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タイトル未定2025/10/01 23:20

作者: まっちゃ

役者になるか会社員になるか深く考えずに会社員を選んだ。深く悩むべきだったと悔やむまでその選択肢があったことすら忘れていた。忘れるほどに今の仕事は日常として染みつき、習慣として骨の奥に沈み込んでいた。


 大学生だった頃の僕は、もう少し生き生きしていたように思う。世界を新しく見ようとしていたし、何より自分がどこへ向かうのかという問いに対して少しだけ前向きだった。所属していた演劇サークルの舞台で観客の前で立つたびに、自分が存在する理由が与えられるような気がしたのだ。いつから今のような性格になったのかはわからないけれど今よりも輝いていたのは事実である。

両親は僕が小学三年生のころに離婚し、その日から僕は母と二人の生活が続いた。父はスーツケース一つを持って家を出ていった。雪がちらつく曇り空の下、母は彼の背中を見つめながら何も言わなかった。玄関のドアが閉まる音が、今でも耳に焼き付いている。あの時の僕は、ドアの前でただじっとしていた。泣くでもなく、怒るでもなく、ただその音に立ち尽くしていた。それからの生活は決して楽とは言えなかった。母は一生懸命働いてくれていたが決して裕福と言える暮らしではなかった。それでも文句ひとつ言わず、僕を大学に入れてくれた。僕も母の期待に応えるように地元を出て東京の公立大学に入学した。自分の生活費はバイトをして自分で稼ぐようになった。だからこそ「安定」を選ばなければなかったのかもしれない。あの頃の僕にとって「役者になる」という夢は、あまりにも危うく、母の努力を犠牲にしてまでかなえる必要のあるものではなかったのだ。だから何も深く考えずに、内定をもらった会社に就職した。


夏の太陽が遠慮なく降り注ぐ朝、僕は今日も会社へ向かう。アパートのドアを超えた瞬間、焼けつくような空気が頬を叩いた。アスファルトに立った陽炎はまるでさっきとは違う世界へ来たかのような錯覚を覚えさせる。首に巻いたネッククーラーも果たして仕事をしているのか分からないほどだ。


駅のホームに着く頃には、すでに全身から汗が噴き出していた。僕は汗をタオルで拭いながら無意識に6号車2番ドア付近まで歩く。ここが会社の最寄り駅の改札口に最も近い場所だからだ。この路線は自宅の最寄り駅から乗り換えなしで会社の最寄り駅に到着するが、10駅以上あるため座れなかったら結構つらい。特にこの季節の満員電車は苦行に等しい。歩みを緩め、ホームドアの前の待機列の最後尾に並びながらポケットからイヤホンを取り出す。毎朝聞いているプレイリストを再生してスマホをポケットにしまった。


電車が到着し、重たい金属音と共に扉が開いた瞬間、押し合いへし合いの波に身をゆだねて乗り込む。汗ばんだ腕が擦れ合い不快感が体温とともにじわじわと増していく。密集した蒸し暑い空気の中では呼吸も浅くなり、酸素が薄くなったかのような感覚に陥る。曲がり角で車体が揺れたことで塊になっていた人々が一気に振らめく。そのとき、宙吊りにされている転職サイトの広告が視界の片隅に入った。まるでお前に今の仕事は向いていないと語りかけてくるかのようになびかせている。ふと我に返ると、電車のスピードが徐々に緩まり、車輪のきしむ音とともに停車する。ホームの柱に書かれている駅名を見て、いつの間にか6つ目の駅であることに気づく。ドア付近に立っていた僕は出入り口を確保しようと自ら降りようとするも、大きな生き物のように形を変えた人の波によって、僕はその波の一部となって流される。群衆に押し出される形でホームの隅っこに降り立った。ようやく隣の人のカバンが肩甲骨に当たる不快感から逃れられたと同時にもう一度会社行の電車に乗りたくないという思いが猛烈に押し寄せてくる。このままこの駅に残っておけば今日の労働から逃れられる。そう思ったけれど駅から電車に乗ってくる群衆に押されもう一度乗車する羽目になった。

満員電車の中ではでスマホを触る余裕がない。だからいつも僕は外の景色を見る。最初の6駅目までは整然と並ぶビル群が窓の外を流れていくが、そこを過ぎれば電車は地下へ潜り、窓の外は一面の暗闇になる。その黒一色の車窓が、会社へ向かう気力をさらに削り取っていく。イヤホンから流れるお気に入りのバンドの音楽だけが、かろうじて僕の心を支えていた。

「次は○○~○○。お降りの際は電車の左側の扉から~」

社内アナウンスに意識が引き戻される。気づけば、さっきまでぎゅうぎゅうだった車内も少し空き、人々は一様にうつむいてスマホを操作している。まるで誰かに命令されているかのように誰もかれも同じ姿勢である。僕もその流れに従うように画面を点けてみたが、心はどこか上の空だった。


聞きなれた駅名のアナウンスと共に電車から降りる。改札にICカードを通し、駅から出るとそこには見慣れた上司の姿があった。あまり好きな上司ではないので、わざと少し歩調をずらして遅れて出社する。上司の様子をうかがいながら歩いていると少し特徴的な形をした巨大な建物がそびえたっているのが見える。それが僕の勤める会社のテレビ局である。壁には今期のドラマや人気バラエティーのポスターが貼られ、一見華やかな世界を演出しているように見える。それを横目に見ながら社員用入り口から職場へ向かう。一気に華やかさが失われた灰色の壁を伝いながら職場へと向かう。


別に特段やりたいことがあってここに入社したわけでは無い。けれど結局この会社に辿りついたのは大学時代の演劇経験があったからなのだろう。あの頃はドラマを作るのも見るのも好きだった。だから入社時、AD のドラマ班を希望したのに所属されたのはバラエティー班だった。希望の部署に行けなかったうえに、当時はバラエティーを薄ら嫌っていたため一気にやる気を感じられなくなってしまった。ADの仕事内容はとにかくきついもので何も目的なくこの仕事をするには過酷なものだった。ドラマ班は時期によってはバラエティー班よりも忙しくて睡眠時間が十分に取れないこともざらにあるそうだが、そんなドラマ班を見てもなおあこがれのような感情を抱くこともあった。

今日は朝から毎週金曜の8時から放送されているバラエティーの定例会議がある。番組全体の方針に関して全体で伝えなければならない事項などを行うためのものだ。何日か前にとっておいた会議室に入って時間になるまで待つ。5分ほどするとプロデューサーがドアを開いて入ってきた。彼は身長が180センチくらいありそうなすらっとした体系をしている。ファッション好きで有名で今日は縁が緑色の眼鏡にピンクのスニーカーという独特の組み合わせをしていた。彼が椅子に腰を掛けると予定通りに会議が始まる。彼は企画内容や出演者について語った後、周りに意見を求め始めた。僕の立場はかなり下の方なので、意見が通ることはほぼない。そもそも聞き入れてもらえることもあまりないので最近はもう何も話すことはなくなった。淡々と上司に言われた命令をこなすだけである。会議室で交わされる言葉はどれも整いすぎていて、誰も核心を突こうとはしない。新しい企画のプレゼンは、表面的には情熱を語っているが裏側には競争と計算が渦巻いている。手元に用意した名刺に書かれた肩書を見ると自分がどこか遠くに置き去りにされた気がする。


午前中は芸人へのアポ取りと資料の整理、そして午後は担当するバラエティーの収録だ。今が旬らしい新人芸人を集めて大喜利バトルをする番組だ。入社するまでの自分はお笑いに全く興味が持てなかったがこの仕事をしてある程度分かってきた。それでも心の底から笑えるわけでは無い。でも今日の収録はドラマの番宣で有名な女優が来るらしい。それを楽しみにスマホを片手に淡々と手を動かした。


ようやく仕事が終わった。予定より30分巻いたと言ってももう夜の21時を回っている。会社を出てしばらくするとスーツを着た大人たちが酒の匂いを漂わせながら足取り軽やかに歩いている。みんな今日のストレスを発散しているのであろう。僕にはそんな気力も金も無いので人々を横目に見ながら足早に帰路につこうとした。その時だった。後ろから自分の名前を呼ぶ声がした。振り返るとそこには大学の演劇サークルの同期だった麦野がいた。白い肌にがっしりとした体格で、痩せていてまるでもやしのようだったあの頃からは想像もできないような厚い胸板で腕も太くなっていた。少しよれたTシャツはスーツ姿のサラリーマンたちの中では少し浮いて見える。向こうも僕を見つけたようで少し驚いた表情で人混みをかき分けてこちらに向かってきた。

「久しぶりやな。大学卒業してからやから…3年ぶりか?」

麦野は笑顔でそう言った。

「相変わらず元気そうだな。」

僕も同じような笑顔でそう答える。


自然な流れで横に並びながら繁華街を歩き始める。どうやら彼も仕事終わりでまだ何も食べていないらしい。これから飲みに行こうと彼のほうから誘ってきた。正直仕事で疲れているしお金を使いたくないし断る理由はたくさんあった。けれど久しぶりに会えた懐かしい友達と話したかったから行くことにした。それから僕たちは並んで歩き、飲み屋街に向かう。彼は東京に出てまだ1年程度しかたっていないらしい。しゃべり方もあの頃の関西弁と変わっていなかった。しばらく歩くと該当に照らされた緑色の看板が見えた。彼はそこの前で立ち止まり、ここ行ってみたかったんよねと言った。僕は別にこだわりもなかったのでそこの居酒屋に行くことにした。そこは個室が多めの居酒屋だった。僕らが案内されたのは入って一番奥の右側の個室だった。中に入ると木目のある机の上にタッチパネルが置かれている。向かい合って座ると間もなく店員が二人分のお冷とお手拭きを持ってきてくれ注文の仕方を説明してくれる。店員が離れると彼はすぐにタッチパネルでメニューを見ていた。その姿を見ながら僕は大学時代に戻ったかのような気になっていた。久しぶりの友達との外食で気分が高揚しているからか、普段は頼まないような刺身の盛り合わせやビールを注文する。その様子を見た彼が

「お前そんなお酒好きやっけ?」

と少し目を見開いて笑った。注文した料理が来て僕らは久しぶりの再会を祝して乾杯する。日頃の鬱憤を晴らすようにビールを流し込み、刺身に箸を伸ばした。久しぶりに食べる刺身は驚くほど美味しい。というより人が作ったものを食べるのが久しぶりでうれしかった。切り詰めて毎日自炊してきた日々の努力が今水の泡となったけれどそんなことはどうでもよかった。それから僕たちはたわいもない話をする。久しぶりに地元の温かさに触れて僕の口調を自然と関西弁になっていくのが分かる。話題は仕事や恋愛、近況にとどまらず、大学時代の思い出話にまで広がった。誰がどの役を演じただの、誰が小道具を持ってくるのを忘れて慌てただの、照明が落ちる瞬間に誰がくしゃみをして台無しになっただのどうでもいいエピソードばかりなのに笑いに尽きなかった。やがて僕が3回生の時に大学の文化祭で演じた「犯人役」の話題になったとき、不意に意外な事実が語られた。舞台のクライマックスで僕が緊張のあまりセリフを飛ばした瞬間、観客の前では何事もなかったかのように進行していたのは、麦野のアドリブのおかげだったというのだ。彼は僕の目をちらりと見ただけで状況を察し、台本にない一言を差し挟んで場を繋いだらしい。僕はただ観客の拍手に安堵していたが、その裏で仲間の支えがあったことなど想像もしていなかった。驚きと同時に、今さらながらに感謝の念と、あの頃の自分の無邪気さへの恥ずかしさが胸の中で入り混じった。

それ以上に驚かされたのは、麦野が今も俳優を目指し続けているということだった。みんなが就活をしている時期にいくつかオーディションを受けていたのは知っていたがとっくにあきらめてどこかの会社へ就職しているものだと思っていた。今でも変わらずオーディションを受け続けているらしいがほとんど落ちる日々が続いているらしい。それでもあきらめず六畳一間の古びたアパートの2階に暮らし、ラーメン屋と塾講師のアルバイトの合間をぬぐってオーディションを受け、小劇場の舞台に立っているらしい。僕はその話を聞きながら、心のどこかで自分がすっかりつまらない人間になってしまったことを痛感した。就職、安定、出世などそういった言葉に縛られて、築けば自分の夢など手放してしまっていた。

二軒目の居酒屋に移った頃には、アルコールの温度が身体にじわじわと広がり、僕の口はさらに軽くなっていた。木目調のカウンターが油で少しべたつき、隅にはカラオケ機が鎮座しているような、庶民的な空間だった。そこで僕は抑えていた仕事の愚痴をついこぼしてしまった。当たり前のようにある残業、数字ばかりを追い求める日々、叱責と無関心が交互に降ってくる上司。吐き出す言葉は次第に熱を帯び、グラスの氷がカランと鳴る音さえも慰めになった。

 そんな僕の言葉を、麦野は笑い飛ばすでもなく、同情するでもなく、ただ真剣に聞いてくれていた。そして一息ついた僕に向かって、静かに言った。

 「好きなことをやった方がいい。つらくても希望が見えるから」

 その言葉は、まるで居酒屋の薄暗い照明の中で突然差し込んだスポットライトのようだった。彼の目には、苦境の中でもなお灯りを失わない小さな炎のような光が宿っていた。心の奥に眠っていた「もしも」の声が、かすかに目を覚ましたのを感じた。

帰り際、タクシーを待っている間に麦野は鞄から1枚の紙を取り出した。

「これは俺が今度出演する舞台のチケットや。よかったら見に来てな。」

そう言って緑の細長い紙を僕に差し出してくる。8月18日18:00と書かれたそのチケットには舞台名の下に出演者の名前が載っていた。麦野の名前を探してみるけどどこにも見当たらない。その様子を見ていた麦野が

「ああそれな、俺めちゃくちゃ脇役やから名前のってないねん。出演時間も十分くらいやし。それでもええなら見に来て。」

と少し申し訳なさそうな表情で笑った。けれどどこか自信にあふれているような強さに僕は言葉を失い、ただ無言でチケットを受け取った。


翌朝、頭が割れそうな痛みとともに目が覚めた。二日酔い特有の体のだるさや不快さはあったが、他人に自分の悩みを聞いてもらったせいか心は少しすっきりしていた。今日は休みだからベッドの上から出られる気力がない。もう11時過ぎだが布団をかぶってもぞもぞしたままスマホを触る。昨日の話を思い出し、麦野の名前を検索して見る。ウィキペディアが作られていなかったから麦野の所属している小さな事務所のホームページを開く。そこには麦野の顔写真の下に彼が出演した作品が載せられていた。深夜帯のドラマの1話だけの役や映画の名前もない役ばかりが書かれており、一番上に今回の舞台の役が載せられていた。どうやら麦野の中で一番の大仕事のようだった。

大学時代を共に過ごした友人の大舞台を見逃していいはずがない。予定表を開いた人差し指は、築けば勝手に舞台の日付へと移動していた。幸いなことにその日はちょうど撮影が昼までなので夜は空いている。奇跡的に予定があったことに安堵し、ためらいもなくスマホのカレンダーに予定を書き込んだ。

布団から這い出て、昨夜帰り道にあるコンビニで買ったメロンパンを朝昼兼用のご飯として食べる。テレビをつけると、ワイドショーのスタジオから専門家らしき人々の議論が流れてきた。しっかりとしわの伸ばされたスーツを着て、いかにも博識そうな言葉を連ねているが、その目に「好きでやっている」光は見えない。仕事のために仕方なく演じているだけのようにも見えた。僕はメロンパンにかぶりつきながら、画面に映る彼らの姿と、昨日の麦野の瞳を思い出して比べてみた。本当に心から楽しいと思って働いている人間など、この世にどれほどいるのだろう。挑戦せず、リスクを避け、別の仕事を選んで生きていく人の方が圧倒的に多いのではないか。

「じゃあ、お前はどうなんだ?」

と、心の中で誰かが問いかけてくる。自分のやりたいことは何か。食べていける保証がなくても続けたいことは何か。けれど、すぐに答えは出なかった。ADという不規則で過酷な仕事を捨て、不安定な役者業を選ぶなど現実的ではない。頭の中に浮かんでは消えるその問いを振り切るように、僕はごみを捨て、テレビを消し、ショート動画と無料漫画に身を投じて、一日を溶かすように過ごした。


そして18日の朝がやってきた。いつもと同じアラーム音で起きベッドから立ち上がる。機械的な音なのに、今日は不思議と澄んで聞こえる。あの日から特に変わったことはなくただいつも通りの日常が通り過ぎていくだけだった。眠い目をこすりながら歯を磨き、昨日冷凍しておいたご飯を解凍して食べる。行動はいつもと変わらないのに、内側で何かが確かに違っていた。足取りが軽い。鉛を巻きつけられたような通勤の日の朝とは明らかに別物で、まるで新しい一日を迎えに行くかのように前向きな気分だった。今日は上司が出張で職場にいないことも、理由のひとつには違いない。しかしそれ以上に今夜の舞台が楽しみで仕方がなかった。


仕事を終えて帰りの電車に揺られながら、麦野からチケットと一緒に渡されたフライヤーを見返す。何度も読み返してくしゃくしゃになった紙。光に透けてインクの匂いが微かに漂うそれを見つめると、スマホをいじる暇もないほど胸が高鳴る。電車の窓から差し込む風が余計僕の心を躍らせた。

フライヤーを鞄の中にしまい窓の外に流れている景色を見ていると、自然と大学時代の記憶がよみがえる。当時、演劇サークルとは別に演劇養成所に通う麦野に向かって、僕は心ない言葉を浴びせたことがあった。奨学金で学びながらもなお芝居に情熱を注ぐ彼を、羨んでいたのだろう。妬みを怒りに変え、冷たい言葉をぶつけた僕に、麦野はほんの少しだけ悲しそうな顔を見せたあと、

「でもやらないと夢はかなわんやん。」

とだけ答えた。その一言に当時の僕は余計苛立たせられた。だが今となっては、あの年齢で胸を張って夢を語れた彼がどれほど眩しかったか、ようやく理解できる気がする。


劇場のある駅に到着したとき、車内の大半の乗客が同じ駅で降りたことに驚かされる。割と大勢から人気のある舞台だったことを今更ながらに知る。階段を上り、人の波に押し流されるように改札を抜けていく。劇場まで無事に辿りつけられるか不安だったがマップアプリを開かずとも、流れに身を任せれば迷わず会場へ辿り着けた。

会場に着くとそこはすでに多くの人で賑わっていた。壁に貼られているポスターの写真を撮る人、推しの俳優らしきアクリルスタンドを持って撮影している人々が会場の外でたむろしている。観劇の目的は人それぞれのようで年齢も性別もバラバラだった。その様子を見て僕も浮かれた気分になり、ポスターの写真をパシャリと取る。


開場時間になってさっきまでそこにいた群衆が一斉に劇場へと吸い込まれていく。僕もそれに従うようにチケットをカバンから出し受付に通す。半券が回収され僕の手元には小さくなったチケットだけが渡された。大理石風の階段を上がり終えた僕は座席番号を眺めながら指定された席に腰を掛ける。2階席だったが前のほうの席なので思ったよりも舞台が近い。念のため持ってきた双眼鏡の出番はなさそうだった。


やがて劇場スタッフが高い声で上映中の注意事項を説明し始める。その響きのある声にいよいよ始まるという高揚感に召された。その声が終わると同時に開幕のブザーが鳴り響いた。部屋が暗転していくのと比例するように、観客のざわめきは静まり、僕の鼓動だけがやけに大きく響いていた。今日これを見ることで僕の何かが変わる。確信はないけれどそう感じていた。


圧巻の舞台だった。舞台に立つ麦野を見て、胸の奥がドクドクして止まらなかった。あいつは昔から夢を口にしていたけど、正直半分は無理だと思っていた。なのについさっきまで目の前で全身をぶつけて観客を引き込んでいた。明らかにあの頃の麦野とは大違いだった。たった10分程度の出演だとしてもそれ以上の存在感が僕の目には焼き付いていた。嫉妬もある、羨ましさもある、でもそれ以上にものすごくかっこよかった。興奮で心臓が脈打ち、気づけば手のひらまで汗ばんでいた。


舞台を見終えたあとも、その熱は冷めなかった。毎日同じ動きを繰り返していた体内の歯車が大きく軋み、これまでの日常を壊していくのがわかる。今思い返せば僕は今まで自分のやりたいこと、意志に基づいて行動したことが無かった。小学校の委員会も、中高の部活で入ったバドミントン部も友達に誘われて参加を決めたし、大学で社会学部を選んだのも家から近くて偏差値的にも入学できそうなところだったからだ。人生は決断の連続だと言われるが、僕は流れに任せて物事を決めてきたのであって本当に「自分の決断」を下してきたのだろうか。


舞台の幕が下りて小一時間経っても、麦野の一挙手一投足が脳裏にこびりついて離れなかった。僕の人生の選択肢に役者を目指すという項目が急にのし上がってくる。あの頃見て見ぬふりしていた夢を麦野が少し背中を押してくれた気がした。スマホを取り出し、「都内 役者 オーディション」と検索している自分に気づいたとき、胸が跳ねた。自分でも信じられないくらい胸が高ぶっているのが分かった。


帰宅後、押し入れの奥にしまっていた埃のかぶった箱を引っ張り出す。文字がかすれたアルミ缶の蓋を開けると、古い写真やノートがぎっしり詰まっていた。同時に大学時代の思い出が次々に頭の中で映像として流れてくる。そこには演劇について必死に書き連ねた日々の記録が残っていた。インクが滲んで読みにくいが、確かにそこに十年前の僕がいた。ページをめくるごとに、忘れかけた記憶と情熱がパズルのピースがはまるように蘇り、心が熱くなっていった。


それから僕はいくつものオーディションに応募した。今日がその一発目だ。会社は今月末には辞めるつもりだったが、ノートを読み返しているうちに考えが変わった。これまで会社で培った経験や知識も、芝居に活かせるはずだと思えたのだ。「二兎を追う者は一兎をも得ず」なんて言葉が一瞬頭をかすめる。だが、片方を都合よく見捨ててきた過去の自分の姿を思い出すと、胸がチクリと痛んだ。あのとき逃げたせいで、今まで何も残らなかったんじゃないか。ならば今回は違う。掴めるかどうかはわからなくても、両手を伸ばして追いかけてみたい。

やるしかない。そうしなければ、僕の人生はいつまでも他人の決断に流されるだけだ。だから行く。テレビの画面の中へ、舞台の上へ。今度こそ、自分の人生を、自分の意志で動かすために。




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