メリーさんが後ろに
夜、俺の携帯から着信音が鳴った。
単身赴任している俺を心配して、妻の真澄がかけてくれたのだろうか。あるいは娘の叶が愛しい父の声を聞きたがっているのかもしれない――なんて思ったが、土日には家に戻っているのだから、そんなことまずありえない。
どうせ仕事の業務連絡だろうな。
そう思いながら俺は本に栞を挟むと、布団から体を起こして携帯を開いた。
あれ?
発信者に名前はなく、代わりに十一桁の未登録番号が表示されていた。つまり、未登録の誰かということだ。
仕事をしていくのに必要な番号は全て登録済みである。そして、ここ最近誰かが番号を変えたという連絡は受けていない。
間違い電話か?
無下に切ってしまうのは良くないだろう。それにもしかしたら、俺が聞き逃しただけで仕事先からという可能性だってあるのだ。
相手から見えるわけがないと知りつつも、俺は反射的に正座をしてから電話に出た。
「もしもし、吉井です」
『……』
「もしもし?」
再度の問いに対しても相手は無言だった。電話越しから電車が停車する音が聞こえる。そして扉が開くと、アナウンスが駅名を告げた。
それは俺の家の最寄駅だった。
「あの、ご用件はなんでしょうか」
これ以上黙っているなら切ってやろうと思っていた。
その時である。
『あははははは!!』と相手は甲高い声で狂ったように笑いだした。『初めまして、私メリー。今駅の前にいるのよ』
「め、めりぃ?」
突然のことにその場で一センチほど飛び上がりそうになったが、俺はそれ以上にあまりの胡散臭さに眉を寄せた。
『めりぃ、じゃなくてメリー。ちゃんと発音してよね』
「すみません……」と俺はつい謝ってしまった。
『まあいいわ。また後で電話するから』
それだけ言うと、電話は切れた。
「……何だったんだ今の?」
呆然と俺は通話終了の画面を見つめた。通話時間はちょうど二分。おそらく無言の方が長かっただろう。どういうつもりか知らないが、俺の脳裏には『メリーさんの電話』が浮かんでいた。
馬鹿馬鹿しい。
あんな古い都市伝説なんて今時小学生だって信じないだろう。どうせ誰かの悪戯か、そうでなければ新手の詐欺に決まっている。気を付けるに越したことはないが、心配するには値しない。
俺は呆れながら携帯を折りたたんだ。
二度目の電話がかかってきたのは、それから三十分ほど経ってからだった。発信者は例のメリーさんである。
俺はかまわずに無視することにした。しばらく鳴り続けるコール音。やがて諦めたように着信音がぷつりと切れると、ほっ、と溜息をついた。
これでもう電話はかかってこないだろう。目的がなんであれ懇切丁寧に対応してやる義務などどこににもない。そんなの上司やお得意様だけで十分だ。
ところが俺の期待を裏切るようにして、今度はメールの着信音が俺の耳に届いた。差出人に名前はなく、見覚えのないメールアドレスが表示されていた。
「おい、まさか」
恐る恐るメールを確認する。
《私メリー。今バス停を降りたの。もうすぐあなたの家に着くわ》
俺は不覚にも鳥肌が立ってしまった。冗談だと思いたい。でもメリーさんは俺の電話番号やメールアドレスを知っており、だんだん家に近づいて来ているらしい。
戸締りは大丈夫だよな。
俺は立ち上がって部屋中チェックした。幸いどこも鍵が開いていたということはなかった。玄関の扉のチェーンはこの前、娘の叶の悪戯で壊れてしまったが、扉の鍵穴は特殊で俺以外だと管理人さんのマスターキーか、真澄に預けた合鍵がない限り開くことはない。
問題はないはずだ、たぶん。
俺の期待を裏切ったのは三度目の電話だった。相手は相変わらずのメリーさん。
無視したらメールが来るに決まっている。
仕方がなく俺は電話に対応した。指がわずかに震えているのは恐怖心からだと自覚していた。
「もしもし……」
『私メリー。あのね、私』とメリーさんは少し間を置いた。『今あなたのアパートにいるのぉ!』
「っ!?」
『今そっちに行くね!』
メリーさんは電話も切らずに息を弾ませながらカンカンカン、という鉄を叩いたような音を鳴らした。俺のアパートにある階段を駆け上がっているに違いない。根拠はないが、俺は確信していた。
くそっ!
舌打ちしている暇もない。俺はすぐに玄関へ向かって、ドアノブを回されないようにしたが。
一瞬遅かった。
メリーさんの言う通り、鍵があっさりと開いてしまい、隙間から指が入り込んだのだ。
俺は怯んで廊下に尻餅をついてしまった。起き上がろうとしても体が言うことを聞いてくれない。
くそったれ。俺が今まで何をした。悪いことなど、会社の電話で真澄と電話したり、叶の運動会に出席するため仮病を使ったくらいである。後は、ああ、面白半分で就活生のフリをして、会社の説明会に足を運んだっけ。それから飲み代を経費で落としたことも何度かあったな。後は――。
俺は神様に懺悔しなければいけない罪の数々を思い出していると、ふと体が揺さぶられているのに気が付いた。どうやらいつの間にか目を瞑っていたらしい。
ゆっくりと、恐る恐る目を開けた。
「何してるの、あなた」
そこにいるのはメリーさんではなく真澄だった。眉をハの字にして心配そうに俺を見ている。
「は、はは……」
俺は笑いが漏れていた。堪える気も起こらない。
真澄なら部屋の鍵を持っていて当たり前ではないか。電話や携帯だってそこらの通行人から借りればいいだけの話である。実に悪戯好きのこいつらしい。
俺は頭を掻きながら、真澄の吸い込まれそうな瞳を見つめた。
「ったく、ひどいな。もっと普通に来てくれればいいのに」
「普通って?」
「メリーさんなんて装わなくていいってこと。真澄の仕業だろう?」
真澄は首をかしげた。
「メリーさん? それ私じゃないわよ」
「え」
俺は耳を疑った。しかし、真澄が嘘をついているかどうかは目の動きでわかる。忙しなく左右に動いていないということは、真澄のメリーさんは自分ではないという発言は正しいということになる。
じゃあ、あの電話は一体。
「ねぇ、それよりも後ろの窓。あれ、何?」
俺は反射的に真澄が指を指した方向へ目を向けた。
なんの変哲もない窓である。夜だからまるで鏡のように室内の様子が写っている。玄関のドアは真澄の体に隠れて見えなかった。
何か見えたのかと尋ねようとした俺の耳元に、
「私メリー。今あなたの後ろにいるわ」
と、メリーさんが囁いてきた。
もう驚く声すら上がらない。顔から嫌な汗が流れ、心拍数はまるで長距離を走った後であるかのように跳ね上がっていた。
俺は生唾を飲み込み、顔を真っ青にさせて後ろを振り向いた。
「……あ?」
俺はかつてこれほどまでに間抜けな声を出したことがあるだろうか。まるで通達もなしにドッキリビデオに出演させられた芸能人のような心境である。
真澄は体を震わせながら必死に笑いを堪えていた。そしてその隣では、目元が真澄そっくりな小学生がしてやったりと言わんばかりの笑顔を作っている。
「叶……」
「えっへへー」叶は小さく舌を出した。「そんな呆れた顔しないでよ。可愛い叶ちゃんが会いに来たんだから、父さんはもっと喜ぶべきじゃない? 感激のあまり財布から諭吉さんを取り出すくらいの甲斐性見せなきゃ」
そんな甲斐性あってたまるか。
「一応聞くが、メリーさんの電話って……」
「わ、た、し。バレないよう裏声使うのって大変なんだから」と叶は言った。
「お前も知ってたんだな?」
「ええ、もちろん」と真澄も首肯した。
「そうか……」
犯人が叶なら、そりゃ真澄の言ったことが嘘になるはずないよな。
俺は納得すると、とびっきりの笑顔で二人の頬を片方ずつ抓った。
「い、いひゃいよ。とおひゃん……!」
「わらひは反対らったのひょぉ!?」
「うしょ! 母ひゃんノリノリらった!」
「ひょれはカナが……いひゃいいひゃい!」
俺はさらに指に力を入れた。ヒートアップしていく責任を押し付け合い。見苦しい母娘喧嘩である。二人を解放した頃にはどちらも仲良く頬が赤くなっていた。
「誰にも傷つけられたことないのに……」
「紛らわしいことを言うな」
最近ませてきただけでなく、性格が真澄に似てきた。俺としてはもっとお淑やかな面と言うか、とにかく女の子らしさを身につけて欲しいのだけど。
手遅れとなってしまったことに肩を落とすと、俺はふと気が付いた。
「そう言えば、電話やメールはどうしたんだ?」
「これよ、これ」
まるで自慢するかのように、叶は俺の目の前に電話とメールしか出来ない子供用ケータイを見せつけてきた。俺は買い与えた覚えなどない。新しい携帯であれば、電話番号やメールアドレスに見覚えがないのは当然だ。
「友達はみんな持ってるって駄々こねるから仕方なく買ったの」と真澄は苦笑しながら説明した。
やれやれ。
電話やメールは相手とのコミュニケーションを図るために使われるものだ。怖がらせてどうする。
思わず口に出してしまいそうになったが、どうせ屁理屈をこねられるのだ。言うだけエネルギーの無駄使いである。
「ここへ来たのは自慢するのが目的か?」
「それもあるよね」
意味ありげに叶は笑みを浮かべた。
「他には」
「言ったじゃん。メリーさんが父さんの後ろにいるって」
「メリーさんは叶だろ」
「ブッブー!」と叶は胸の前で大きな×印を作った。「残念ながら真のメリーさんは私じゃありません」
「じゃあ誰だよ」
「この子!」
叶が指を指したその先。
そこは真澄のお腹だった。
「……マジ?」
「マジ」ちょっと顔を赤くして真澄は言った。「それと安心して。カナが発案した芽理井って名前は却下するつもりだから」
ホラー要素を抜いたメリーさんの作品です。
ちなみに今回でやっと四作目になりました。
次回の投稿は三月くらいだと思います。