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自宅に向かって歩く里音の横を、メイドのセイが歩いていた。里音は緊張した面持ちでセイをちらちらとうかがっているが、セイはひたと前を見たままもくもくと歩いている。

一人で帰るのは危ないからセイを護衛につけると貴砂が申し出たのだ。里音が誘拐にでも遭わないか心配だったのもあるが、貴砂がセイにたくした本当の役目は別にある。


『さりげなく、慎重に里音に聞くのよ。

里音に恋人か、好きな人がいるかを』


前日の打ち合わせでは、セイは何度も何度も貴砂にそう言われていた。しかし、そんな複雑で繊細な注文はセイには不可能だった。

十数分の沈黙の後、セイは里音の顔を見つめて初めて口を開いた。


「リオンには愛する人がいますか?」


「えっ」


いくら考えても、セイの生まれもった処理能力では自然な会話の流れの中に聞きたいことを忍びこませるようなことはできなかった。

セイのやぶからぼうな問いかけに、里音は目をぱちくりさせながら返答につまる。


「教えて下さい、リオン。

愛する人はいますか? それとも

いませんか?」


リオンは恥ずかしげに顔を赤らめる。何らかの答えを期待してセイは里音を見つめ続けるが、時間だけがいたずらに過ぎてゆく。


「答えないということは、愛する人が

いないということですか?」


「そういうわけじゃないけどさ……」


「?」


「ごめん、セイさん。恥ずかしくて言えないよ」


「??」


困ったような笑顔を浮かべる里音に、セイは沈黙するしかない。主の貴砂に危害を加えようとする男たちを死なない程度に叩きのめしたり、貴砂に頼まれたいくつかの品を買ってくればいいだけの仕事とは何もかもが違いすぎる。この件については、もはやセイの手には負えなかった。


「リオン。もう1つ、聞きたいことがあります」


「なに?」


「キサは時々、とても悲しみます。

そんな時、私はどうすればいいのかが

分かりません。

リオンと話すキサはとても楽しそうです。

どうすればリオンのようにキサを楽しませる

ことができるのでしょう」


まだ小さな里音にセイの問いかけは重すぎた。唐突の質問に里音は首をかしげ、またも答えに苦しむ。


「笑ってあげればいいと思う」


「笑う、ですか?」


里音は無垢な笑みをセイに向けるが、セイは人形のような無表情のままきょとんとしている。


「好きな人の笑顔を見ると元気が出るよ」


「キサは私が好きなのでしょうか?

私が笑えばキサは元気になりますか?」


「うん。セイさんならきっとだいじょうぶ」


セイは里音の笑顔を真似するが、どうも上手くいかずに笑顔もどきの変な顔にしかならない。里音はくすくす笑い、セイは首をかしげる。


「キサが笑えるのは、キサが好きなリオンが

相手だからなのですね」


「貴砂が……好き……?」


「キサはリオンを愛しているようです」


笑顔の練習中のセイは、ニヤリと笑った不気味な顔で里音を見つめ返す。里音の顔はたちまち耳まで赤く染まり、その場に立ち止まる。

常識的に考えて、貴砂が胸に秘めている思いをセイが里音に暴露してはならない。しかし、人間が抱く感情の中でも最も複雑な部類の恋愛感情を人工生命体のセイが完全に理解できるはずがなかった。



ここ数日、どうも貴砂と里音の関係が変わりつつあった。里音の態度がみょうによそよそしく、言葉数がすっかり減り、何かの壁のようなものができてしまっている。里音は変にそわそわとし、貴砂の顔をうかがっては目をそらしてしまう。

「里音になにか変なこと、言わなかった?」とセイに確認してみたが、「言っていません」としか返ってこない。

里音が気がかりで、貴砂はこの廃屋から一歩も動けない。本来ならばもうとっくの昔に次の街へ移動しなければならないというのに。

廃屋に染みついた残留思念……かつての住人の記憶も、あらかた食べてしまった。もうここにいるメリットはない。貴砂は里音に縛りつけられている。

里音の態度が変わったせいで、もう前のように気さくに話せない。二人の間に、形容しがたいぎくしゃくした空気が流れていた。

貴砂をちらちらと見てはそっとほおを桃色に染める里音は、もう反則的に愛らしい。里音といっしょの空間にいると、貴砂の思考速度は大幅に低下する。まるで蜂蜜の海を泳いでいるように時間がゆっくりと流れるふうに錯覚する。会話が減った分、どうにも怪しい雰囲気がかもし出されてしまうので、貴砂は自分を抑えるのが大変だった。

セイにたくした調査では、里音に恋人や思い人がいるのかどうかは不明だった。里音の少女然とした容姿なら、彼女の一人や二人いてもまったくおかしくない。貴砂が「彼女、いる?」と聞いてしまえばいいだけなのだが、答えが恐くて聞くことができない。それにそんな質問は里音を異性として意識していますと白状するようなものではないか。里音との危うい関係が崩壊しそうで、貴砂には聞くことができなかった。

里音は私のことをどう思っているのだろう? 最近、貴砂は特に強く思う。

里音の心が知れたら。里音の記憶を食べれば、里音の心が分かる。里音の記憶を食べたい。否定のできない強い欲求が貴砂の中でふくらみつつあった。

しかし、貴砂はそれを自覚できない。大好きな里音の心を知りたいという気持ちに重なって、記憶を食べる記憶呑みとしての欲求がおおいかくされてしまっているからだ。

里音と過ごしていると、世界がまったくちがって見えた。辛いことばかりの放浪生活で死んだように止まっていた感性がみずみずしくよみがえる。里音を想う嬉しさと切なさが等しく胸をつつみ、痛みや苦しみが自分が生きているということを教えてくれた。

ここしばらく、生活費をかせぐための取り引きをしていない。里音の汚れない笑顔が頭に浮かび、どうにも夜の街へくりだせないのだ。せっかく甘い気持ちに酔っているのに、人々の薄汚い記憶を腹に入れて最悪の吐き気をもよおすのはとてもできない。それに、無邪気で可愛い里音を前にしていると闇商売に手を染めている自分からは少しでも遠ざかりたかった。

取り引きをしていないため、貴砂は記憶を食べずに過ごしていた。それでも里音が夕方に来てくれれば頭の空腹も気にならなくなった。

貴砂がこの廃屋に無限に居すわっていられるわけがない。明日にも里音がやって来なくなるかも知れない。少しのひょうしで簡単に壊れて終わる砂上の楼閣。それでも貴砂はこの幸せな時間がいつまでも続くような気がしていた。




「また、転校」


日がとうに落ちた頃になってようやくやってきた里音は、長い沈黙の後にぽつりとそう言った。


「…………転校?」


「うん」


うっすらと涙を浮かべる里音に、貴砂は馬鹿のように聞き返す。受け入れがたい現実を貴砂の心が拒絶したからだ。


「いつもこうなんだ。仲良くなったと

思ったころに、転校でお別れになる」


時間が止まったように貴砂は感じていた。目の前に座る里音の声がみょうに遠い。まるでぐわんぐわんと目が回るかのよう。


「もういやだ。いやだよう」


うつむいてしくしくと泣く里音を見ているうちに、貴砂の身体が勝手に動いた。里音のすぐそばに寄り、両腕で包みこむようにやわらかく抱きしめる。

不思議と恥ずかしさや気後れは感じなかった。こうするのが当たり前のようにすら思った。貴砂はうつろな表情で里音の耳に頭を当てる。

二人の日々が終わることをまったく考えなかったわけではない。貴砂は街から街を渡り歩く家出娘で、いつまでも一ヶ所にとどまってはいられない。だから別れがやってきても涙は流れない。ただ、胸の中に宿っていた温かみがどんどん失われてゆき、それが貴砂にはもの悲しい。

どんな言葉で里音を送り出してあげよう。どんな別れの言葉を贈ってあげようか。口を薄く開いても言葉が何も出てこない。気持ちがあふれて、言葉にならなかった。


「今まで会ってきた人の中で、

お姉ちゃんが一番好きだよ」


「ん。ありがと、里音」


「お姉ちゃんと、さよならしたくない」


「私もさびしいな。また独りになる」


貴砂はへへへと小さく笑う。年上で得したなと貴砂は里音と出会って初めて思った。年上のお姉さんだから、子どもの里音をどうどうと抱きしめられる。年長者の立場を利用して少しはだいたんな事も言える。

貴砂に抱きしめられたまま、里音は少しだけ黙りこむ。「だまるなよ。何かしゃべれよ」と貴砂は強く思ったが、口が上手く動かない。静かになると里音の吐息や体温を感じてしまって、よけいに緊張するじゃないか。貴砂は何度もそう思い、痛いほどに胸を高鳴らせる。


「僕も、お姉ちゃんが好きだ」


顔をうつむけたままの里音がしぼり出した言葉は、最初貴砂にうまく伝わらなかった。数瞬後に貴砂は衝撃で頭の中を真っ白にする。

僕も? 里音も私のことが好きなの? 里音に秘かに抱いていた気持ちにいつ気づかれた? 嬉しさと恥ずかしさ、そして驚愕(きょうがく)(おそ)れ。貴砂は大きく目を見開いたまま、微動(びどう)だにできない。

里音を抱いたまま貴砂の五感が一つずつ閉じていくようだった。音が無い白く広い世界の中で里音と二人きりでいるように感じる。


「もう転校もお別れも、たくさんだ。

お姉ちゃんのそばがいい。

僕は、お姉ちゃんについていきたい」

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