王宮の奥で、世界は煮込まれている
王宮の東棟の地図にも載らない細い回廊の先に、
ひとつだけ異質な部屋がある。
魔術研究室でも、錬金工房でもない。
扉を開けると、最初に鼻をくすぐるのは
香草と煮込みの匂いだった。
「……まだ、苦味が残ってますね」
リリーは独り言のように呟き、包丁を入れる手を止めた。
淡い亜麻色の髪は後ろで一つに結ばれ、顔立ちはどこにでもいる平民の娘そのもの。
だがその胸には、確かに王宮魔術師の紋章がある。
机の上に並ぶのは、食材――とは言い難いものばかりだ。
ひび割れた結界の欠片。
祝福が定着しなかった聖水。
神殿で処理しきれず残った祈りの残滓。
触れれば、指先にざらつく違和感が伝わる。
「……疲れてますね、これは」
彼女はそう判断し、結界の欠片を水に浸した。
じゅ、と小さな音。
魔力が、水に溶け出していく。
「洗って、落として、それから――」
リリーは手際よく下処理を進める。
香草を刻み、根菜を薄く切り、鍋に火を入れる。
その様子を、少し離れた場所で見ている男がいた。
王宮筆頭魔術師、ラルド。
濃紺の髪は丁寧に整えられ、一分の隙もない装い。
理論と実績でこの地位に立った、正真正銘の天才魔術師だ。
「……それで、本当に嵐は止まるのか」
半信半疑の声。
リリーは振り返らずに答える。
「三日後に来る予定だった嵐なら、止まります」
「“予定”?」
「はい。祝福が使われなかった分、行き場がなくなってたので」
ラルドは眉をひそめた。
そんな概念は、魔術理論には存在しない。
祝福は使われるか、消えるか。
余るなど、ありえない。
だが――
彼女の鍋から立ち上る香りに、確かに違和感が薄れていくのを感じる。
「……魔術で修復する方が早い」
「修復すると、反動が出ます」
リリーは淡々と言った。
「世界、少し無理してるので」
鍋に具材を入れ、ゆっくりと混ぜる。
魔力が、料理の中でほぐれていく。
「治すより、一度食べた方がいい時もあるんです」
ラルドは、それ以上何も言えなかった。
◆
煮込みが完成する頃、空の色が変わった。
重かった雲が、いつの間にか散っている。
「……本当に、止まったな」
ラルドの呟きに、リリーは小さく頷いた。
「はい。今なら、食べられます」
彼女は皿に盛り付け、差し出す。
見た目は素朴な煮込み料理。
王宮の食卓に並ぶような華やかさはない。
だが、匙を入れた瞬間。魔力が、静かにほどけた。
ラルドは、一口食べた。
「……あ」
喉を通ると同時に、胸の奥に溜まっていた説明できない重さが消える。
「これは……」
「嵐の元、です」
リリーは悪びれもせず言った。
「ちゃんと、食べきってくださいね」
ラルドは黙って、皿を空にした。
窓の外、空はどこまでも穏やかだ。
◆
その日、正式に決まった。
王宮の奥に、「厨房」を設けること。
異変が起きた時、魔術でどうにもならない時、まずここに持ち込む。
そして、料理として処理する。
反対は多かった。
平民の女が料理で世界を扱うなど。
だが、嵐は止まり、結界は安定した。
事実は、理論より強かった。
◆
夜。
リリーは一人、鍋を洗っていた。
「……怖くはないのか」
扉の前で、ラルドが聞く。
「世界を食べることが」
彼女は少し考え、正直に答えた。
「最初は、怖かったです」
だが、手は止めない。
「でも、食べないと腐るんです」
世界も、人も。
「なら、ちゃんと食べた方がいいかなって」
ラルドは、何も言えなくなった。
こうして、王宮の奥にひとつの厨房が生まれた。
そこでは今日も、火が灯る。
世界に詰まりが生じるたび、それを“食べきる”ために。
――料理魔術師リリーの物語は、ここから始まる。
読んでいただきありがとうございます。
この作品は一話完結連作の予定です。
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