2.魔法は貴方の手の中に
誘拐……誘拐とはいったい?
クロリアの口から急に飛び出してきた物騒な単語を、僕は頭の中で繰り返し再生する。
そして、考える。だけど、考えたところで、クロリアの意図はよくわからない。僕にはこの問の解に辿り着くことができない。
とにかく、今、現時点でわかっている情報を並べていく。
相談がある、とクロリアに言われ、クロリアは僕のことを誘拐する、と言った。
それだけ。わかっていることは、それだけ。情報量が少ない。これではクロリアの考えていることに僕の思考が辿り着くことは不可能であると言って良い。
故に、僕は答えを求めようとする。クロリアのその意味深長な発言の意図を知りたくて。
ただ、安直に。『それ』をするという、指令を受け取り指令通りに動くロボットのように。訊ねてしまう。
「問いに問いで返すのはおかしいのかもしれないけど……クロリア。誘拐って、どういう意味?」
「言葉通りの意味だよ」
言葉通り、か。僕の頭の中に渦巻く謎は、答えを知っている者から答えを聞き出そうとしても、結局変わらず渦巻いたままだった。
むしろ、状況はさらに悪化した。クロリアの返しに、僕は発言の意図についてどういうことなのか、ともっともっと頭の中にハテナマークを浮かべてしまう。
クロリアの発言に引っ張られ、自分の『クロリアの意図を知りたい』という欲に脳みそがかき回されてしまっている。この状態では、正常に思考が働かない。頭の中で生じてしまったノイズをまるごと消去しなければ。でなければ、クロリアの問いに対して、僕はまともに応答することができない。
「誘拐、されてくれるかな?」
「言葉だけ聞いたら、たぶん『うん』と首を縦に振る人間はそうそういないと思うよ」
やはり、僕にはクロリアの思考を読むことができない。
しかし、だからと言って、答えを出さずにこのままにしていても、何も進展はしない。単純に、これは僕がクロリアのその問いにイエスと答えるかノーと答えるか、というだけの選択。
答えない、という選択もあるにはあるけれど、その選択はなんとなくしてはいけないような気がする。答えない、という選択はこの問いにおいて、とても後悔してしまう。僕の直感がそう言っている気がして。
後悔するくらいなら。いっそ、何も考えずに、ただ自分の思うように。愚直に、答えを出せば良いのではないだろうか?
僕はクロリアの瞳を真っ直ぐに見つめ、僕自身の答えを出そうとする。
ただ、簡単な質問をされてそれに答えるだけであるのなら、僕はこれほどまでに考えることはなかったのだが、これは簡単な質問ではない。クロリアの頭の中には何か深い考えがあって、このような問いを僕にしているのだ。
であれば、僕もその考えに応えるため、安直な答えを出してはいけない、と、汲み取ることもできる。
けれど、僕は僕自身のことを知っているから、それではいつまで経っても先に進まないことは明らかだ。
だから、僕は愚直にもこの問いの答えを出す。
「……わかったよ、クロリア。僕のことを誘拐してもらって構わない」
僕が答えると、クロリアは「そうか、そうか」と笑んで、僕に背を向けるようにくるりと後ろを向いた。
クロリア的にはこれで良かったのかもしれない。僕自身の許しを貰いたくて、聞いてきたのだから。
ただ、僕自身はこれについてどう思っているのだろうか。自分の心に訊いてみる。
嫌だ、という感情はない。
何が待ち受けているのだろう。何が起こるのだろう。
家族にはどう伝えたら良いのだろう。僕が連絡も寄越さずに急にいなくなって、問題ないのだろうか。
といった、好奇心と不安。僕の心の中にはそれらの感情が複雑に入り乱れていた。
好奇心、の方はともかくとして、問題は不安の方か。この不安をどう取り除いたら良いものか。
一先ず、家族への連絡。それについて解決する。そのために、僕は懐から携帯電話を取り出した。
さて、家族には何と送ったら良いものか。
まあ、とりあえず無難に『友達の家に暫く泊まることになった』とでもメールで送っておこう。幸いなことに、僕の家族は放任主義であり、そういったことには寛容な方であるので、これで不安に思っていたことの一つは消し去れた。
「そうか、キミの家族にもご迷惑をお掛けしてしまうことになってしまうな」
いつの間にか、クロリアが僕のすぐそばまで寄ってきていて、僕の携帯の画面をジロリと覗き込んでいた。
「心配ないよ。連絡したから」
僕は携帯電話をすぐに懐にしまい、クロリアを安心させるような言葉を言ってみた。
反射的にというか、誘拐されることを了承したというのに、クロリアに気を遣われてしまって、逆に、クロリアに迷惑を掛けてしまうのは、なんだか申し訳ない気がした。それ故に、僕の口からそのような言葉が出てしまったのだろう。
「ところでさ、僕はきみにどれくらいの間、誘拐されるのだろう?」
疑問に思っていたことを一つ訊いてみる。荷造りだとかはしていない。
今日のうちに帰れるのであれば、そもそも連絡する意味も特になかった。
というか、暫くの間、誘拐されることを前提として僕は家族に暫く帰れないという旨をメールで連絡してしまったわけなのだが、いろいろなことをまだクロリアの口から聞かされていない。
それらも訊いた方が良いのか考えたのだが、一度にあれこれ訊いてクロリアを困らすのも良くないと考え、僕は自分の目の前にあった問題たちを一旦放置して、クロリアの返答を待つことにした。
「……そうだね。どれくらいなら許されるだろうか」
「どれくらいでも。問題ないよ」
きっぱりと言ってみせる。自分でも驚くほど、さらっとそんな言葉が口から出た。
本当は嘘だ。問題ないわけではない。許すとか許さないとか、そういうことではないし、べつに僕自身は百日だろうが二百日だろうが誘拐してもらってくれても構わないのだが、いくら放任主義の家族だとは言っても、限度はある。
さすがに、百日や二百日となってくると、『友達の家に泊まっている』なんて嘘は通用しない。警察に捜索届け願いでも出されてしまうだろう。
だけれども、僕の口からはすんなりと『問題ない』という言葉が出た。
これはクロリアに誘拐されることと、家族を天秤に掛けた結果、僕はクロリアを取ってしまった、とも言える。
ただ、これは一時の感情に過ぎないのかもしれない。不安というものは時間が経つに連れて、増幅してくるもの。
今はクロリアに誘拐される、というワクワクとかドキドキが僕の心の中に埋まっているが、だんだんとそのワクワクとドキドキの間に不安が挟まっていき、膨張し、心の中の状態をかき乱していく。
強がって格好をつけてしまっているが、さあ、いったい僕の強がりがいつまで保つものか。
「ふふふ。それは嬉しい答えが聞けた。で、どれくらいの間誘拐されるか、という問いだけれど、わからない、とでも答えておこうか」
クロリアはお茶目にはにかんで、僕の口に人差し指を押し当てた。
「さて、と。では、行こうか」
クロリアは近くの床に置いていたステッキを手に取って、僕に、ついて来い、という合図をする。
その方向には階段はない。ここは屋上であるので、まず、此処から降りるためには階段を下る必要があるのだが、クロリアの向いている方向は階段がある方とは真反対の方向だ。
どういうことだろう?
僕の頭の中には当然の疑問が湧いてきていた。
僕が不思議に思っていると、次の瞬間、クロリアの持っていたステッキが独りでに動き、ステッキはまるでこの世界の空間を切り裂くようにして、異次元へと繋ぐドア、のようなものをつくり出していた。
それを終えると、ステッキはクロリアの手元に戻っていく。
何事もなかったかのようにクロリアはそのステッキで床を軽く突いた。
「驚いたかな?」
「う、うん……とても」
驚きすぎて、どのように反応したら良いものか、僕にはわからなかった。
現代科学の力でどうにかできるようなものではない。
これは、夢か、幻か。どうやら、ファンタジーの世界に迷い込んでしまったようである。
いや、クロリアと出会ったときから既に、僕は迷い込んでしまっていたのかもしれない。クロリアという女の子の存在に、魅了されて。
そして、幻想の世界に誘われた。僕という、ちっぽけな存在が。
僕は息を呑み、切り裂かれた時空の狭間にそっと近づく。今にも、この空間に吸い込まれてしまいそうだ。
危ない。自分が、自分である、ということを確認していなければ、意識を保つことができなかった。それほど強い力を、この空間から感じる。
この感じ。この雰囲気。はじめてだ。はじめて、触れる何か。言葉では表現できそうもない何か。それが、この向こうには、ある。
「僕は、いったいこれから、どうなってしまうんだ……」
無意識に、僕の口から漏れ出てしまう。
僕の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていたたくさんの感情は、さらに複雑に混ざり合っていく。ぐちゃぐちゃと、ぐちゃぐちゃと。
現実? 夢?
僕は再び、自分の目の前で起きていることが事実であるのか、それとも紛い物であるのか思考する。そして、思考をしたことで、まだ自分がガラクタのようにボロボロに壊れてしまってはいない、ということを理解し、安堵する。まだ、僕は狂っていないようだ。
「さあ、こっちへ」
クロリアが空間の中に入り、そして僕の方へと振り返って、僕に向けて手を伸ばす。この手を取ったら、もう現実世界には帰って来れない。そんな気がして。
僕は、瞬間、その手を取ることを躊躇した。クロリアのことを拒んでいるわけではないのだが、幻想世界へ迷い込みに行くというのは、どうやら僕にとってとても勇気のいることらしい。身体が竦んでしまっている。
決めた、だろ。覚悟。さあ、身体を動かせ。
と、自分に言い聞かせてみる。少しずつ、固まってしまった身体が動き出してくる。
一センチ、二センチ。微々たるものだが、身体が前へ進んでいく。
そして、僕の手は、漸く、クロリアの手を取っていた。気がつくと、僕は空間の中に入っていた。
「“魔法は貴方の手の中に”」
クロリアが何か呪文のような言葉を呟くと、切り裂かれてできた隙間が消え、遂に、僕たちは現実世界に戻ることができなくなってしまう。
「目を瞑って」
クロリアに促されて、僕は瞼を閉じる。
そして、二秒後、僕が目を開けると、僕の視界の前には異国風の街が広がり、街は夜の姿を見せていた。