5.出会い
レトロな雰囲気。古い、かどうかはわからない。その一言で一緒くたにして良いのかはわからないので、断定はしないのだが、あえて表現するのならば、趣きがあり、昔を感じるディテール。目の前に聳え立つものはそんな感じの建物であった。
現実世界の日本。それで言うのならば、大正か明治か。それくらいの時代に建てられた所謂レトロモダン建築というやつ。
どうやら、クロリアの言う目的地とはここのことらしい。
僕は辺りを見回してみる。そこから見えるのはエントランス、ロビー、無数に存在する小さな窓、その建物に面した道を歩く人たち。
その情報を整理して、僕はここがどういう建物なのか推理してみる。
大荷物を抱えた人。たくさんの従業員。羽振りの良さそうな人。
宿泊施設か。ここは、周囲の様子等を判断するに、ホテル、であろうと思われる。
「疲れただろう、アキ。少し、休んでいこうか」
この発言だけ切り取ってみれば、捉え方によっては如何わしい発言にも聞こえる。
それはどうでもいいとして、僕はクロリアの言い方が何か含みのある言い方であることに気づき、困惑する。
クロリアは、何か企んでいる?
クロリアの笑みは、純粋な笑みをしていなかった。
僕を陥れようとしている。とか、そんなことは決してないのだが、何か隠しているというか、僕で試そうとしているような目をしていた。とても気掛かりである。
「入っちゃって良いのかな。僕、手持ちはそんなにないし、着替えとかも持ってきていないけど」
「それは安心してほしい。金銭面については私がなんとかするし、着替えはまあなんかテキトーに見繕っておいてくれ」
従業員の衣服って、借して貰えたりできるのだろうか。僕はどのようにして着替えを調達するか思考し始めた。
結局、従業員の方のご好意により、着替えはなんとか調達することができた。従業員の人、ごめんなさい。そして、本当にありがとうございます。
「部屋は五階だって。一緒の部屋にしておいたから」
「……なんか、観光気分満々じゃない?」
「そうだろうか?」
「クロリアが楽しいのなら、それはそれで良いけどね」
さらっと、言う。ちょっと、自分で言っていて、恥ずかしく思ってしまった。時間差で、その羞恥心とかいうものがやってきたのが実に自分のメンタルに効いている。
一先ず、この心を惑わすために、今から上るこの階段の段数を一段ずつ数えて平常心を保つことにしよう。
一段、二段、三段。うん。べつに、数えたところで心が落ち着いたように思いたいだけで、この心、全然落ち着いていないな。気休め程度の技にしかすぎなかったか。
なんて思っていたら、五階に到着していた。羞恥心とかいうやつは未だに心の奥底に微粒子サイズの塊として残留していたが、さすがに、もう心臓の音はバクバクと激しく鼓動を打ってはいないようだ。
ふむ。僕という存在は思考の正常化に至るまでの時間がこんなにも掛かるものなのか。
思考をする際に異常が発生してしまったら僕は大抵負の沼へとズブズブ浸かっていってしまっているのだが、なるほど。思考が正常化するまでに膨大な時間が掛かってしまうから、負の底無し沼に嵌まってしまいやすいのか。
僕は納得すると同時に、僕自身がポンコツであることを自覚させられて、悲しい気持ちになってしまった。
「ちょっと、飲み物でも買ってこようかな」
「お金は持っているのか?」
「多少ならあるけど」
「それは、キミの世界のお金だろう」
クロリアに言われて気づく。
僕が持っているのは日本円。千円札が三枚。それから五百円玉が三枚と、百円玉が七枚、十円・五円・一円玉が幾らか、といったところか。合計、五千円ちょい。一応、ある。
が、しかし、これを持っていたところで、おそらく、この世界ではただの紙くずと光った小物でしかない。
僕たちは異次元の扉というか裂け目のようなところをくぐり抜け、異国の地へやってきた。
異国の地、というか、現実世界から異世界へやってきた、という表現の方が正しいだろうか。
日本円が例えば海外のタイ。べつに何処の国でも良いのだが、例えば、タイで日本円を持っていたところで、タイでは日本円を使うことはできない。勿論、よっぽどの物好きのマニアに売ったり、タイに居住している日本の人たち等と交渉したり、あとは外貨と両替できる施設で例えばタイだったら日本円からバーツに両替できるのであれば使うことはできるが。
まあ、現世とは異なるこの世界では日本円をこの世界の通貨に両替する施設はないだろうし、居住している日本人もいないだろう。というわけで、この世界で日本円を用いてモノ・サービスを購入することは無理だということを僕は今さら理解したわけだ。
で。どうしよう。飲み物を買うにも、お金がないのでは意味がない。
ひょっとして、今の僕ってとても情けないのではなかろうか。もしかしなくても、すごく情けないのではないだろうか。
僕はより憂鬱な気分になってしまう。
「お茶でも良いかね?」
「……へ?」
「喉が渇いていたのだろう?」
クロリアがポットを取って、目の前の茶器にお茶を注いでいた。
自分自身の情けなさを心の中で悔いていて、その結果我を奪われてしまっていたから、僕たちが部屋の中に入っていたことに漸く気がつく。
「あ、ありがとう」
非力。無一文。無知。ネガティブなワードが自分の頭の中に浮かんでくる。こんな僕で、果たしてクロリアの護衛役が務まるのだろうか。
不安が募っていく。僕の体内で、不安、という要素が九割以上の陣地を占拠していた。
僕は、その不安を拭おうとするために、クロリアが入れてくれたお茶を飲む。美味しい。
お茶ソムリエとかではないので舌が肥えてはいない。むしろ、その逆でだいたいなんでも美味しく頂戴するので、味覚には乏しい方なのかもしれない。
でも、これは客観的に考えても美味しい、と感じることができるお茶だ。
いや、もしかしたら『クロリアが入れてくれた』という付加価値が、僕の脳の中で優先順位の上位に押し上げられて、知らず知らずのうちに、客観的に判断することを忘れて『美味しい』と、思っているだけなのかもしれないが。
と、いろいろと思考を巡らせていたら、突然、背後にあるドアがガチャリ、という音を立てた。ドアが開いた音だ。
「はい?」
「ありゃ? 部屋、間違えちったかな?」
振り向くと、そこにはスポーツウェアみたいな衣服を着た、クロリアとはまた感じのちがった金髪のお姉さんがいた。
そのお姉さんは、僕たちのことをまじまじと見て、怪訝そうな顔をする。どうしたというのだろうか?
「あんたら……ヘンテコな格好だね!」
ピシャーン。僕の身体の中で、雷が落ちたみたいな衝撃音が鳴り響く。
ぼ、僕たちって、ヘンテコな格好な、なのか。クロリアはたしかに現実世界にいたら異様な雰囲気を醸し出している少女ではあるけれど、僕の格好って、ヘンテコかい?
そもそも、お姉さんの格好も……まあ、現実世界だったら違和感はない……のかな? でも、この世界の人々をチラッと見ていたからわかるのだけれど、お姉さんの格好はなんというか現代的で、この世界の雰囲気とはちがう気がする。この世界の人たちは、僕が生きている世界の一世紀から二世紀くらい前の格好をした、所謂、貴族? の、ような格好をした人たちばかりだ。
だから、お姉さんがそれを言うのは、なんだろう。僕の世界の言葉で、ブーメラン発言、というものがあるのだが。所謂、そのブーメラン発言、というものをしているような気がするのは気のせいだろうか。
「まあ、この出会いも何かの縁ってことで」
「はぁ、そうですか……?」
お姉さんのペースに呑まれる。
会話が一方的。そんな気もしないでもない。
「アタシ、ヴェル。ヴェル・クローネル。よろしく。ただの放浪人」
「僕は天道アキです。こっちの女の子がクロリア。僕たちも……放浪人みたいなものかな?」
僕はチラッとクロリアの方を向いた。クロリアは僕の服の裾を掴み、僕の後ろに隠れてヴェルのことを注意深そうに見ていた。
このお姉さんが人狼なのだろうか。それとも、ただ、クロリアが警戒しているだけだろうか。
さすがに、このお姉さんが人狼ってことはないか。だとするならば、クロリアはもっと大胆なアクションをするはずだ。
それに、人狼であるならば、その場から全力で逃走するか、もしくは相手を引っ掻いたり目潰しをしたりして抵抗するか、あるいは恐怖で立ち竦んで動けないか。この中のいずれかのアクションが発生していそうではある。普通の人であれば。
勿論、刺激をしないように立ち回る、という方法もあるし、なんならもし本当にヴェルが人狼であるのならば、クロリアは僕に目の前のヴェルというお姉さんが人狼であるのだと耳打ちをしてくるだろう。
クロリアはそのどれでもないアクションを取っている。
単純に、人見知りというか、知らない人だから警戒しているだけか。
「えっと、ヴェルさん?」
「ヴェルでいいよ」
「その後ろの重そうな荷物、何?」
「えっ、これ? 知りたい?」
すごい目を輝かせて訊いてくる。おっと、訊かない方が良かったかもしれない。
僕はテキトーにウンウンと頷いてあげた。
「ええっと、まず、ダンベルでしょ。それから予備のダンベルと布教用のダンベル、そしてプレゼント用のダンベルと、それと米袋がいち、にぃ、さん、しぃ、五袋とあといろいろ」
聞いていて、なんでそんなものを持ってきているんだ、と思うような荷物ばかり。あと、この世界でも米というものは存在するし、なんならダンベルも存在するのか。
何故、ヴェルがダンベルを持っているのかは知らないけれども。
世界観的に、主食は小麦っぽい感じがするのだが、どうやら、ヴェルの荷物を聞いた感じ、彼女は米を好むらしい。よくわからない世界観だ。
「ねぇ、我ながらこの荷物……重すぎじゃない?」
それを僕たちに言われましても。どう返せば良いのやら。
「えっと、そのカギ隣のお部屋ですよね? 僕たちもいっしょに運びましょうか?」
「マジか!? 助かるー!」
ヴェルは快活そうに笑う。
いてててて。米袋、重いなぁ。
僕は僕の腰のことを案じながら、隣の部屋までヴェルの荷物を運ぶのを手伝ってあげた。