終頁
涙をこぼし肩を震わせる里音に、貴砂はどんな言葉を返せばいいのか分からない。里音を受け入れればいいのか。里音を拒絶すればいいのか。
里音との思い出はもう最後だから、こうして彼を抱きしめている。そう思っていたのに、貴砂次第でここで終わらせるか、続けるかを選ぶことができるのだ。
両腕に抱く里音の感触が心地良い。彼の体温がじかに伝わってくる。ほんのりとかおる里音のにおい。記憶呑みの貴砂の腕にゆだねられた、人間の少年が一人。
貴砂は誰にも縛られることなく自由に生きている。自分で自分の生き方を決める生活を続けていると、常識や世間体からどんどん遠ざかっていく。年の差がいくつもあるとか、相手がまだ小さな男の子だとか、そんなしがらみがとてもちっぽけになってしまう。かつては貴砂の気持ちをせき止めていた防波堤も、里音の気持ちを知った今ではあまりに弱く頼りなげになってしまっている。
「僕、がんばるから。
がんばってお姉ちゃんを守るから」
その小さな身体でどうやって貴砂を守るというのか。思わず苦笑してしまいそうな発言だったが、それでも里音の気持ちは真剣そのものだった。
「お姉ちゃん?」
それまでよりも少しだけ強く、里音を抱く。里音はほおを朱に染めながら、とまどった声で貴砂の名を呼んだ。
里音の何もかもが愛おしい。顔も、声も、男未満の細い身体も、汚れを知らない繊細な魂も。里音に貴砂を選ぶ覚悟があるのなら、きっと貴砂だって彼の手を取って進んでいける。たとえそこが禁じられた領域であろうとも。
呼吸がだんだん荒くなり、視界が暗くかすむ。理性の力が弱まっていく。ぼんやりとした顔で里音の首筋にくちびるを寄せる貴砂。そんな貴砂に、里音は目を固く閉じてかすかに震えていた。
里音の気持ちをもっと知りたい。里音の心に触れたい。彼の全てを知りたい。もう今の貴砂はそれしか考えられない。頭の中に濃い白い霧がかかったように、まともにものを考えられなかった。
里音の肩に回していた左腕が、見えない糸に引かれるようにして勝手に動く。ゆるく開いた左手は蜘蛛の脚のようだった。
毒蜘蛛が獲物に忍び寄るかのごとく、ゆっくりと里音の頭に迫る。里音はきつく目を閉じたまま気づかない。
指が里音に触れる寸前、貴砂は我に返った。そして何が起こったのかを理解し、がく然とする。無意識のうちに、自分は里音の記憶を食べようとしていた。
ほかでもない我が身への悪寒でトロンと酔っていた頭が急速に醒めていく。今なら――はっきりと分かる。今、貴砂の心を占めているものは、里音への優しい愛情と、それに等しいだけの強い食欲。
ここしばらく人の記憶を喰っていない。たとえ反吐が出るような記憶でも、腹におさめなければ栄養が足りなくなるのだ。
しかし、脳の空腹だけが原因ではない。愛しい人の記憶を取り出し、思い出を味わって恋人の心を直接知ること……それは言葉や身体のやりとりでは到底及ばない、記憶呑みにしか実現しえない至高の愛。純血の記憶呑みの貴砂は、本能的にそれを実行しようとしたのだ。
里音を好きになればなるほど、彼の心と交ざりたくなる。里音の記憶が食べたくてたまらなくなる。これ以上里音といっしょにいれば、いつか自分は里音を食い尽くす。里音の中身を奪い尽くしてしまうだろう。きっとそうなるという確かな予感が貴砂にはあった。
ハーフやクオーターの混ざり者の記憶呑みと違って、貴砂の身に流れる血は最高純度の記憶呑みの血。能力や血の価値は最高だが、同時に種族の本能の強度も最高だった。今日は奇跡的に本能を抑えることができたが、これから先に自分を抑え続ける望みは……無い。いつかは恋心と種の本能のおもむくままに、里音の記憶を毒牙にかける。
足元が崩れ、奈落の闇に落ちるようだった。貴砂はかつてこれほどまでに自分に流れる血を呪ったことはない。
結局、どこまでいっても貴砂は記憶呑みで里音は人間。二人の間には種族の壁という超えられない差があった。まして二人はまだ子ども。逃避行など夢のまた夢だった。
里音と二人で手をつなぎ、誰もいない道をどこまでも歩く。どんなに辛い旅でも、おたがいさえいれば何もいらなかった。満ち足りた幸せな日々が続いていた。貴砂は目を閉じ、そんな光景を刹那の間だけ夢想する。
里音の身体に回していた腕を引き離すのがこんなにも辛いとは思わなかった。一度は手に入れた大切なものを手放すときの苦しみだった。貴砂は里音から身を離し、その両肩を優しくつかむ。そして里音と見つめあった。
「男の子が転校くらいで何言ってるの。
いろいろ世間を見て回って強くなれ」
「お姉ちゃん」
せいいっぱいの笑顔で里音の旅立ちを祝福する。しかし、まだ大人未満の貴砂には経験が足りない。そのせいで感情を制御しきれずに貴砂の声はかすかに震えていた。
里音を愛し、彼と過ごし、少しずつ里音をむしばんでいく未来ではなく、貴砂は里音との別れを選んだ。もう会わないことが、里音にしてあげられる最良の選択であることを信じて。
「里音。目を閉じて?」
言われた通り素直に目を閉じる里音に、貴砂はそっとキスをした。彼女の生涯で初めてのキス。里音への愛と、感謝と、別れの挨拶をかねた最初で最後のキスだ。
貴砂は短いキスを終えて顔を離す。里音は不意のいたずらに驚いたような顔つきで貴砂を見つめ返していた。
あるいは里音にとっても初めてのキスだったのかもしれない。それを一方的に奪うのは反則のような気がしたが、べつに構わないだろうと貴砂は思った。どうせ里音の中から、貴砂は永遠に抹消されるのだから。
貴砂の深海のような瑠璃色の髪がふわふわと揺れる。記憶呑みの能力を最大限に発揮する時の現象だ。
貴砂の力の高まりに反応して、薄暗い部屋の中にいくつもの光が浮かび上がった。
「すごい……」
部屋の中を見回しながら、里音は心を奪われたような様子でつぶやく。
廃屋に染みついた記憶の残りが貴砂の力の影響を受けているのだ。夜闇にたくさんの蛍が舞っているかのように、無数の青白い光の粒が天井に昇っては消える。残留思念が残らず浄化され、散っていく光景だった。
里音との優しい日々も、周囲に幽霊屋敷として恐れられていた廃屋も、今が終焉の時。
「ごめんね。里音」
せめて笑顔でお別れをしよう。そう思って笑ったというのに、まなじりからあふれこぼれる涙が止まらない。
そして、貴砂は里音の頭に手を伸ばす。記憶を奪い、喰う貴砂の手に触れられて、里音は眠るように目を閉じる。
貴砂が触れた里音の記憶は、今まで食べてきたどの記憶よりも甘く、胸がしめつけられるような素敵な味がした。
長く居ついた街を離れる前に里音のマンションへ立ち寄った。以前にセイに見送らせたから、彼の家の場所は分かっていた。
マンションの前には引っ越し用の段ボールをいくつも積んだ運送トラックが停車していた。親の転勤によって里音はこの街から去っていく。
ひと目里音を見るだけでいい。今となってはもう話すことは何も無い。貴砂は生活用品をつめたナップザックを肩にさげ、遠くからマンションを見つめ続けた。
そのままどのくらいの時間が経ったのか、貴砂にはよく分からない。長いようにも感じたし、短いようにも感じられた。
一人で道に出てきた里音を見て、貴砂はかすかに笑みを浮かべる。そして、里音の方へ向かって歩いて行った。立ち止まらずに里音の横を通り抜け、彼から少しずつ遠ざかっていく。
「お姉ちゃん」
背中に届いた里音の声で、貴砂は思わず足を止めた。意識が白くなるほどに驚き、ゆっくりと振り返る。
「どこかで……会った?」
信じられなかった。里音がもっていた貴砂にまつわる記憶はすべて食べたはずだ。里音が貴砂のことを憶えているはずがない。
「僕、何か大事なことを
忘れてるような……?」
困ったような顔で首をかしげる里音に、貴砂は歩みよって頭に手を置いた。そしてごしごしとなでてやる。
「今度会うことがあったら、
その時に教えてあげる」
「でも僕、引っ越しするんだ」
「だいじょうぶ。
いつか、きっと会える」
貴砂の笑みに、里音は何かを感じとったのだろう。「よく分からないけど、なんだか僕もそんな気がする」と言って笑顔を返す。
「きっと会おうね。約束だよ!」
「うん。約束」
貴砂と里音は笑みを交わし合い、再会の約束をこめた指切りげんまんをした。
前よりも少しだけ里音は強くなっているようだった。「がんばってお姉ちゃんを守るから」という里音の言葉が、貴砂の頭をよぎった。なよなよしていた里音も大人の男への階段を上り始めたのだろう。
「またね。お姉ちゃん」
可愛らしい顔で手を振り走り去っていく里音に、貴砂も笑顔で手を振った。
視界から里音が消え、貴砂は細い道路の真ん中に独り残された。顔の前に上げていた手を下ろし、里音が走っていった先をいつまでも見続けた。
記憶を消すということは、過去を無かったことにすること。それは貴砂が最も嫌う、人が歩いた道を消し去る行為。貴砂への想いにとらわれる里音と決別するには、最も辛く悲しいことをするしかなかった。
里音の中から貴砂という記憶呑みの思い出は消えた。それなのに、まるで残り香のようにかすかに貴砂のことが残っている。それが貴砂には嬉しい。
だが、それでも――。
「……あー、もう。いいかげんに……
吹っ切れろ。泣かないって決めたんだ」
じわりと浮かんだ涙を、貴砂は腕で乱暴にぬぐう。
「キサ。元気を出して下さい」
「ん? ……うわっ……!?」
突然わきに出てきたセイの顔を見て、貴砂は飛び上がらんばかりに驚いた。セイが微笑を浮かべていたからだ。こんなことは今までに一度も無かった。
「ど、どうしたの、その顔!?」
「リオンが教えてくれました。
こうして笑えば、キサを元気づけられると」
「里音が――」
悲しみとは異なる温かなものが胸に満ち、貴砂はふたたび涙ぐむ。セイが笑顔を消して貴砂の顔をのぞきこむ。作り物の記憶人形にはありえないことだが、セイは心から貴砂を心配しているように見えた。
「私の笑顔のせいですか? 今後は
二度と笑わない方がいいですか?」
「いや、セイは笑ってくれた方がいいよ」
「分かりました。私は笑います」
今まで無表情が常だっただけに、セイの微笑は印象的で、彼女の美しい顔によく映える。まだ少しぎこちない笑顔だが、練習と経験を積めばより魅力的な笑顔を浮かべるようになるだろう。
「キサ。心配には及びません。
リオンがいなくなっても、私が
いつまでもキサについています」
「……そだね……。ありがと」
温かさと冷たさをかね備えたセイのなぐさめに、貴砂はぽりぽりと頭をかきながらぼそぼそと応える。
「ちゃんと記憶は消したのに私のことを
忘れなかったり、私が好きだったことに
いつの間にか気づいてたり……。
里音って勘が鋭い子だったのかな?」
「そうなのかも知れませんね」
貴砂の恋心を里音に明かしてしまった張本人のセイにはその自覚がないので何もしゃべらない。貴砂の問いは答えが見つからないまま迷宮入りすることになる。
セイの笑顔は里音の贈り物だ。セイの笑顔を見るたびに里音のことを思い出すだろう。セイを見て微笑む貴砂に、セイもまたにこりと笑う。立ち直った主を見届け、セイはペンダントの中へと戻っていった。
貴砂と過ごした日々の記憶……里音から抜き出したそれは、いまだに貴砂の胸に大切にしまっておいてある。ただの食べ物として消化せず、里音からもらった記憶は宝物として思い出にきざもうと決めていた。
記憶呑みとして生きてきて、色んな記憶を食べてきた。たいていはろくでもない記憶ばかりだが、ごくまれに宝石のように輝く記憶に出会うことがある。里音の記憶は、最高に美しい宝石だった。この宝石には里音が抱いていた貴砂への想いが封じ込まれているのだから。
こんなにも綺麗な記憶を見つけることができるなら、記憶呑みも捨てたものじゃない。あれほど嫌いだった自分と記憶呑みが、今では少し好きになってきていた。
貴砂は大人の女への階段を上りつつある。少年の里音も階段の一歩目を踏み出した。二人が過ごす多感で複雑な時期は二度とやってこない。貴砂と里音は日刻みで成長し、身体も心もどんどん変わっていく。だが、それでも変わらないものが一つ、ある。それは思い出だ。大切な思い出は、いつまでも色あせずに貴砂の胸の中で輝き続けるだろう。
里音といつかまた会う予感がある。再会を果たした時、貴砂と里音はどんな人間になっているのだろうか。きっと里音は、もっともっと素敵になっているだろう。彼に会っても恥ずかしくないように、しっかり前を向いてまっすぐに生きていく。また会ったときは、今回とは違った結末を迎えられそうな、そんな気がする。
里音とまた会うその日まで、彼の思い出は大切に胸の中に秘めておこう。忘れてしまった少年の日の思い出を彼に教えてあげるために。
「さて、行くか」
新しい宝石の思い出を見つけるために、貴砂はナップザックをひっさげて次の場所へと歩み出した。
了




