[二 美杉長政] 良い匂い。悪い臭い。
ニュースで映像AIの特集が放送されていた。
機械AIに比べ、映像AIは安価という特集内容だった。映像なので、当然物理的な接触は不可能だ。しかし、アイシステムさえ装用していれば、他には何も必要とするものがない。
機械AIは、わかりやすく言えば、ロボットに組み込まれた人工知能である。厳密な定義をせずに広義で考えれば、車や冷蔵庫など、プログラムが組み込まれている機械は、全て機械AIとも言えた。
対して映像AIは、つまりは、ロールクエストのモンだ。モンをイメージすれば、説明されるまでもなく、どんなものかは理解できる。
映像AIの普及率の増加についても、特集では触れられていた。
モンが販売されるというのなら、買ってみたい気持ちはある。しかし、実在する人物のモデル起用は、法律や契約面などの問題が多いらしい。ロールクエストは特殊である。
モンのモデルである天津悶については、多少は知っている。実際に会ったこともある。つい数日前のことだ。
ロールクエスト2が終わり、数日過ごすと、その数日前の悶の言葉が思い出された。
純朴な人のおかげですから。
悶は最後にそう言っていた。悪評に苦しむ長政を助けたのが、純朴な人のおかげだと言うのだ。
長政は、悶が純朴だという評価を、映像秘書のモンに話した。だが、その映像秘書は、天津悶本人だったという。
つまり、純朴な人のおかげというのは、天津悶のおかげ、と置換できるのではないだろうか。さらに考えを進ませると、悪評を晴らす視界映像の提供者は、天津悶だったとの考えに至る。
しかし、天津悶があの場にいたなど、到底考えられることではなかった。有名子役女優のあの天津悶が、あんな外れの場所で長政を見ていた。そんな事実がありえるとは、簡単には想像できない。
連休明け。学校に登校すると、周りの反応は明らかに違った。面識のない者からすら、声をかけられることがあった。
教室では、誰かの発言を皮切りに、質問攻めが始まった。
「ねえ、なんで華道さんをかばったの? 好きなの?」
「相手が何人もいて怖くなかった?」
「警察署行ったんだろ? カツ丼食った?」
どうでもいい話ばかりである。自席に座ったまま、おざなりな対応で済ませた。飽きるのを待つ。追い散らす労力を使う気にもなれない。
だが、そうもしていられなくなった。授業が始まったのだ。それにも関わらず、騒ぎが収まらない。他のクラスからも人が集まっている。
「こら、君たち。いい加減にしなさい。鐘はとっくに鳴っていますよ」
そんな教師の言葉は、群がる者たちには、届いてなさそうだった。
なあなあで授業をサボる。そう画策している者もいるかもしれない。それは各々の甘さだ。状況を放置している自分の甘さでもある。
自分の甘さに負けてはならない。長政は強く思い直した。
「うるせええええええええええ」
長政は立ち上がり、大喝するように叫んだ。すると、教師を含め、一人残らず静まり返った。
「授業中なんだよ。勉強しろ。本分忘れてんじゃねーよ。散れ」
一人ずつ睨んでやろうと視線を動かしていったが、睨み終わる前に皆散っていった。こわっ、と捨て台詞が聞こえたが、知ったことかと思った。
休憩時間には、担任の教師から放送で呼び出された。
「ご迷惑をおかけしました」
「脅迫の件は?」
「一部の者しか知りません」
「本質的には、脅迫の方が問題なんだが」
被害届を出す。それも一つの選択肢だが、暴行を受けた以外の実害は発生していない。そして彼らへの報復は済んでいる。
「これ以上騒ぎを広げるよりも、もう終わりにしたいです。悔しさは勉強代と思うことにしますよ」
「再発しないとも限らないだろう」
「そんときは、ぶちかましてやりますよ」
「いったい何を学んだんだ今回」
やられたら、やり返す気が起きないくらいやり返せ。そう肝に銘じている。
昼には、板倉典克と昼飯を食べた。板倉は、気軽に話せる男友達だった。朝の群れにも加わってきていない。
板倉は、どうも遊々がお気に入りらしく、遊々についての話をよく聞かれる。答えられる範囲で答えてやってはいるが、ロールクエストでの遊々の振る舞いであれば、長政の視界を通して同じ遊々を見ているはずだ。聞かせてやれる新しい話は、ほとんどない。
「遊々ちゃんの匂いは?」
「匂いって」
「ロールクエストを観ていてわからないのが、匂いなんだよなあ。良い匂いがするんだろうなあ」
そんなの、気にするものなのだろうか。
「覚えてないけど、これといった匂いはないんじゃねーかな」
「覚えてないのに、無臭ってわかるのかよ」
「匂いがするのは、俺が嫌いだからな。記憶にないってことは、気になるほど強い匂いがなかったってことだ。匂いだったら、顔よりは覚えている自信がある」
物覚えがそれほど悪いとは思わないが、人の顔と名前を覚えるのは難しい。臭いか臭くないか。第一印象はそれである。無論、口には出さない。
全く無臭の人はいない。長政自身も男の匂いはするだろう。そういうにおいを嫌っているのではなく、例えば香水などの、意図的につけられた臭いには、嫌悪感があるのだった。
どんなことでも、好悪の区別をつけるのは難しい。感情や生理的な根拠での判断になるからだ。そんな理性的でない判断は、できるだけしたくない。頭ではそう考えていても、実際にはにおいが気になってしまう。
においで人の善し悪しは決まらない。分かっていた。だからこれは、自分の欠点だと長政は思う。
「そうだ。遊々といえば、アイシステムのテーマを作っているみたいだったぞ」
「それは知ってる。遊々ちゃん、SNSで報告していたからな。遊々ちゃんが描いたイラストとかも保存しているぜ。ま、遊々ちゃんの絵より、遊々ちゃん自身を見ている方が好きだけど。俺の机の表面、遊々ちゃんだからな。突っ伏して寝るとキスする感じになるんだぜ」
これはこれで気持ち悪いな。
板倉と比べたら、自分がにおい敏感なことなど、全然大したことではない。
校内では、もう同校生に群がられることはなくなっていた。長政がはっきりと、鬱陶しいという雰囲気を放っているからだろう。気軽に近づいてくるのは、板倉くらいだった。
いや、もう一人いた。
「美杉君。またやらかしたんだって?」
帰り際、廊下で会った東雲羽瑠に言われた。
「やらかしたって何を?」
「朝だよ、朝」
朝といえば、群れを散らしたことか。あの程度で。
「友好関係を築いたんだよ」
「友好関係を築くのに、威圧する必要はないよね」
威圧したつもりはない。相変わらず、どんな噂の伝わり方をしているのか。
羽瑠は、長政とは別クラスなので、直接は見ていないはずだった。だから、長政の話が羽瑠に伝わるまでは、伝言ゲームのような伝達があるはずだ。どうせアイシステムを装用しているはずなので、視界データの共有で正確に伝わるはずなのだが、なぜかいつも歪んだ伝わり方をしている気がした。
「せっかく明るい印象に変わってたのに、また悪い印象になりかけてるよ……」
「他人の評価なんて、いちいち気にしてられるか」
ロールクエスト2が終わった直後は、優勝できなかったことで、心底がっかりした表情をしていたが、今はその陰りがない。
羽瑠は、まだ何か言いたそうだった。
「なに、どうしたの」
「うん、あのね。次こそは、優勝したいなって」
「ロールクエスト3か? まだ開催されるかどうかも、わからないんだぞ。今からそんな意気込んでどうするんだ」
もちろん、ロールクエスト3が開催されるのであれば、優勝するかどうかは別として、長政も参加しクリアしたい。その動機は、単純に楽しみたいからだ。羽瑠の優勝したいの意気込みとは、動機がいくらか違う。
羽瑠は、優勝した際のご褒美が目当てなのだった。通常の優勝の報酬は、百万円という大金だ。しかしこれには、代替報酬がある。ロールクエスト開発社であるドゥエッジ社で実現可能な相応の願い事を叶えますよ、というものだった。
ロールクエスト1で優勝した羽瑠は、願望を叶えた。しかし、ロールクエスト2では優勝できなかったので、直後には落胆の色を隠せていたなかった。
何事も思い通りにはいかないものだ。
帰宅後、一枚公平からの架電があった。
「広告のモデルになってくれないかって話がありますけど、どうします? 例の靴の会社ですが」
ロールクエスト2前に、靴の提携の話があった。提携といっても、靴を履いてロールクエストに出場してください、といった程度のものだ。その話は、長政の暴行事件の際、立ち消えになっていた。
「どうするって言われても」
「先方は、一方的に提携を打ち切ったことに関しては、申し訳なさそうではありましたよ。虫のいい話にも思えるでしょうが、企業の判断としては、いたって普通です」
そういう状況でありながら、ドゥエッジ社は出場させてくれた。切り捨てるのが普通だと言うのであれば、ドゥエッジ社は変わった会社である。義理を感じてもいた。
「よくわからないし、面倒なら嫌だなあ」
「そこそこのお金が貰えますよ。現場入りする際は、僕も一緒しますし」
お金はあるに越したことはないが、強い執着があるわけでもない。ロールクエスト1で優勝した際の賞金も、結構な額がまだ残っている。加えて、出場によって得た給料も入る。
今の長政は、高校生としては、なかなか金を持っている方なのではないだろうか。そんなことを考えると、新たな金銭収入の欲求より、別の何かをしたい欲求の方が勝っている。
「別にいいや。特に義理があるわけでもないし」
「義理のあるところが、逆にどこかあるんですか?」
「そりゃ、ドゥエッジ社だよ」
「であれば、なおさらやってみてもいいんじゃないですか?」
公平が、よくわからないことを言い出した。全然関連がない。
「なんでそうなるの」
「ロールクエストをきっかけに飛躍する人物がいれば、それはロールクエストの知名度の上昇につながるわけですよ。それはドゥエッジ社のためになりますよね」
おお。なるほど。そういう考え方もあるのか。
しかし長政自身は、知名度が欲しいわけではない。どちらかといえば、知名度などない方が、静かに暮らせる。
「ちっと、社長に相談しとく」
「社長?」
「ドゥエッジ社の社長。なんかあったら相談しろって言ってたし」
「はあ。すごいコミュニケーションラインを持ってますね」
早く新しい冒険をしたい。
社長と話す時に、ロールクエスト3について聞こう。長政はそう思った。