの」
永久が言っていることは、どうしようもないくらい正論だった。
彰は今のところ、何の役にも立っていない。
そうならないように気をつけてはいるが、実際はただの足手まといに過ぎない。
そんなことは、彰にも分かっていた。
「つまり、俺が邪魔だってことか?」
彰の問いかけに、永久は一瞬だけ辛そうに顔を歪めた。
しかしすぐに感情を打ち殺し、
「……そうよ。貴方は、邪魔」
突き放すように、そう言った。
「そうか」
彰は嘆息する。
永久が彰を不要と言い切ったのなら、もう何も言うことはない。
もう、何も言えることはない。
「――分かった。俺は手を引く」
眼帯を元に戻しながら、彰は頷いた。
右眼が塞がれる寸前、永久の『線』が大きく揺れるのが見えたが、もうどうでもよかった。
相手がいいと言っているのだ。
あまりしつこくするべきではない。
永久が本心で言ったにしろ気遣いで言ったにしろ、彼女が彰を拒絶したことに変わりはない。
ならば、さっさと身を引く。
それが、不瞳彰のスタイルだった。
永久は口元をきつく結んだまま、視線を落としていた。
そんな彼女を極力直視しないようにしながら、彰は最後に一つ尋ねてみた。
「でも、そうなると俺の安全はどうなるんだ?」
「そんなの知らないわよ。私は『右腕』を守り通すので手一杯なんだから」
それを聞いて、彰は満足そうに頷いた。
これぐらい言われた方が、後腐れがなくてちょうどいい。
そんな風に自分に言い聞かせ、彰は永久と別れた。
最後まで、視線を交えぬままに。