第〇〇〇一話 珍獣の誕生と王女殿下 ※
『それ』は生命を授かったばかりであった。
そして『それ』は今、ゆっくりと意識を覚醒させる。
『それ』にとっては現世に誕生して以来、何度目かの目覚め。 ── 今は周囲の声から、自分に対して注目が向いたのを察知した、防衛本能的な意識の覚醒だ。
「 ‥‥ンルーン殿下様に於かれましては、たしかに当代随一の冷血獣の収集家と、お伺いしておりました。しかしこの珍貴に着眼され、早速ご尊来あらせられましたご慧眼には、ただただ恐れ入りましてございます」
金属製の、なにか彫刻がほどこされた首輪をはめ、浅黒い肌に粗末な貫頭衣を身に着けた男の声。格調高いドレスで着飾った小さな女に対して、いささか棒読みっぽいものの、大袈裟にも恭しく、礼の尽くされた言葉を献上している。
膝をつき、温かい地域にありがちな、短く刈り込んだ茶髪の頭を下げた姿勢は保たれたままだ。そこには動かしがたい、身分の上下差が計り知れた。
『男が女に』。『身分の上下差』。
このような概念は、ヒトという種類の生き物の社会通念を表す言葉である。
『それ』はこういった知識をすでに持っていたが、そのこと自体に疑問を抱いたりはしない。生まれたばかりの『それ』は、世の理を、そういうものだと受け入れてしまうからだ。
「そなた。魔族に捕らわれた奴隷、 ── いいえ、まかない方下僕の身であった期間の、なかなか長きに亘った身。そう聞き及んでおりましたが、どうしていたく通暁した様子。然りとて、あまり飾り立てるのは好むところではありません。格式張らず、献言することを許します。 ── わたしも下々の方々とは、普通にしゃべりたいですもの」
少しばかり腰を落として語りかける、小さな女 ── 『殿下』からの言葉の途中で口調が変わった。力を抜いた言葉がかけられたことで、一瞬緩みかかる男の緊張。だがそこへ女殿下の後方から、やや枯れた女の声で横やりが入る。
「ミリアンルーン殿下。そのような下賤の捕虜に対し、軽々にお声をかけられては、メイド長のわたくしが、執事長殿に叱られてしまいます」
女殿下は、嗄れた声をした女のほうに、少しだけ顔を向け、やや強く言い放った。
「なにを言うのです、リムル。わが領内で不当にも拉致され、久しく苦難に耐えて隷従させられてきた窮民をねぎらうのは、為政者の役儀というものです。しかもこれなる珍獣については直接、真王陛下がわたしに嘱されました案件。それに俗世には、『龍の巣に入らねば、龍鱗は得られぬ』という言葉もあるようですよ」
「もはやヒトの治世が行き届いた、この世に龍などおりませぬ!」
負けずにそう返すのは、女使用人特有の黒っぽい ── いわゆるメイド服で整えた、中年を大きく過ぎているであろう、背の高い女。リムルという、メイド長のようだ。短く赤黒い髪に碧眼を光らせ、痩せぎすの顔には、深く刻まれた皺が何本も見える。
一方ミリアンルーン殿下と呼ばれたのが、男が礼を尽くしていた少女だ。こちらが健康的な色白と比較して、リムル女史はどちらかというと病的に白い。
そんなふうに、一部始終を確認できる自分は、目覚めこそしたものの、いまだ両の眼を閉じたままだった。
自分はもしかすると、夢を見ているのか? ── と『それ』は思う。
夢というものが、睡眠中に脳裏に浮かぶ映像。あるいは現実ではない、疑似体験のようであると知っていた。といっても、なぜそうした知識を持つのか、『それ』自身が疑問に感じることはない。
しかも自分は現在、目をつぶったままにも関わらず、会話が行なわれる様子を俯瞰できる。見渡す情景はまるで『中世西欧の城の一角』。そんな映像がリアルであるとは、ただちに認め難かった。
だが本能は語りかける。これは自分が、現在まさに体験している現実であり、決して夢ではないと。
「このトカゲがマーガレッタの言う、龍とは似て非なる、 ── 珍獣ですか」
まだ女性というには少し時間が必要そうな十六歳すぎの少女 ── ミリアンルーン殿下は、興味深げにその小さい動物をのぞき込んだ。
白地に金糸の刺繍がほどこされた、優雅なドレスがよく似合っている。
ブロンドの長い髪の頂点には、プラチナのティアラが鎮座し、エメラルドブルーの深い輝きをたたえて見つめる瞳。斜め上方からの視界には、年齢相応の開いたデザインの胸元に、発育途上ながら形作られた将来有望な谷間が覗く。やや小柄ではあるが、気品と美をあわせ持つ魅力的な女性に、あと数年で育つこと請け合いだ。
「たしかにマーガレッタさまは、人の身で実際、龍をご覧になったと言われる、ただ一人のお方。マーガレッタさまをして、珍獣と言わしめる『これ』はいったい何なのでしょう」
『それ』は、その瞬間に覚った。『珍獣』と女殿下が呼んだ小さい動物、しかもおそらく哺乳類ではなさそうな生きもの。これが自分に間違いないと。
まだ幼生体らしい、薄く柔らかそうな鱗が覆う背中に干からびたヒレや、蝙蝠の翼が、退化してしまった残骸のようなものも見える。たしかに珍しい姿かも知れないものの、『それ』は自分が見ても気持ちの悪い珍貴 ── 『キモいトカゲ』に過ぎなかった。
さて与えられたステージに於いて、『それ』は自分のスタンスを決定づけなければならない。
だれしもその時点において、自分の評価が高いと思えるほど傲慢になれるものであり、低いと感じるほど控えめになりがちだ。それはいずれも世の理であろう。
ここで美醜などという感覚は、主観的な認識であるため、価値判断の基準として、あまりに脆弱極まりない物差しにすぎない。とはいえ現時点での価値基準は見た目の第一印象しかなく、それが自己評価で決して高いものではないと、判定した場合はどうだろうか。
自分の意識はより謙虚に遷り、一定の好意が感じられるまでの時間が長いほど、このスタンスは確固たる地位に固定されて行く ──