オリンピックは無観客
西暦2080年。
ここスイス、ローザンヌのIOC本部では次回のオークランドオリンピックに向けた会合が開かれていた。
「困ったものだ。」
IOC会長カールロイス4世はため息をついた。
「会長、もう限界ですよ。」
副会長のオバスチャン・コー5世も天を仰いで言った。
「2032年のオリンピックを最後に、100メートルの世界記録は50年間出ていません。4×100mリレーに至っては2028年のサムライジャパンの記録がまだ残っている状況です。」
隣に鎮座するもう一人の副会長、ホワットマイケルジョンソン4世もまた苛立ちを隠せない。
「いずれにしても陸上競技の世界記録は全て21世紀前半のものだ。曽祖父がいま現役だったとしても楽々400メートル決勝進出だよ。もしかしたら表彰台にも立てるかも知れない。とにかくこの半世紀にわたる低迷は酷いものだ。今や世界新記録なんて夢のまた夢。」
ロイス会長も窓の外を見ながら言う。
「隣のビルのパラリンピック連盟が羨ましいよ。」
オバスチャンも半ばあきらめたような口調でうなずく。
「マスコミの取り上げ方が違いますよね。理事には有名人が名を連ねているし、連盟のスタッフはみんな裕福で晴れやかですよ。」
ホワットマイケルジョンソンもこれに呼応する。
「仕方がないだろう。今や記録は全てパラの方が上だ。」
オバスチャンの憤りに拍車がかかる。
「次のパラリンピックでは誰が9秒の壁を破るか、有望選手たちは世間の注目の的です。
それに走り幅跳びに至っては10m突破ですよ。」
ロイス会長も深くうなずいてはいるが、一番の心配ごとは自身の人気だ。
「観客動員数もマスコミの取り扱いも段違いだ。」
オバスチャンは財政状態の方が気がかりだ。
「協会の収入も桁違いですよ。」
ホワットマイケルジョンソンは明らかに今更といった表情だ。
「そりゃそうだろ。「記録達成」とか、「世界新記録」という言葉が40年間出ていないスポーツを誰が見るんだい?きっと選手の家族だけだろう。」
「まるで小・中学校の運動会ですね。」
何とも情けない比喩に室内の温度は更に冷え込んでいる。
カールロイス会長が仕切り直す。
「本題に話しを戻そう。100mで新記録を出すにはどうしたらいいと思うかね?」
事務局長のボボカ6世が答える。
「競技場のトラックの仕様についてはこれ以上、新記録を出せる材質はないでしょう。
理論上考えられる素材は21世紀前半に全て実現化しました。」
事務局次長のリョウ・ヤマカタ3世が付け加える。
「新素材の開発はほぼAIに任せていますが人間の10億倍の計算能力をもってしてもこの10年、発見は全く無いんです。
これはトラックだけでなく、選手が身につけるウェア、ランニングシューズ、更に棒高跳びのポールやリレーのバトンにいたるまで、製品開発は極めるとこまで来ています。」
オバスチャンも悔しさを表情に出して付け加える。
「それに比べてパラの方はまだまだ伸びしろがあります。
ニーケは今や義足のトップメーカーだし、ダディダスペルシェはレース用車イスの開発に乗り出していますしね。」
「そうか、要するに君達には案がないということだな。」
会長の情けなさそうな言葉に、ホワットマイケルがフォローする。
「カールロイス会長、科学技術の鈍化はスポーツ用品や競技施設の開発に限ったわけではありませんからね。21世紀中頃から二酸化炭素の増加に繋がる製品開発は全て禁止されたこともあって、21世紀後半になると偉大な発明は出ていません。お陰でノーベル賞も無くなったくらいです。
要するに新記録が出ないのは、会長の責任ではありません。」
「フォローをありがとう、マイケル君。新記録が出ない責任は無いにしても、ここにいる君たちをIOC理事に選んだことついては、たった今、大いに責任を感じているところだよ。」
理事たちはお互いを見つめ、あるいは周囲を見回している。
今年新たに理事に就任した日本のコスケ・イタジマが手を挙げた。
「会長、私にはまだ就学前の娘がいます。」
他の理事たちも負けじと命乞いを始めた。
「会長、私は親の介護中です。」
「会長、私は妻と離婚の調停中です。」
たまらずカールロイズが叫ぶ。
「わかった。もういい。聞いてくれ。」
カールロイスは力のこもった声で理事たちに提案する。
「私に策がある。ただし、この場に及んでも倫理観を失わない自信がある者は、席を外してくれたまえ。」
すかさずオバスチャンコーが拳を挙げて応える。
「会長、オリンピックがこの先もずっと続くためなら、何でもします。犯罪行為だろうが粉飾決算だろうが私は会長の指示に従います。」
オバスチャンのゴマすり発言を遮るようにボボカが尋ねる。
「会長、どんな策なんですか?」
カールロイスは少し背筋を伸ばして、秘密会議に相応しい独り言のような小声で言う。
「トラックを一回り小さくしてはどうだろう。一回りと言っても観客が誰も気が付かないくらいの僅かな縮小でいいんだ。
例えば100mの直線コースを10cm短くするんだ。
現在100mの記録は9秒453。100mが10cm短くなれば、1000分の1早くなるハズだから、記録は9秒452になる。」
「会長、素晴らしい策略です。0.001秒でもいいから我々は世界新記録が欲しいんですよ。」
オバスチャンのゴマすり具合は快調だ。
そんな中、一人の理事が発言した。
ニュージーランドオリンピック協会会長のラッセル・グロウ4世である。
「会長、次回開催地のオークランドでは今、壮大な奇策を用意してるんですよ。」
「何だね。君のひいお爺さんのようにコロシアムで剣闘士の戦いでもやるのかね。」
「滅相もない。そもそも格闘技は野蛮だという理由で、レスリング、ボクシング、柔道、テコンドーは全て21世紀半ばに廃止されたじゃないですか。100m走で世界新記録を出す方法ですよ。」
「私の案を上回る良い案があったらぜひ教えて欲しいものだね。」
「距離を縮めるような姑息な手段ではありませんよ。
実は今、オークランドに建設中のスタジアムのトラックに自動傾斜装置を設置しているんですよ。」
「傾斜?」
みんなポカンとしている。
グロウ4世が説明を続ける。
「つまり100mのスタート地点を10cmほど高くするんですよ。」
「10cmの段差があったら、すぐバレるんじゃないかね?」
ホワッツマイケルが首を傾げている。
グロウ4世は笑って答える。
「そりゃ、10cmの段差が有れば誰でも気がつくに決まってますよ。でも段差は作りません。
ゴール地点から残りの300mのトラックをスタート地点に向かって少しずつ高くしていって10cmあげるんです。
300mで10cm上げるわけだから、斜度だと0.333‰。判るわけがない。
しかしスタートから10cm低いゴールに向かって走るわけだから効果は的面のハズです。私の計算だと追い風5mの状況と同じです。」
「それは凄い。追い風5mだと、0.3秒は早くなります。新記録間違いなしですよ!」
オバスチャンはすっかり安堵している。
先祖代々陸上短距離の選手であったカールロイス会長は疑問を投げかける。
「100mは下り坂なんだろうが、ほかの競技はどうなるんだね。例えば400mなんて100mのゴール地点からのスタートだから300mは上り坂だろう。記録が出るとは思えないが。」
「会長、大丈夫ですよ。トラックの傾斜はどこも可動式なんです。選手達が走っている最中でも自由に作動できます。更に会長、スタジアムには巨大な送風機が設置されているので、追い風5mくらいまでならいつでもOKです。」
「私の案を遥かに超えた姑息な手段だ。よし、2080年、オークランド大会はこの2つの策で乗り切ろう!」
会議から一年後、オークランド大会は下馬評を覆して新記録が続出し、久しぶりに大盛況に終わった。
オークランド大会から更に40年後の2120年、オスロ大会は相変わらず新記録が続出するなか無観客試合で行われていた。
10年前に全世界を襲った新型ウイルスと温暖化により、屋外競技はすべて無観客となったのだ。
ノルウェーから遠く離れたここウクライナではボボカ7世が自宅で孫とオリンピックを観戦している。
CGで加工された画像には満員の観客。ライトブラウンの平坦なトラックの中央にグリーンのフィールドが眩しい。
ボボカ7世が呟く。
「最近の合成技術は大したものだ。トラックも全くフラットに見えるし、テレビだとトラックの大きさも違和感を感じない。父たちの努力が今、確実に実っている。」
「おじいちゃん、お父さんが飛ぶよ!」
画面には棒高跳びの決勝が映し出されている。
実際のバーの高さを低くしても周りの映像との違和感を感じさせないための画像修正など22世紀の技術は素晴らしい。
ボボカ8世がやや下り坂の助走路を大きなストライドで走り抜ける。
ウルトラカーボンファイバー製のポールを平地よりもやや高いところに設置されている高反発ボックスに突き立てると極限にまでしなったポールの反発力で体は空を舞う。
見事にバーの上を越えて低反発マットの上に着地。
実況中継をしているアナウンサーが声高に叫ぶ。
「6m25cm、オリンピック新記録です!
彼のご先祖、鳥人ボボカ1世のあと、記録は20年に一回、1cm程度更新するといった何とも面白みのない競技でした。
しかし今世紀に入ってからは、なんと五輪の度に記録を更新しています。
しかも今回は棒高跳び界のサラブレッド、ボボカ8世が期待通りの活躍です。」
ボボカ選手はアナウンスがまるで聞こえているかのように少し恥ずかしげに手を振って、無観客の中スピーカーから発せられる歓声に応えている。
父ボボカ7世はテレビの前で呟く。
「今世紀に入って高さの画像加工は毎回3%。棒を突き立てる高反発ボックスの位置も地面から10cmは高くなっている。おそらくご先祖さまの記録は超えていないだろうな。」
翌2121年、札幌では、次期オリンピックのスタジアムの建設が終盤に差し掛かっていた。
豊平川の川沿いを散歩する老夫婦が対岸に建設中の競技場を眺めながら言った。
「オリンピックもいよいよだな。」
「あなた、このスタジアム、何となく小さくありません?」
「無観客で、観客席が殆ど無いせいじゃないかな。」
「せっかく札幌で開催されるというのに、選手たちを直接応援できないなんて寂しいわね。」
「我々が若かった21世紀中頃まではパラリンピックに押されてはいたが、それでも選手たちの歓喜の声や、観客の熱気に圧倒されたものだったのに。」
「イケメン選手を見るために双眼鏡を持っていったものね。」
「しかし、新型ウイルスもとうの昔に撲滅されたはずなのに、なぜ未だに無観客なんだろう。パラリンピックの方は20年前から観戦できるようになってるのに。」
「しかもスタジアムは別よ。2つもスタジアムをつくるなんてバカみたい。」
夫はすぐ近くにそびえる巨大なパラリンピックスタジアムをを見上げながら言った。
「それにしてもパラの会場は立派だよな。」
「10万人を収容できる競技場だからね。でもオリンピックでもサッカーはこっちでするんでしょ。」
「とにかく、オリンピック競技場の方は完全に立入禁止らしいからね。」
「テレビで我慢しましょ。今度のオリンピックからは、16Kの立体スーパーハイビジョン放送だから、競技場で観るよりきっと臨場感があるわよ。」
「最新の映像加工技術で、トラックやフィールドの色や形状まで変えられるって言うじゃないか。果たしてそれがリアルな放送って言えるのかな。」
「いいじゃない、映像は美しいに越したことないわ。」
「やれやれ、それじゃ充分に加工された美人アスリートの登場でも楽しみにしておこう!」
「あなた、その発言は性差別よ。これだから令和生まれは困るわ。」
「わかったわかった。風が少し冷たくなってきたかな。」
一周約300mのオリンピック会場を背に、老夫婦は家路に向かった。