新発田城占拠
どれが誰やねん?! とお思いでしょうが、登場人物紹介とかはしません(´ε` )
壕のない街道を攻めてきた新発田兵は、壁荷車の10m〜20mくらい手前で20人のクロスボウ隊に射たれて、壁荷車にたどり着くことなくパタパタと倒れた。
その様子をみた後続は引き返して距離をとった。
指揮官の長沢七次郎と数少ない騎馬兵は突っ込んでくることはしなかった。
街道以外から攻めてきた兵には、壕にたどり着くまではスリングで石を投げ、壕と土塁を越えてきた兵は長槍で突いた。
新発田軍の弓隊は十分に狙える位置まで来て矢を射とうとしたが、そこにはスリングの石が届くので、矢と石の射ち合い投げ合いになり、土塁があり盾を持つ防衛隊の方が俄然投げ勝った。
開戦と同時に100人近い死傷者を出し、圧倒的に跳ね返された新発田軍は、一旦元いた辺りまで引いて新発田軍本体に伝令を出し、榎田将監の口上を伝えることにした。
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そうこうしているうちにも佐渡からの援軍が中島浜に上陸を続ける。
連絡を受けた塔ケ崎の砦に詰めていた100人が北上を始めた。
渡部と新保で干拓作業をしていたそれぞれ100人も新発田へと向かう。
加地軍、五十公野軍、竹俣軍と共に中条氏の館を囲み、挙兵を促していた新発田伯耆守綱貞は、中島七次郎からの伝令を受けて戸惑った。
確かに「佐渡は府中長尾氏につく。春日山に弓引くな」との書状がきていた。
それで挙兵を渋っている中条氏を焚き付けに来たのだが、その途中で宮川をつついて佐渡を出してしまった。
宮川の村が本間氏の領地だとは知らず、ただ、通り道の村々から兵糧を調達しようと兵を向けていたら、宮川の村から猛反撃を受けてしまったのである。
こうなっては仕方がない。
ひとまず、中条氏の説得は加地軍、五十公野軍、竹俣軍に任せて、自軍は総出で佐渡と相対すしかない。
新発田軍は全軍で宮川の村に向かった。
1000人を越える新発田軍が小さな宮川の村を包囲する。
新発田綱貞の号令と共に新発田軍が攻めかかる。
全体の数が増えただけで、攻め方は同じである。
変わったのは壕を挟んで射ち合い投げ合う弓隊とスリング部隊の数が増えて距離が離れたことと、街道のクロスボウ部隊の数が20:20:20から30:30:30に増え、パタパタ倒れた雑兵と近づいて射たれた弓兵も増え、騎馬兵の中から今度は5頭が突っ込んできて、これまたクロスボウで射たれて全員落馬したことだ。
また、今度は100人を越える死傷者を出して攻めあぐねる新発田軍の下に別の伝令がきた。
「新発田城が佐渡の手に落ちました」
「なにぃ!?」とツナサダ。
塔ケ崎の砦から海沿いに北上を始めた100人の部隊は、途中でジワジワと増えて蒲原の港に着く頃には倍になっていた。
渡部と新保から向かった100人100人も微増しながら合流し、佐渡から渡ってきた御守衛隊長の沢根本間賢密と、何故かまた乗り込んできた潟上本間高康が指揮をとって新発田城を占拠したのである。
当時の新発田城は「あやめ城」と呼ばれて現存する石垣造りの城とはことなり、館を砦が囲むようなものである。
挙兵して、加地氏と共に五十公野、竹俣にも挙兵を促し、南下しようとしてとって返し、今度は中条氏の館を囲みと右往左往する間に新発田城はすっかり手薄になっていた。
そこになだれ込んだ佐渡軍はほぼ無血状態で城兵と城を守っていた室と先代の長綱ファミリーを拘束した。
宮川を囲んでいた新発田軍はすぐに新発田城に戻ったが、新発田城は佐渡軍によって、宮川の急拵え砦よりも堅固に守りを固められてしまっていた。
事ここに至って、新発田軍は反府中長尾氏方での挙兵を諦め、佐渡との和平交渉をするしかなくなった。
戦国時代の軍って行軍中に増えたり減ったりするよね?(*^^*)
えっ、戦がチマチマしすぎ?
ハハ^^; ハハハハ^^; ^^;




