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前王朝の遺児は愛されて愛されて困る

作者: 船場
掲載日:2026/10/14

「広大な宮城の、果ての果て。

 朱の剥げ落ちた門は、風に押されるたび、誰かの訪れを告げるように軋む。

 けれど、門をくぐるのは、いつも風ばかりだった。

 築地は崩れ、庭は丈高い草に呑まれている。

 御簾は破れ、燈籠に火は入らない。

 夜ごと、月だけが、誰の許しも乞わず奥の間まで差し込んでくる。

 新しい世を照らす月が、滅びた家にも同じ光を落とす。

 ならばなぜ、ここでは、照らされるものまで寂しいのだろう。

 待っている。

 足音を。衣擦れを。戸を叩く、ためらいがちな指の音を。

 父の代に仕えた者の、せめて一人でも、と。

 萩が咲き、散った。

 雪が積もり、消えた。

 幾たび季節が巡っても、門へ続く道に、人の影は落ちなかった。

 宮城の賑わいは、塀のはるか向こう。

 あれはもう、わたしの家のものではない。

 生かされているのではない。

 討つにも値せぬと、見過ごされたのだ。

 かつて千の声が呼んだ名を、今はもう誰も口にしない。

 その名だけが、この荒れた屋敷に、わたしを繋ぎとめている。

 せめて、名もない野の花であったなら。

 それでも、今宵も戸を開けておく。

 誰も来ないと知りながら。

 閉ざせば、待つことまで終わってしまうから。

 月が傾き、草の先に霜が白む。

 荒れた屋敷の縁に座り、わたしは待っている。

 夜が明けても、訪れない朝を……」


 姫は袖を目元に添え、ほう、と息をついた。

 そのとき、玄関のほうで、静かに戸の開く音がした。


「……そのように、思われていたのですか」


 振り向くと、皇帝の甥、天賢王が立っていた。

 いつからそこにいたのだろう。

 姫は膝の上の物語の冊子を、そっと袖で隠した。


「い、いえ」


 笑顔を作ったつもりが、頬が引きつった。


「こういう物語を読んだばかりでして。なりきってみただけですの」

「物語、ですか」

「そうですの。ほほ、ほほほ」


 天賢王の視線が、袖からはみ出した冊子へ落ちる。

 姫は、もう少し深く隠した。

 隠してから、これではかえって怪しいと気づいた。


「それでしたら、安堵いたしました」


 天賢王は、ようやく息をついた。

 けれど、その美しい顔には、まだ憂いが残っている。


「陛下も、姫のためにできる限りのことを、とお考えです。先日、屋敷の修繕をお断りになったのも、本当はご遠慮だったのではありませんか」

「いいえ! このままがよいと申し上げたのは、本心ですわ」


 姫は勢いよく首を振った。

 朽ちた屋敷に、草深い庭。

 悲劇の姫を演じるには、これ以上の場所はない。

 綺麗に直されては困るのである。


「では、その……私の心が通じていないわけでも、ないのですね」


 長いまつ毛が伏せられた。


「姫には、ずっと心を配っておりますものですから」

「わ、わかっております!」


 姫は慌てて冊子を膝の脇に置き、両手を振った。


「陛下や天賢王殿のお心遣い、わたくしも身に染みておりますから!」


 その返事に重なるように、裏手から大きな笑い声が響いた。


「いやあ、面白い見世物を見せてもらったぜ」


 皇后の弟、炎樺だった。

 縁側をひょいと越え、笑いながら近づいてくる。


「え、炎樺さま! ずっと見てらしたんですか」

「ああ、最初からな。誰も来ない、だって? 俺たちは何なんだよ」

「そ、それは、物語の中の話ですから!」

「柄にもないことを言い始めたから、変なものでも食べたのかと思ったぜ」

「ひどい」

「何かの真似だと気づいてからは、面白く鑑賞させてもらった」


 炎樺の手が伸び、姫の頭をわしゃわしゃと撫でた。


「わ、わっ、髪が」

「炎樺殿」


 天賢王の声が低くなる。


「姫のお立場を思えば、寂しくお感じになることもあるでしょう。それを見世物扱いするとは、感心いたしません」

「だからこそ笑えばいいんだよ。嘆いてるよりいいだろ」


 炎樺は気にも留めず、ひょいと姫を抱え上げた。


「なあ?」

「きゃっ」


 急に高くなった視界に、姫は炎樺の肩へ手をついた。


「お下ろしなさい」


 天賢王がすかさず近づいた。

 炎樺の腕から姫を抱き取り、そっと床へ下ろす。

 ただし、姫を抱く腕はそのままだった。


「……お前も、ずいぶんくっついてるじゃないか」

「驚かれた姫を、お支えしているだけです」

「もう床に立ってるぞ」

「炎樺殿こそ、手をお放しください」


 炎樺の手は、まだ姫の肩に添えられていた。


「…………」

「…………」


 姫を挟んで、二人の貴公子がにらみ合う。


(わ、わたしのために争う二人……)


 姫の胸が、とくんと鳴った。

 慎み深く、心配性で、今は少しばかり不機嫌な天賢王。

 遠慮がなく、笑ってばかりで、こちらも少しばかり不機嫌な炎樺。


(むふっ。物語としては、美味しいですわ)


 どちらの台詞から書き留めようか。

 そう考えかけて、姫は我に返った。


(……いけません、これは現実でした)


 こほん、と咳払いをする。

 天賢王の腕からそっと抜け出し、炎樺の手も外した。


「お、お二人とも、おやめくださいませ! わたくしは、このとおり元気ですから!」


 二人の視線が姫へ戻る。

 姫はほっとした。

 そして、少しだけ惜しくなった。

 とはいえ、物語と違って、この二人は自分で止まってくれそうにない。


「せっかくいらしたのですもの。お茶をご一緒にいかがですか」

「喜んで」

「いいねえ」


 二人が同時に答えた。


「ただし、仲良くしてくださるなら、ですわ」


 天賢王が背筋を伸ばした。


「もちろんです、姫」

「ほら。俺たちは、こんなに仲良しだ」


 炎樺が天賢王の肩へ腕を回す。

 天賢王の笑顔が、ぴしりと引きつった。

 姫は袖で口元を隠した。

 今度は、泣くふりのためではなかった。

 悲劇の姫は、今宵もひとりになれなかった。

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