南へ(西だけど…)
帰って来たパクリ北前船は、小木の港に寄って乗組員を交代し(久万吉、隠岐之助、林主計殿と磯田徳兵衛は引き続き乗船)、荷はほとんどそのまま(木材と馬は降ろした)博多に向かって出航した。
若狭から途中越えで京に向かう貢納使隊も乗り込んで。
鯨波の方の荷は、越後の青苧のルートで敦賀から近畿に運ばれる。
こちらには春日山からの貢納使隊が乗り込んだ。
この翌々年、第105代後奈良天皇は史実より一年早く即位の礼を執り行うことになった。
あっ、そうそう、外交部門が大内氏に出した書状の返事は結局返ってくることはなく、「大寧寺の変阻止プロジェクト」は発動されることはなかった。
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この年、揚北衆はどこもまだ為景に反旗を翻すことなく、府中長尾ー北信濃高梨軍vs上条上杉ー上田長尾軍の睨み合いは冬将軍に仲裁されて各々引きあげた。
越後の七箇所の領地では、御守衛隊の詰め所と飲み食い屋も出来て、川舟屋さんが約束通りにお茶の種を手に入れてきてくれたので、新設した茶畑に蒔いて、領民には干物やイシルづくり、炭団づくりなんかもレクチャーしたりした。
炭団の糊は海藻を煮溶かして作ってみた。炭団を作るのに火を使うのは本末転倒のような気がするが、この方がもったいない感はない。今後は何かの窯の予熱を使って煮溶かすようにしよう。
刈り取り部隊が収穫して稲穂で佐渡に送った米は、年貢として徴収した。
越後の領地の来年の種籾も佐渡で用意しよう。
各村では検地を行い、村民名簿を作成し、その名簿に合わせて配給を実施した。
一時には無理だが、佐渡でもこの方式で土地登記簿と戸籍簿を作っていきたい。
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佐渡ではあちこちでレンガの窯がつくられて、いろいろなモノが焼かれはじめている。
相川の街の建設も徐々に進んでおり、真っ先に取りかかっていた灰吹き法の設備も出来て稼働しはじめた。
うち(おはまさんとおていさんの)で試行錯誤していた、いろいろ兼用暖炉は、いろいろ兼用は諦めて、暖炉はペチカ風に排煙の予熱を壁の暖房に利用するくらいにして、外で炭を穴焼きしていたところに炭焼き窯と塩炊き湯沸かし窯を作った。
佐渡の冬はそこそこキビシイが、家のすきま風も減って、ペチカもあるし、初越冬に比べればかなり暖かく過ごせたと思う。
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灰吹き法の施設が稼働し始めて、銀の抽出は飛躍的に伸びた。
組屋さんが全国から、食い詰めた人や戦争奴隷を集めてきてくれる。
越後の領地にも、ちょくちょく他領民が流れて来たりもした。
佐渡では、人手はまだまだ足りてないので、領民が増えることはありがたいことだ。
耕作可能地が少ないので、ますます農業改革を広げて収穫量をあげよう。
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そして、逆行転移してからまるまる二年が経ち、春を迎える。
組屋さんが水車職人を連れてきてくれた。
黄門丸と助さん丸、格さん丸が博多から帰って来た。
北からの積み荷は明の商人に飛ぶように売れたとのことだ。
博多での仕入れは生糸や陶磁器、ガラス玉もあった。
それと「銭」だ。
この頃日本では独自の通貨を発行しておらず、明の銭を輸入して使っていた。
そして、唐辛子、南瓜、甘藷が手に入った。
南行きも北行き同様に、行きはできるだけ早く進んで、帰りは寄れる港、寄れる港に寄っては地産品を買って来てくれと言って送り出していた。
奈佐隠岐之助が先頭に立って進み、丹後水軍、隠岐水軍が助力してくれた。
米は全国どこも高いが、北よりは南の方がまだ安いので買えるだけ買う。
他には、酒、衣類、ロウソクなんかもあった。
そして、そして、境港で綿花の種を手に入れた。
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新たに和洋折衷関船が二艘と小早クラスのヨットモドキが五艘できた。
関船は遠山丸と大岡丸と名付けよう。
ヨットモドキは… そうだなぁ…
赤連丸、青連丸、黃連丸、緑連丸、桃連丸としよう。
遠山丸と大岡丸、赤連丸、青連丸、黃連丸、緑連丸は第二弾蝦夷行きを敢行する。
遠山丸と赤連丸、青連丸は前回同様に松前まで、大岡丸と黃連丸、緑連丸には小樽あたりまで行ってもらって、何人か現地に残って語学留学してもらいたい。
朝廷には新年の献上品も送り、アリヤスは「正六位下佐渡守」に任官された。




