7.幕開け
「アキ。どうやら幕開けみたいだ」
「え?」
クロリアが何処かを見て言う。意味が多分に含まれた言い方をする。
僕はクロリアの見ている方を向くと、そちらの方から驚愕の声が響いた。何か、あったらしい。
悲鳴ではない。信じられないものを見ているかのような声。死人が出たとか、重傷者がいたとかではなく、不思議なものを見ているかのような声。
『幕開け』……か。クロリアのこの発言は察するに『人狼の行動が始まった』ということだろうか。クロリアが意味を含ませて言っているのだから、おそらく、その推測は間違ってはいないだろう。
どうする。声のする方へ向かってみるべきだろうか。幸い、今、人狼に襲われようとも、僕とクロリア、ヴェルにアーノルドがいるし、ここは談話室であるので他にも何人か人がいる。僕とクロリアのふたりだけの状況と比較したら、対峙することに関して、マシな状況であると言えるのではないだろうか。
僕は走る体勢になり、声のする方へ向かおうとする。が、何故かクロリアに服の裾を引っ張られ制止された。
「やめろ。死にたくなかったら、この場を離れるな」
圧のある声だった。怖い表情。人狼に怒り狂っている、というよりは僕の身を案じて、僕のことを必死に止めようとしている、そんな素振り。
脳裏に過る、自分の未来のイメージ。自分の直感が言っている。これは、絶対にクロリアの言葉に従った方が良い、と。でなければ、確実に僕自身が死ぬであろうと。
僕の使命は、クロリアを護衛することであり、この場で死ぬことが使命ではない。目的を履き違えてしまってはいけない。
僕は平常心を保ち、クロリアの言う通りに従う。
ただ、その場で待機するだけの話。なのだが、何故、こんなにも緊張感が僕の身体の中を走っているのだろう。
人狼。そいつのせいか。僕は、人狼がいる、というその事実が怖いのだ。
クロリアのターゲットである人狼。その人狼は人を標的にし、人の肉を、血を、貪り喰らい尽くす、化け物。獰猛で、狡猾で、とても恐ろしい怪物。それがいるという事実。僕はその事実が怖い。
逃げ出したい、とは言わない。僕は覚悟を決めた。クロリアを絶対に守ると決めた。従って、僕が逃げ出すことは決してありえない。万が一……いや、億が一、僕が逃げ出したとしても、僕は自分の頭をぶん殴ってでもそれをすることを止め、クロリアのことを守る。と、僕は、決心したはずだ。
だというのに、身体の震えは止まってはくれない。人狼という存在に気圧されてしまっている。
小さい。自分が小さく見えてしまう。醜く見えてしまう。いざというときに立ち向かえない、この小心者な自分に嫌気を感じてしまう。
僕が、クロリアのことを守らなければならないというのに。
「おい、少年。どうした。……気になっているのか? さっきのは人死が出たとか凶悪犯が現れたとかそんな大層なことではないようだ。だから、安心しな」
「……はい、アーノルドさん」
「それに、何かあったら俺は警官だ。体術ができる上に拳銃も所持している。発砲許可だのいろいろと面倒くさいものはあるが、非常時はすぐにこの拳銃で発砲してやる」
頼もしい限りだ。強面だし、口調も尖っていたし、僕はアーノルドのことを怖く感じていたのだが、この人は本当に優しい人だ。僕は今、アーノルドに助けられているわけだし、感謝をしなければ。
「何があったのか、俺が話を聞いてくる」
「アーノルド。キミの警官としての心構えは立派だ。だが、所詮、人間。死にたくないのであれば、この場から離れるな。と、忠告をしておこう」
「ご忠告どうも。だが、ただの少女の戯れ言で、自分の仕事を放棄するわけにもいかない」
「ただの少女、として見てくれているのかね? ふむ。それならば執拗に追いかけてくるキミはストーカーということで間違いはないだろう」
「……チッ。言葉のあやだ」
アーノルドはクロリアに向けて舌打ちをすると、声の聞こえた方へ走り去っていった。
なるほど。クロリアとアーノルドだと、口論に関していえば、クロリアの方に軍配が上がるのか。
さっきの会話や、この異界に飛ばされたこと、僕の経験等から既に重々承知していることなのだが、クロリアは普通の少女ではない。
見た目は少女だ。何処にでもいそうな格好の少女、というわけではないが、少女ではある。
が、クロリアは少女ではあるけれど、極々一般的に言われている少女であるわけではない。
異様な雰囲気を纏う少女。不思議な魔法を用いて僕のことをこの異界に招待した、何か。それが、僕視点の現在のクロリアなのである。
僕の知っている、所謂、人間というやつは、魔法なんて扱うことができないし、人狼というものを空想上のものとして考えている。
だが、クロリアは違う。クロリアが魔法を使うところをこの目で見てしてしまったし、クロリア曰く、人狼を退治するためにこの異界に僕を誘拐したのだと言う。
不思議、不可思議。クロリアという何かは、謎の塊でできていた。
「ボケッとしないで、アキ」
「あっ……ごめん」
「まあ、いい。それより、一つ話がある」
「話?」
なんの話だろう、と首を傾げる。
「これから、人が死ぬ。心の準備をしておきなさい」
「えっ?」
クロリアに小声で物騒なことを言われる。
人が死ぬ。心の準備をしろ。と、言われても、準備などできるわけがない。
誰が? 誰が、死ぬ? どういった方法で? 人狼の襲撃によって、死ぬ?
……わからない。ただ、たしかにクロリアは『死にたくなかったらこの場を離れるな』と言っていた。何を予感してなのかはわからないけれど、クロリアがあそこまで必死に僕を止めたということは、本当に悪い予感がしたということだ。
クロリアに未来が見えている? それ故に、僕のことを引き止めた。
考えすぎか、否か。どうかはわからないが、僕はクロリアに従ってこの場にいる人間だ。それ即ち、僕はクロリアの従者……みたいなもの。よって、僕はクロリアの言葉に従うべきだ。
従うことは良いのだが……ここで話が戻ってきてしまう。で、どう心の準備をしたら良いものなのか、と。
今から人が死ぬ、と言われて心の準備ができる人間は、僕の主観的な考えなのだが、そのような人間はメンタル強者であると思う。それに対して、僕はすぐに悩み、考え込み、落ち込んでしまう、メンタル弱者である。人が死ぬから心の準備をしろ、と言われて、心の準備ができるような人間とは到底言えない。
むしろ、言われてしまったら、戸惑い、焦り、そして苦しむ。余計に苦しみ、悶えてしまう。そんな人間が僕だ。
人が、死ぬ? 僕は、どう心の準備をすれば良いのだろうか?
僕は自分の心の中で自問自答を繰り返していた。
「おい。話を聞いてきたぞ。やっぱり戯れ言だったか。死にはしなかった」
「ああ、無事生還できたようだな。良かったな。良かった、良かった」
「チッ。小娘が。煽りやがって」
「それで、話の内容を聞かせてくれるか?」
「ああ……」
アーノルドの顔が曇った。僕は、その様子から、先程僕たちのすぐそばで起きた何かが只事ではなかったことを察する。
「不思議なことが起こるものだな。声を上げた女性の証言をもとに、このホテルから出ようとしてみた。すると、何故かまだホテルの中にいやがる。階段も上ってみた。ここは一階だ。次のフロアは当然二階のはず。……が、着いたのは五階だった。で、試しにもうひとつ上の階に行こうとした。……何故か、この一階にいたんだよ」
「…………!?」
そんなこと、あり得るだろうか。普通ではあり得ない話だ。
これも、人狼の仕業なのだろうか。
話を聞く限り、僕たちはこのホテルから脱出することができない。見えない何かの力によって。
これは意図的? いや、それよりも、呪文や魔法等がこのホテルに掛けられていないとあり得ない現象が起こっているこの事態。これを、どうにかしなければならない。
おそらく、他の人たちを守ることだって、僕たちの目的であるはずだ。故に、一般客の人たちやホテルの従業員の人たちをこの謎の現象から逃がしてあげなければならないだろう。
いろいろと考えて、チラリとクロリアの方を見る。クロリアから特に動こうとする様子は見られない。どうしたものか。僕の独断専行で動くのも、得体の知れないものを前にしているわけであることから、それは危険であると言えよう。
却って、僕の勝手なその行動が危険を招く可能性は充分ある。それを承知の上で動くことは許されない。愚の極み。愚か者のすることだ。
「アキくん。ど、どうすれば良いんだろうねぇ?」
「うーん、クロリアの言う通り、とりあえずその場で待機していた方が良いのかな。何かあったときに人手の多い方が良いだろうし」
「そ、そっか」
ヴェルの身体はブルブルと震えていた。
先程まで、快活そうに話していたヴェルであったのだが、様子が明らかに変わっていた。不安そうにしているだけでなく、困惑もしている。無理もない。通常、生きているだけでは起こらないような現象が僕たちのすぐ近くで起こっているというのだから。
「アキ。そろそろ耳を塞いでおいた方が良い。耳を劈く声が聞こえてくるはずだ。そうしたら、キミの優しい心は簡単に折れてしまうだろうからね」
「う、うん……」
僕はクロリアの指示に従って、耳を手で塞ぐ。耳を手で塞いでいたとしても、非常に大きい音や声が響いてきたときには、手でつくったバリアを難無く貫通してくるので、これは気休め程度のものでしかないが、それでもやらないよりかはマシかもしれない。
さて。無力で何の取り柄もない僕は、これから人狼が襲撃してきた際に、どうすれば良い。
離れるな。耳を塞げ。これはクロリアからの「何か起こる」というサイン。それは察しの悪い僕にもわかること。
従って、僕は今、このサインが人狼の襲撃が開始されることを伝えようとしてくれているのだと考え、脳内でどうするべきなのか、というイメージトレーニングを始めている。どうすれば、まわりの人たちを守れるか。どうすれば、クロリアのことを守れるか。ただ、それだけのことに集中している。
しかし、イメージトレーニングであっても、上手くいくビジョンが全く見えない。問題発生だ。
「…………!」
何故か、急に身体がピクリと動いた。来る――。
……次の瞬間、激烈な痛みが耳の中にまで伝わってくるような激しい悲鳴が辺りに轟いた。
鼓膜を破り裂いてくるような、そんな悲鳴は、僕たちの心を焦らせていく。
「ふむ。やはり、な」
クロリアは、悲鳴に臆することもなく、冷静な声音でそう言った。