1.誘拐
学校の屋上。そこに、いつも彼女はいる。
麗しい見た目。百年か二百年か。僕が生まれた遥か昔から存在していたかのような雰囲気。まるで、アンティークドールのよう。
肌は白く、髪は黄金色に輝き、その美しくて人間とは思えないような『モノ』を黒い衣が包む。
そして、その『モノ』がルビーのように真紅に輝く双眸で、僕のことを待っていたかのように見つめていた。
「……クロリア」
僕はその『モノ』の名を呼んだ。僕のその言葉に反応するように、その『モノ』……クロリアは僅かに瞬きをし、口許を緩ませた。
瞬間、花弁が辺りを舞い、漆黒に染まったカラスが此所を飛び立つ。
世界がクロリアに合わせて動いているかのようだ。クロリアのために、神は空気を創造する。
「待ちくたびれた」
美しい花のように可憐な声で、クロリアは僕に向けて言う。
優しい声音。表面上はそのように感じ取れる。穏やかな日溜まりのような。柔らかな声。
だけれども、僕にはこのクロリアという一人の少女のことを知っている。忘れたいと思っても、記憶を瞬間接着剤で固定してしまったのではないかと思うくらい、忘れることはできない。
荒野に咲く、一輪の花。キザったらしい表現ではあるが、その表現は実にクロリアに似合っている。
「遅い、アキ」
「待たせちゃってごめん。『現実』はとても忙しいからね」
言い訳めいたことがするりと口から溢れる。いけない。僕は自己弁護をするために、いつも他のモノを盾にしてしまう。
卑怯だ。醜い、と思う。こんな醜い自分が、クロリアの隣にいて良いものなのだろうか。
と。このように僕は普段から自身の卑下による脳内自傷コンサートから抜け出すことができなくなってしまう。
もっと、自分に自信を持て。自分に自信を。僕は僕。僕にだって長所はあるはずだ。確かに醜いかもしれないが、醜くても磨けば光る、かもしれない。
自分に言い聞かせる。しかし、やはり少しずつ自分の負の感情が心の奥底の沼から忍び寄ってくる。僕の理性を闇という毒に浸すために。
ジワリ、ジワリ。心が濁っていくイメージ。プロジェクターが脳の中に現れ、それを投影していく。
恐怖で満ちていく。恐怖心でいっぱいになるから、どんどん沼に引き摺り込まれていく。
負のスパイラルの完成だ。次第に心も脳も麻痺してきて、過去の嫌な思い出を何処から連れてきてフラッシュバックさせてくる。
ああ、そうか。僕は――。
「どうした? 具合が悪いのか?」
様子をおかしく思ったクロリアが、僕の顔を覗き込んでくる。
顔が近い。凄まじく近い。目を合わせる、という行為を少し恥ずかしく思ってしまったために、僕は少し左横の方に目を逸らした。
「あぁ、いや。心配させてごめん。僕はとても元気だ。とても元気」
「元気な輩は、自分から『元気、元気』と言うのか、些か懐疑的ではあるが。そういうことにしておこう」
クロリアの方に向き直ると、クロリアは僕のことを小馬鹿にしているような笑みをしていた。それを僕は少し嬉しく思ってしまう。
さて、僕はマゾヒズムだとかマゾヒストだとかいったアレだったり、あるいは怪しげな宗教にでも入信していて、その宗教の教えに則って何か宗教内のきまり、のようなものをしていたりする、異常者かもしくは熱心な信奉者、でもあるというのだろうか。
いや。僕は自称ノーマルであるし、べつに、宗教というものに関して特に関心を抱いている人間ではない。
自分自身のことを脳内で一瞬だけ「変人である」と認めてしまうところであったが、自制心がなんとか働いてくれたために、僕は自分自身に対して、かろうじて変人であるとは思っていないようだ。
僕のまわりにいる者が僕のことをどう思っているか、ということはべつにして。
「……キミは物好きだね」
「物好き?」
唐突に。クロリアは僕が持っている袋から菓子パンを取り出しながら、言う。
物好きとは。物好き、と言われるほど変わった趣味でもしていただろうか。僕の趣味は野鳥観察。あと、それからテーブルゲームをすることも好きだ。残念ながら、一緒にする相手がなかなか見つからないのだが。それから、風景画を描くことも好きか。油絵を描くのには手間とお金が掛かるのだが、人間はいつかは死ぬ。ならば、好きなことに時間もお金も費やすことが合理的であると僕は考える。
現実問題、それが如何せん上手くいかないのだけれども。
話のレールから思考が脱線していってしまったので、一度、戻して。ふむ。僕の何処から物好きという要素が出てきたのだろうか。
キミは相変わらず罵られることが好きだね、という遠回しな皮肉? それとも、キミは自虐的趣向があるだなんて実に興味深い人間だね、と間接的に僕のことを気味が悪い人間だと言っている?
おいおい。待って。もし、仮にこの僕の考えが間違っていないのだとしたら、僕はもしや、クロリアに嫌われているのではないだろうか。
それとも、嫌われるようなことをしてしまった、とか。
「ふふっ。そんなわけないだろう?」
僕の思考が筒抜けだったのか、クロリアは僕の思っていたことをすべて何処かに消し去るように否定した。
「『此所』に来る物好きな人間はキミくらいしかいない。と、言っている」
答え合わせされても、僕にはなんのことかさっぱりわからなかった。
まあ、確かに、此所に来るには、少しばかりの勇気と、少しばかりの運が必要ではあるけれど。
僕は柵の方に向かい、そこから広がる景色を眺める。遠くには街と海。あとは木々が視界を埋め尽くす。たまにカラスが視界の端に映る。
此所の周辺には人家ひとつなく、建物は街の方まで行かないと、ない。辺鄙なところにある。
けれど、学校って、辺鄙なところにでもあるものだろう。だから、それは変に思うところではない。何も、不可思議なことではないはずだ。
今も存在しているのならば。
問題は、僕がこの学校の生徒ではないということ。
いや、正確に言えば、ここは学校だった。そして、僕はその昔学校だった場所に無断侵入している。
此所は、廃校だ。
その廃校の屋上に、僕みたいな者がいるのもおかしな話だし、廃校の屋上に、住む世界も違うような可憐な少女がいるというのもまたおかしな話だ。
まあ、それはそれとして、僕が此所にいるのが物好きに繋がるかというと、それはまたべつの話だとは思うのだけれども。
そもそも、僕以外にもこの場所に訪れている者はいる。だから、クロリアの言葉にはいまいちピンと来なかった。
「ああ、そうだ。アキ。今日はキミに相談があるのだが、聞いてもらえないかな?」
「相談?」
僕はキョトンとした顔でクロリアのことを見た。
相談とは、珍しい。クロリアはだいたいこの場所で僕のことを待っているか、カラスや花たちと戯れているかで、話の殆どが僕との雑談かカラスや花たちとの会話か、といったところなのだ。故に、今、クロリアの口から相談という二語が出たことに、僕は驚いてしまう。
それと同時に、クロリアから相談を持ち掛けられる仲である、という事実を認識し、僕は嬉しくも思った。
う、うん。そ、相談か。相談かぁ。良し。僕を頼ってくれて良いからね、クロリア?
僕はにこやかな顔をクロリアに向ける。どうやら、僕というものは単純な生き物らしい。頼られて嬉しい、という感情が安直にも自分自身の顔や所作に表れてしまっている。
「やけに嬉しそうだな、キミは」
若干引き気味のトーンだった。しまった。感情を表に出しすぎた。そもそも、相手は困っているから僕に相談してきているというのに、僕が嬉しそうな感情を前に出してしまってはダメじゃないか。
僕は両の手で自分の頬を軽く叩き、何処かに飛んでいきそうだった正常な意識を取り戻していく。
クロリアは困っているんだ。困っているから、僕に相談を持ち掛けたんだ。だというのに、僕がクロリアをさらに困らせてしまってどうするんだ。クロリアに、それは失礼なのではないだろうか。
真剣に。しっかりと、話を聞いて、的確なことを言う。あるいは的確なことを言うことはできなくても、クロリアをフォローしてあげる。それが、僕の役目だ。
「それで、相談って?」
僕は、クロリアに内容について訊ねてみる。
クロリアの相談とはいったいなんだろうか。
可愛らしい相談。クロリアに似合ってはいる。だが、僕は直感からこれはあり得ないだろうと考える。
深刻な相談。にしては、空気が重々しくないし、クロリアの心象もここまで穏やかなものにはならないであろう、と推測される。
軽くもない。重くもない。その中間。軽微なものではないし、まだ深刻な状況には至っていない。所謂、ふわっとして曖昧でどちらつかずであり定まっていない状態。
それほどにまで微妙な問題。おそらく、その相談を僕は受けるというのであろう。
サアーッ、と軽く風が吹く。次第に、僕の心の中に、緊張感が生まれてくる。この静寂は、何?
相談の内容。それを聞いてしまったら、もう現実には戻って来れないような、そんな予感がして。僕はゴクリと生唾を飲み込む。先程までの締まりのない呑気だったと思われる僕の顔は、現在、強張ってガチガチに固まり始めていっていた。
はて。おかしい。さっきまであんなにリラックスしていたというのに、いったいどうしてしまったのか。心や身体の状況というものは、すぐにコロコロと変わってしまうものだ。
「心の準備はできたか?」
「?」
クロリアに訊かれ、僕はどういうことかと首を傾げる。
心の準備、というと、つまり、僕がそれを聞くと驚くことであるということなのだろうか。相談というか、今の発言だけ切り取ってみれば、今まで隠し通してきたことを告白する数秒前、というシーンのようにも見える。というか、どちらかというとそっちの方にしか見えない。
「うん。心の準備? が、なんで必要かはわからないけど、話してくれて構わないよ」
僕が言うと、クロリアは一拍置いて、こう言った。
「キミのことを誘拐しても構わないだろうか」
と。僕は思わず自分自身の耳を疑った。
もしかしたら、何か聞き間違えたのかもしれない。自分の聞き間違いだ。
でも、どうやら、クロリアが言ったことは聞き間違えでも、自分の耳がイカれてしまったのでも、将又、自分の脳がおかしくなってしまったのでもなさそうだということを、クロリアの目を見て僕は思った。