前王朝の遺児は愛されて愛されて困る
「広大な宮城の、果ての果て。
朱の剥げ落ちた門は、風に押されるたび、誰かの訪れを告げるように軋む。
けれど、門をくぐるのは、いつも風ばかりだった。
築地は崩れ、庭は丈高い草に呑まれている。
御簾は破れ、燈籠に火は入らない。
夜ごと、月だけが、誰の許しも乞わず奥の間まで差し込んでくる。
新しい世を照らす月が、滅びた家にも同じ光を落とす。
ならばなぜ、ここでは、照らされるものまで寂しいのだろう。
待っている。
足音を。衣擦れを。戸を叩く、ためらいがちな指の音を。
父の代に仕えた者の、せめて一人でも、と。
萩が咲き、散った。
雪が積もり、消えた。
幾たび季節が巡っても、門へ続く道に、人の影は落ちなかった。
宮城の賑わいは、塀のはるか向こう。
あれはもう、わたしの家のものではない。
生かされているのではない。
討つにも値せぬと、見過ごされたのだ。
かつて千の声が呼んだ名を、今はもう誰も口にしない。
その名だけが、この荒れた屋敷に、わたしを繋ぎとめている。
せめて、名もない野の花であったなら。
それでも、今宵も戸を開けておく。
誰も来ないと知りながら。
閉ざせば、待つことまで終わってしまうから。
月が傾き、草の先に霜が白む。
荒れた屋敷の縁に座り、わたしは待っている。
夜が明けても、訪れない朝を……」
姫は袖を目元に添え、ほう、と息をついた。
そのとき、玄関のほうで、静かに戸の開く音がした。
「……そのように、思われていたのですか」
振り向くと、皇帝の甥、天賢王が立っていた。
いつからそこにいたのだろう。
姫は膝の上の物語の冊子を、そっと袖で隠した。
「い、いえ」
笑顔を作ったつもりが、頬が引きつった。
「こういう物語を読んだばかりでして。なりきってみただけですの」
「物語、ですか」
「そうですの。ほほ、ほほほ」
天賢王の視線が、袖からはみ出した冊子へ落ちる。
姫は、もう少し深く隠した。
隠してから、これではかえって怪しいと気づいた。
「それでしたら、安堵いたしました」
天賢王は、ようやく息をついた。
けれど、その美しい顔には、まだ憂いが残っている。
「陛下も、姫のためにできる限りのことを、とお考えです。先日、屋敷の修繕をお断りになったのも、本当はご遠慮だったのではありませんか」
「いいえ! このままがよいと申し上げたのは、本心ですわ」
姫は勢いよく首を振った。
朽ちた屋敷に、草深い庭。
悲劇の姫を演じるには、これ以上の場所はない。
綺麗に直されては困るのである。
「では、その……私の心が通じていないわけでも、ないのですね」
長いまつ毛が伏せられた。
「姫には、ずっと心を配っておりますものですから」
「わ、わかっております!」
姫は慌てて冊子を膝の脇に置き、両手を振った。
「陛下や天賢王殿のお心遣い、わたくしも身に染みておりますから!」
その返事に重なるように、裏手から大きな笑い声が響いた。
「いやあ、面白い見世物を見せてもらったぜ」
皇后の弟、炎樺だった。
縁側をひょいと越え、笑いながら近づいてくる。
「え、炎樺さま! ずっと見てらしたんですか」
「ああ、最初からな。誰も来ない、だって? 俺たちは何なんだよ」
「そ、それは、物語の中の話ですから!」
「柄にもないことを言い始めたから、変なものでも食べたのかと思ったぜ」
「ひどい」
「何かの真似だと気づいてからは、面白く鑑賞させてもらった」
炎樺の手が伸び、姫の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「わ、わっ、髪が」
「炎樺殿」
天賢王の声が低くなる。
「姫のお立場を思えば、寂しくお感じになることもあるでしょう。それを見世物扱いするとは、感心いたしません」
「だからこそ笑えばいいんだよ。嘆いてるよりいいだろ」
炎樺は気にも留めず、ひょいと姫を抱え上げた。
「なあ?」
「きゃっ」
急に高くなった視界に、姫は炎樺の肩へ手をついた。
「お下ろしなさい」
天賢王がすかさず近づいた。
炎樺の腕から姫を抱き取り、そっと床へ下ろす。
ただし、姫を抱く腕はそのままだった。
「……お前も、ずいぶんくっついてるじゃないか」
「驚かれた姫を、お支えしているだけです」
「もう床に立ってるぞ」
「炎樺殿こそ、手をお放しください」
炎樺の手は、まだ姫の肩に添えられていた。
「…………」
「…………」
姫を挟んで、二人の貴公子がにらみ合う。
(わ、わたしのために争う二人……)
姫の胸が、とくんと鳴った。
慎み深く、心配性で、今は少しばかり不機嫌な天賢王。
遠慮がなく、笑ってばかりで、こちらも少しばかり不機嫌な炎樺。
(むふっ。物語としては、美味しいですわ)
どちらの台詞から書き留めようか。
そう考えかけて、姫は我に返った。
(……いけません、これは現実でした)
こほん、と咳払いをする。
天賢王の腕からそっと抜け出し、炎樺の手も外した。
「お、お二人とも、おやめくださいませ! わたくしは、このとおり元気ですから!」
二人の視線が姫へ戻る。
姫はほっとした。
そして、少しだけ惜しくなった。
とはいえ、物語と違って、この二人は自分で止まってくれそうにない。
「せっかくいらしたのですもの。お茶をご一緒にいかがですか」
「喜んで」
「いいねえ」
二人が同時に答えた。
「ただし、仲良くしてくださるなら、ですわ」
天賢王が背筋を伸ばした。
「もちろんです、姫」
「ほら。俺たちは、こんなに仲良しだ」
炎樺が天賢王の肩へ腕を回す。
天賢王の笑顔が、ぴしりと引きつった。
姫は袖で口元を隠した。
今度は、泣くふりのためではなかった。
悲劇の姫は、今宵もひとりになれなかった。




