18.仲間割れ
時間が止まってしまったかのような錯覚。竦む足。信じられないものを見てしまったときのような気持ち。
僕は堪えきれず、胸に手を当てて、自分の心を落ち着かせようとする。心臓は平常運転に戻りそうにない。
「どうして、そう、思ったの?」
「……否定してくれないんだね」
まだ、僕の中ではヴェルが魔術師であると完全に信じきれていなかったのだが、ヴェルのその言葉で、僕の悪い予想は確信に変わってしまう。
……確信に変わってしまった。
僕は人間で、ヴェルも人間だ。
僕は人狼を倒したいというクロリアの願いのために、この世界にやって来た。
ヴェルは、魔術師で、それで、ヴェルは、つまり、人狼の味方であって、人間を憎む、存在で。
僕とヴェルは、相反しているということで。従って、ヴェルは人間である僕の命を狙い、そして、僕はその人間の命を狙うヴェルの前に阻まなければならなくて。
そして、僕とヴェルは、敵同士ということであり、その視点で今までのことを振り返ってみると、僕から見たヴェルの印象は大きく変わってしまう。ことに、なる、のか?
僕の頭は混乱を極めていた。何が正解で、何が不正解で、今までの何処から何処までが真実で、どの部分が誤っていて、僕は何をすれば良かったのか、と頭を悩ませてしまう。
ヴェルのあの笑顔と快活そうな話しぶりは、すべて、僕たちを欺くための、嘘、であった……?
「……何もかも、都合が良すぎたんだよ。あり得ないくらいにね。引っ掛かりを覚えたのは、何回かあったけど、きみが魔術師なのではないか、と思い始めたのは、クロリアとアーノルド、そして、僕ときみの二組が都合良く見えない謎の壁に分断されたときだった」
「なるほど」
平常通りのヴェルではない、冷たい声で頷き返される。感情の込められていない、死にかけの人間のようなその声は、僕の恐怖心をさらに煽っていく。
「ヴェル。教えてよ。きみは、何故、人間の命を狙っている。そして、何故、きみは人狼側に寄り添おうとしている?」
「アハハッ! 短い間だったけど、仲良くしてくれたわけだし、特別に教えてあげないこともないんだけど~」
高笑いし、こちらを舐め回すような目で見てくる。
僕の知っているヴェルではない。彼女はヴェルではない。僕の目の前にいるコレはヴェルではない。
人の皮を被った狂い、狂い、狂いまくってしまった、何か。人間を演じ、人間のフリをして、人間の命を狙う、化け物。その仲間。僕は今、そいつと対峙している。
「まあ、いっか。特別に教えてあげよう」
ヴェルは、手を前に突き出して開き、下に何かを落とす。
それは、何処かで見慣れた白い何か。
これは、米、だ。その米が見る見るうちに溶けて、暗黒色の意味不明な物質を生成し始める。
「生まれながらにして、魔術を扱えた。魔術、というより、呪い、として扱われることしかないけど。だからね、捨てられたんだよ、アタシは」
暗黒色の物質から、強烈な風が吹き始め、僕の身体を吹き飛ばそうとする。クロリアの手によって、異世界に連れて来られたときと同じ感覚。通常、現実世界ではあり得ない、現象。その現象が今、僕の目の前で起こっている。
「忌み嫌われて、何処へ行っても石を投げつけられ、化け物と揶揄され、居場所がない。それが、アタシ」
しんみりとした声で、ヴェルは語る。悲しそうな顔をして。今までの、つらい思いを、思い返して。
それは、想像を絶する、過酷な過去だったのであろう。その苦難の嵐だった過去が、ヴェルという人間をこのように変えてしまったのだというのだろうか。確かに、それは同情できる部分はある。
しかし、僕はヴェルに、同情など、しない。
「ヴェル。だから、きみは人狼に味方しているってわけなんだね」
「うん、そうだよ」
「僕には全くわからないよ。ヴェル」
僕はきっぱりと言った。
「きみは人々に化け物だと罵られ、酷い扱いを受けた。だから、きみは化け物に協力をして人間に復讐をする。きみは、その『化け物』とかいうやつに成り下がってしまうための準備をしている……」
孤独な気持ち。忌み嫌われること。石を投げつけられた記憶。
わかる。全部、わかる。
僕も。僕も、同じだったから。
現実世界は残酷だ。普通に生きているだけでも、憎まれることなんてしょっちゅうある。
僕は、幼い頃、友だちに大ケガを負わせてしまったことがある。それは、僕が故意にやったとか、そんなことではなく、その友だちと公園で鬼ごっこをしていたとき、道路に飛び出てしまった友だちが車に轢かれてしまった。それ以来だ。僕は、周囲の人間から避けられるような存在になってしまっていた。
僕には姉と妹がいるが、姉にも妹にも避けられているし、親もその事件を境に、僕に冷たい態度で接するようになった。
放任主義、とクロリアには言ったのだが、正確には、放任主義なのではなく、親は失望し、僕のことなんてどうでも良くなってしまったので、僕がどうしていようが気にしていない、というのが実際の話だ。
さて、話を戻そう。
僕は大きくなり、高校に入学したが、あまり馴染めず、見た目が陰気そうだからと、やはり、虐められ、居場所がなかった。
そんなあるとき。僕はあの廃校を見つける。あの、お伽噺の世界にしか、存在し得ない光景を、僕は見つける。
僕の居場所を見つけた。これが、僕とクロリアの出会いの始めである。
だから、ヴェル。一つ、言わせてほしいことがある。
「……きみはアホだ!」
「はぇ?」
「バカ! バカバカバカバカバカバカバーカ!」
安心してほしい。僕の心は正常だ。
「忌み嫌われている? 石を投げつけられた? 化け物呼ばわりをされ続けてきた? 僕だって、同じだ。僕だって、その程度の境遇、乗り越えてきた。僕程度の人間以下の何かですら、その程度のハードルくらい乗り越えてきた。だから……えっと……確かに、僕だって、憎んだし恨んだし呪ったときだってあったけどさ、そんな僕でも、今は、人間をやめてしまおうなんて、思っていないよ。化け物に成り下がろうだなんて、思わなかったんだ」
何故なら、僕は、クロリアと出会ったから。
「何が……言いたいの……?」
「ヴェルを、化け物になんかさせないってこと。僕とヴェルは似た者同士なんだよ。似ていないようで似ている。だから、僕が化け物に成り下がらなかったように、きっと、ヴェルも心の何処かでは、人間でありたいと願っているにちがいないって。僕はそう、思っている」
そう、信じている。
「捨てられ、村に居場所がなく、放浪、生き抜くために必死で、這いずり回って、必死に必死に生きてきて、踠いて、踠いて……それが、アタシ。ねえ、アキくん。君にアタシの何がわかる?」
牙を向けるような声で、ヴェルが僕に問う。
「何もわからないよ。だって、ヴェル。僕とヴェルは、別人だもんね。ヴェルが、そう言っていた」
「そう。なら、余計な真似はしないで」
「余計な真似?」
「アタシの邪魔をしないで、ってこと」
「邪魔はしていないよ。僕は、ヴェルの手助けをするために、ヴェルの前に立ち塞がろうとしているだけ」
僕は強がるように言ってみせた。ヴェルはそれを受けて、僕のことを睨むように見る。
正直、怖い。人に睨まれる恐怖というものは、心に途轍もないダメージを与えていくものだ。それが、友好関係を結べていたと勝手に思ってしまっていた相手だとなれば、余計に自分の心にヒビが入ってしまう。
怖い。怖い。
僕は、ヴェルと仲良くできていると思っていた。でもそれは、建前だけで、実際は、人間と人間の命を狙う魔術師で、ヴェルは僕たち人間の命を狙っていて、ヴェルの今までのあの笑顔は全部仮初のものにすぎず、僕のことなど復讐相手にしか思っていなかったということなのである。
その事実を思い切り突きつけられて、僕はとても恐ろしい気持ちになってしまうし、とても悲しい気持ちにもなってしまうし、とても寂しい気持ちにもなってしまう。
ヴェル。短い間だったけれど、僕とヴェルがいっしょに過ごしたあの時間、あのときに見せてくれたヴェルの顔・表情すべてが、本当に嘘だった、というわけ……なのか……?
僕はそれを信じきることができずにいて、ヴェルの目をよく見ることで、ヴェルの心情を確かめようとしてみる。僕の目がヴェルの目を真っ正面に捉えたとき、ヴェルはビクッとし、僕のことを視界に入れないように目線をスッとずらした。
やっぱり。やっぱりだ。すべてがすべて、嘘というわけではない。それがわかって良かった。
「ヴェル。きみは化け物なんかじゃない。きみは、僕の友だちで、人間だ」
「やだ……やめて……」
「さあ、ヴェル。魔術を掛けるのをやめて。僕の手を取って――」
瞬間。横の窓ガラスがパリンと割れて弾け飛び、辺りに散らばる。ガラスの破片とともに、黒くて毛むくじゃらの何かが中に入ってくる。
紅く輝く瞳。長く鋭い、獣のような爪。獰猛な生物のトレードマークといえる、鋭い牙。
お伽噺のような見た目。お伽噺でしか存在し得ない、何か。
これは――人狼……?
場の空気を掌握するような、圧。ただ、そこに存在するというだけでその圧が伝わってくる。
「人狼……サマ……どうか、アタシをお救いくだ……さい……」
ふらふらとした足取りで、ヴェルは人狼のもとへ向かっていく。信奉し過ぎて、何が正しくて何が間違いなのか判別のつかない、イカれ狂ってしまった狂信者。ヴェルは、それになろうとしている。
止めないと。僕が止めないと。
と。覚悟を決めて戦闘態勢に入ろうとしていると、人狼はヴェルの方へゆっくりと歩み寄り、そして、ヴェルのことを、その鋭い爪で引き裂いた。
「……えっ?」
信奉していた対象に、攻撃をされる。その光景が信じられなかったのか、ヴェルが思わず、空気の抜けたタイヤみたいな声を出してしまう。
まずい。このままでは、ヴェルが殺されてしまう。
僕は勇気を振り絞って拳をつくり、人狼に立ち向かっていく。
と、そのとき。
『“魔法は貴方の手の中に”』
クロリアの言っていた呪文のような言葉が囁きかけられるように僕の脳内に響き、そして、何処からか、不思議な力が湧き出してくるような感覚になる。
これは……? いや、考えている暇はない。
僕は全身に力を込めて、思い切り走り、その勢いのまま人狼をぶん殴った。
すると、人狼は後ろに吹き飛び、廊下の向こうを思い切り転がり滑っていく。
そして、僕はハッとする。メーデー。エスオーエス。
いつ、人狼が起き上がってくるかわからない。アダンと決めた緊急用の救難サイン。そのサインを送らないと。
僕は懐にしまっていた、アダンのくれた爆音鳴り響く悪戯玩具を取り出し、僕はその玩具のボタンを押し、ホテル内に爆音を轟かせた。
「逃げよう! ヴェル!」
「……どうして、アタシを?」
「時間がない!」
「アタシは……」
「僕の手を取って! さあ、早く!」
「う、うん!」
僕は手負いのヴェルのことを背負いながら、その場から立ち去り始めた。