自分探しの旅に出た
「起立、礼、さようなら」
日直の号令が、長かった一日の終わりを告げる。
部活がある人のほとんどは、すでに教室にはおらず、教室の後ろの方では女子が集まって談笑していた。
「御堂君、このあと職員室に来てね」
年齢はたしか二十代後半の比較的若い女教師が俺に告げた。
先生から呼び出しを受けると、やたら緊張してしまう。
「おい御堂、お前なにしたんだよ」
友達の鈴木哲平が俺をからかう。
「何もしてねーよ。ほら、部活行け」
仕返しとばかりに強めに背中を押す。
「痛い痛い。悪かったよ」
「太一をからかうからだよ。ほら哲平、部活行こう」
もう一人の友達、荒木辰海が笑いながら戒める。
鈴木と辰海とは高校に入ってから仲良くなった。
鈴木は野球部、辰海はサッカー部に入っていて、3人はなぜか馬が合ったのだ。
「じゃーな、辰海、鈴木」
「じゃーね、太一」
「月曜な」
二人は手を振りながら教室を出ていった。
俺もそろそろ教室を後にしようと、帰り支度を始める。
机の引き出しに手を入れると、右端が折れたプリントが出てくる。
進路調査票と書かれた、その紙には何度も書いては消してを繰り返された深いしわが残っていた。
鈴木には何もしていないと言ったが、先生に呼ばれた理由は見当がつく。
実際は、本当に何もしていないから呼び出されたのだが。
俺は一週間前にもらったこれをいまだ書けずにいた。
あの二人はてきとうに大学進学と書いたらしいが、どうも俺はてきとうに書けなかった。
「はあ……」
深い溜息を吐いてから、プリントを二つ折りにして手に持った。
そして忘れ物がないか確認して教室を出る。
この憂鬱さは置いて帰りたかったが、それはできないらしく肩に重くのしかかっていた。
「失礼します。二年B組の御堂太一です」
俺は職員室に入ると、こちらに向かって手を振っている清水先生の元に行った。
「御堂君、あのね、今日は進路調査票のことで呼んだんだけど……」
やっぱりか。
他のことじゃなくてよかったと小さく安堵する。
先生に呼ばれた時って、やっぱり怖いよね。
「すみません、まだ書けてないです」
そう言って、両手で真っ白な調査票を見せる。
「そっか。確かに真剣に考えるのはいいことだけど、そんなに深く考えなくてもいいのよ。何かしなくちゃ、何かにならなくちゃって考えすぎると、それがプレッシャーになって鬱病とかになっちゃうんだから」
生徒のことをちゃんと考えているんだなと改めて感心する。
と、同時に罪悪感も湧いてくる。
「すみません。なるべく早く出します」
「わかった。でも先生も集計しなくちゃいけないから月曜には提出してね。土日を使ってよく考えなさい。親御さんと話し合うのもいいかもね」
「ありがとうございます。失礼します」
頭を下げ、足早に退出する。
楽しいのんびりとした休日になるはずが、重い休日になりそうだ。
さらに重くなった体をノソノソと揺らしながら帰る。
「暑いなー」
下駄箱を抜けると、強い日差しが肌を攻める。
まだ五月だというのに、気温がかなり高い。
袖をまくり、ゆっくりと家に向かって歩き始めた。
帰り道、暑さに負け、アイスを求めてナインイレブンに入る。
アイスコーナーに向かう途中、一冊の雑誌が目に留まる。
『悩める人におすすめ 人生が変わる景色TOP3』
俺は迷わず手に取った。
そこには海や山の綺麗な写真が載っていた。
三つのうち二つは行けそうにないが、一つは少し遠いが電車で四時間ほどの所にあった。
すぐに雑誌をレジに持って行った。
隣接されていた、えっちなコーナーを流し目で見ることは忘れなかった。
コンビニを出ると、すぐに袋から取り出し、熟読しながら帰った。
アイスを買い忘れたことに気付いたのは、家に着いてからだった。
翌日、絶景を見に行くために、朝の六時にあらかじめセットしておいた、目覚まし時計の音で起きる。
重いまぶたをゆっくり開き、背伸びをする。
徐々に目が覚めてくる。
家族を起こさないように静かに身支度をする。
なぜこんな早起きなのかというと、人生が変わる景色を見に行くためである。
そこに行けばきっと何かが変わる。
そうすれば進路調査票も埋められるだろう。
すなわち自分探しの旅である。
貯金していた二万円を財布に入れ、家を出た。
それから数時間後、絶景の近くまで来たが、地図には詳しく載っておらず、立ち往生していた。
しばらく歩いたが、ド田舎のため人と出会わなかった。
さらに1時間ほど歩いていると
「おっ」
ここに来てから初めて人を見つけた。
ラッキーと言わんばかりに指をパチンと鳴らす。
おばあちゃんが何やら、籠のようなものを抱えながら歩いている。
あのおばあちゃんに詳しい道のりを聞こう。
ここら辺の人なら、知っているかもしれない。
俺は力を振り絞り、おばあちゃんに駆け寄った。
「あの……すみません」
おばあちゃんに目線を合わせるため、中腰になりゴマをするポーズを取りながら、おそるおそる話しかけてみる。
「……………………」
だが、歩みを止めることはなく返事もなかった。
「すみません」
歩く速度を揃え、カニ歩きのように進みながら、さっきよりも声のボリュームを上げて聞いた。
「………………」
既視感溢れる光景だった。
思わず目をこすり、パチクリ開閉させてから、もう一度おばあちゃんを見る。
なんら変わりなく、ゆっくりと歩き続けている後姿だけが目に入った。
おかしい、絶対におかしい。
もしかして幽霊ではないかと頭をよぎる。
いや、きっと耳がものすごく遠いのだ。
大声で聞けば、返事を返してくれるはずだ。
三度目の正直と頬を叩きながら自分を鼓舞する。
だが、顔を上げた俺の目にとんでもないものが飛び込む。
おばあちゃんの右側から車が猛スピードで走ってくるのだ。
「あああああああああああああああ」
よくわからない奇声をあげながら慌てる。
まさか、この地で初めて見る車がおばあちゃんを轢くかもしれない車とは。
俺は力強く走りだした。
もちろん、おばあちゃんを助けるためだ。
話したこともない、というか会話が成立したことがない、名前も知らない。
だが、そんなことは助けない理由にはならない。
「おばあちゃああああああああああん」
大声をあげながら全力で走る。
すごい顔をしながら、腕を思いっきり振る。
汗や鼻水をおかまいなく飛び散らしながら、ただ全力で走った。
マジでマジ走り。
ここにきて、五十メートル七秒台の平均的な走力が限界を超えた。
この時にタイムを計っていたら、おそらく六秒台は出ていただろう。
それでも普通なことに変わりないが。
「なんじゃ?」
「やっと通じた!!!! そして、ごめんなさい!!!」
ようやく意思の疎通が取れた喜びを感じる。
だが、今はそんな時ではない。
謝罪を入れてから、おばあちゃんを力強く押した。
車のブレーキ音がけたたましく鳴り響いたが、空しくも俺と籠に入っていたオレンジは車に轢かれた。
淀んだ赤い液体と鮮やかなオレンジの液体が地面に拡がる。
「よ……かった……」
かろうじて、開いた目には驚いた表情のおばあちゃんが映り安堵する。
大丈夫ですかと尋ねてくる男性の声が遠くなっていく中、ふと一昨年、亡くなった祖母を思い出した。
そういえば俺、おばあちゃんっ子だったな。
余生を元気に過ごせよ。
見知らぬおばあちゃんと大好きだった祖母を重ねながらゆっくりと目を閉じる。
――享年十七(歳)御堂太一、柑橘系の香りに包まれながら天に召される。