[プロローグ]
女優天津悶として、仕事中心の生活は続いていた。学校を休むことも珍しくはない。
学校に行かない日がある分、勉強は学校以外で補う必要がある。仕事の合間や、家で自主的に勉強するのだ。それを苦に感じることは、悶にはない。
インターネットで、学習のサポートをおこなうサービスも、今の時代は選べるほどに充実している。それでも、それらのサービスは使っていない。自習だけで十分な成果が出ているからだ。授業より進んでさえいる。
とはいえ、自習で補えないことも沢山あった。体育や道徳など、知識だけでは、どうにもならない科目は、どうしても遅れていってしまう。特に運動神経は、かなり悪い。マネージャーから、走ることを禁じられるレベルだった。
同世代の他の子と比べると、身体も小柄だった。食べても全く太らない。懸命に食事をすることで、なんとか体型を維持できる。普通に食べているだけだと、痩せていってしまうのだ。マネージャーの和久井育和曰く、沢山仕事をしているかららしい。病気ではない。
「新しいお仕事、役のイメージが湧かないです」
「良いオファーが頂けて、ようございましたね」
弱音を吐くと、車の運転をしていた和久井が反応してくれた。
「でも、先輩に恋する中学生女子の役だよ?」
「悶ちゃまは中学生ですから、ホットなお役でございますね」
問題は中学生という身分ではない。
「恋する中学生女子というのが、わたしには分からないのです」
「気になる人は、学校におりませんか?」
「学校には、いないです」
そもそも、学校は休みがちだ。そんな状況では、会話の輪に入っていくだけでも大変だった。恋心への発展など、想像もできない。
好き、がよく分からない。
意識したこともない人から、突然告白をされることは、中学生になってからは時々あった。どうすることもできず、好意に対する礼を伝える。それだけだ。
「それに、恋愛は禁止だよね?」
「そうでございますね」
「気になるとか考えたって、どうにもならないです」
「そうでございますねぇ」
「和久井の中学生時代は、どうだったの?」
自分に経験がないのだから、誰かの経験を自分のものにするしかない。
「そうでございますね。好きな人はいましたね」
「どんな人だったの?」
「物静かな人でした。みんなの輪の外側にいるような人でして、少し陰りのある男の子でしたね」
おお。
興味深いが、まずは何より、結末が気になった。
「その人とは、中学生時代、どうなったの?」
「何もなかったですね。想いを秘めたまま、何もなく中学を卒業しましたね」
がっくり。
「自分から告白すれば良かったのに」
「恥ずかしがり屋さんでしたから。当時のわたくしには、自分からの告白なんて、考えもしなかったのですよ」
「そうだよね。恥ずかしいよね」
自分だったら、どうだろう? 告白できるだろうか? 役であれば、できるはずだ。それは現実の事実ではないのだから。悶は、誰かに告白する自分を、思い浮かべながら思った。
「じゃあ、その人とは、それっきり?」
「いえ、今朝も会いましたよ」
「それって」
「今の夫でございます」
「わあ。すごい。すてき」
話を聞いていくと、高校卒業後に再会し、付き合いが始まったのだそうだ。和久井の話を聞くと、とても羨ましいと思えた。今の悶には、想像すら難しい。
「わたくしの経験では、悶ちゃまのお役に立てそうもございませんね」
「ううん。そんなことないです。とっても参考になったよ」
「似た映像作品や、小説などを読まれてはいかがです?」
それらも選択可能な方法ではある。しかし、実際に経験してみたい気持ちが、どんどん湧き上がってきていた。実践に勝る経験はない。
「もっと良い方法があるよ」
「おや、なんでしょう?」
「学校以外では、ちょっと気になっている人がいますので、その人で練習をしたいと思います」
「どなたですか?」
心なしか、和久井の口調が、わずかに鋭くなった気がした。車の運転も少し荒くなっていて、さり気なく身体を支えた。
相手の名前を言うと、釘を差されると思えた。
「美杉長政さんです」
「一般の方でございます」
間髪おかずに反応があった。ここのところ、よく聞く名前でもあったので、和久井もさすがに名前を覚えたのだろう。誰の名前が出るか、予想していた可能性もある。
「一般じゃなくたって、どうせ否定的なことを言うんでしょう?」
「そうでございますね」
「またお話をしたいです」
「駄目でございますよ。もう王女様役に触発されての勝手なストーカー行為も、絶対にしないで下さいましね」
「ストーカーじゃないよ。たまたま同じ道を歩いていただけです」
「それは言い訳でございます」
まともにお願いをしても、許されるわけがないと分かっているので、勝手に抜け出すしかない。
要は誰にも気が付かれなければいいのだ。そうすれば、関係者に迷惑をかけることもない。王女様役を演じた経験から、そういったことを学んだ。
悶が演じた王女様は、奔放な性格だった。やりたいことがあると、あらゆる手を駆使して、王宮外にも抜け出してしまう。役の演技を通じて、今までにない新たな自分を見つけることができた。
女優として飛躍するきっかけにもなった。いつの間にか、オーディションをせずとも、仕事のオファーがくるようになっている。
何気なく車窓の外に目を向けた時、ふと気がついた。アイシステムでナビを起動する。
「お饅頭が食べたいです」
「おや。珍しくてございますね。美味しいお店を探しておきますね」
「すぐ近くに、美味しそうなお店があります。そこを曲がって下さい」
アイシステムのナビの通りに道案内をした。そして到着。
「美杉饅頭店……と書いてありますが、まさか」
「はい。美杉長政さんの自宅です。買ってきます」
足りるかわからないが、多少のお金は持っている。
だが、後部座席から外へ出ようとすると、運転席の和久井に掴まれた。
「ここにいて下さいまし。わたくしが買ってまいりますので」
「じゃあ、一緒にいく?」
「いえ。困らせないで下さいまし、悶ちゃま。誰かに見られでもしたら、要らぬ憶測を呼んでしまいます」
別の店にすると言い出さないだけ、譲歩してくれているとは感じた。これが和久井じゃなく母相手だったら、まず言い出せもしなかった。
「じゃあ、待ってるね」
「はい」
待っている間、外を眺めた。この景色の中で、長政は暮らしている。
このまま外を眺めていれば、長政を見かけることもあるかもしれない。その時は、声をかけてみよう。手も振ってみよう。どんな表情をすればいいだろう。そんなことを考えながら、和久井を待った。