閻魔(えんま)様の決めた転生先
文中に「看護婦」という表現がありますが、当時使用されていたのでこの表現を用いています。
その年の冬は長かった。
いつもならやってくるはずの春がなかなかおとずれなかった。
これでは苗代も作れぬと村のものはみな不安気な顔で空を見上げた。
それでも、なんとか春は来た。
いつもの年より遅れてやっと暖かくなったと思っていると、今度は雨が続いた。
麦が赤くなったのに気付いた時は遅かった。
麦は病におかされ、実がつかなかった。
ついた実も毒を持ち、食べた者は腹をこわした。
それでも、稲ができればなんとかなると村人たちは、励まし合って田植えをした。
雨がよく降ったので、田んぼの水はきれることなく、稲は育っていった。
ある朝早く、田んぼの草刈りに来た男は根元に虫がたかっているのに気づいた。
稲一本だけではなく、その田んぼの稲全部の根元それぞれに、小さな羽根虫が何十とたかっていた。
男は叫んだ。
「ウンカじゃあ」
村は大騒ぎになった。
鉦や太鼓を叩いて、虫を追い払う者、神社や寺に虫退散の祈りをささげる者、夜通し、畦で火をたく者、皆虫を追い払うために一生懸命だった。
けれど、虫は減らなかった。
隣の田んぼに、村中の田んぼに、隣村の田んぼに、その隣の村の田んぼにと、国中の田んぼに虫がたかり、稲を食った。
代官様が見まわりをして、虫に食われた田んぼからは年貢は取らないように、お殿様にお願いすることになった。
江戸においでのお殿様にすぐに国の田んぼの稲に虫がついて収穫できないことが知らされた。
お殿様は驚いて、将軍様にお知らせした。
将軍様は驚いて、他の殿様たちに、それぞれの国の田んぼに虫がいないか調べさせた。
すると、他の殿様たちも、実はと将軍様に田んぼに虫がわいたとお知らせした。
将軍様はすぐに米を虫の出た国に送るようにお命じになった。
けれど、飛行機もトラックもない時代だから、米が届くまでずいぶんと時間がかかった。
そのころ、田んぼに虫がわいた村では、大勢の者が腹をすかせていた。
村の者は米は盆正月にだけ食べ、いつもは麦を食べていた。
その麦が今年は取れなかった。
それでも去年の残りの麦や、粟や稗を食べたり、大豆を食べたりしていた。
それがなくなると、山に入って山菜やきのこを採った。
けれど、山菜もきのこもすぐになくなった。
秋まで時があるので、柿も栗もまだ実らない。
食べる物がなくなった者たちは、村を捨てた。
お城のある町に行けば食べ物があるにちがいないと、皆お城のある町へ出て行った。
村の中に一軒の小家があった。
小家では、貧しい夫婦二人が暮らしていた。
けれど、食べる物はなくなり、夫は食べ物を求めに外に出て、もう五日も帰ってこない。
妻は大きなおなかをかかえ、水だけをすすっていた。
だれかに助けを求めたくても腹がすき過ぎて動けない。
隣の家の家族は村を捨て逃げてしまった。
向かいの家の老婆は一昨日まで様子を見に来てくれたが、それから顔を見ていない。
老婆は家の中で息絶えていたのだが、妻はそれを知らなかった。
ああ、食べたい。
食べないと、腹の子が。
子ができた時は夫と二人、手を取り合って喜んだのに。
そのすぐ後に、麦が病気で食べられなくなった。
でも、米があると思っていたから、この子を産んでも大丈夫だと思っていたのに。
その夜、妻はひもじくて、悲しくて、涙も枯れ果てて息絶えた。
最期の瞬間まで、夫が帰って来ると信じて。
妻が息絶えると、その子もすぐに腹の中で息絶えた。
二人の魂は金色の光に包み込まれて、身体を離れ、やがて観音様の元についた。
観音様は地上で今起きている悲しい人々のありさまを嘆き、たった今手元に召した魂を慈しむかのように撫でた。
母親も生まれることのなかった幼子も安らかな心地になった。
観音様は閻魔様にこの幼子に御慈悲をと心の中で伝えてあちらの世に送り出した。
あちらの世では、亡くなった人々が輪廻の順番を待っていた。
閻魔様のお裁きで、どこにいつ生まれ変わるのかが決まるのだ。
あの母と子もその中にいた。
彼らの数人前には、立派な装束を身に着けたお武家様がいた。
お武家様はすぐ生まれ変わることができたようで、すっとその場から消えた。
その次には真っ赤な着物を着たきれいな女の人がいた。
その人の順番はなかなか来なかった。
次のきれいな振袖を着た太った町娘の順番はすぐに来て、すっと消えた。
母親は子どもを抱きしめながら待っていた。
その間、いく人もの人がやって来ては消えて行った。
不思議なことに、待っている間、子どもを抱く手が痛くなることもなく、腹がすくこともなかった。疲れて足が棒のようになることもなかった。
生きていた時のように寒さも暑さもひもじさも感じず、ただなんともいえず心地よい楽の音が聞こえてくるのだった。
幼子はその音に耳をかたむけ、幸せそうに眠っているのだった。
いつの間に時代が変わったのか、髷を結った男の人は来なくなった。
母親は夫はここには来ないらしいと悟った。
真っ赤な着物を着たきれいな女の人が消えてしばらくすると、やってくる女の人も短い髪の人たちが増えた。鉄漿をしていない人も多い。
その代わり、似たような洋服を着た男の人たちがいちどきに来るようになった。みな、きれいに整列し、頭には鉄兜をかぶり、悔し気な顔をしていたが、やがて、その顔は穏やかになっていった。
また、火傷をした人々も大勢来た。並んでいるうちに、火傷の傷は直っていった。
その人たちも櫛の歯が欠けるように消えていった。
ふと、母親はあたりを見まわした。
残っているのは、自分たちと同じ頃に死んだ母親や赤子、幼子たち、それから後からやって来た同じように飢えて死んだ母親と赤子、幼子たちばかりだった。
やがてその母親たちも少しずつ消えていった。
母親も、幼子を残してすっと消えた。
残った幼子を後から来た女が抱きしめた。
その幼子についに閻魔様がお裁きを下した。
「そなたは飢えることのない時代に生まれて、天寿をまっとうするのだ」
幼子の姿はすっと消えた。
「おめでとうございます、元気な男の子ですよ」
ここは二十世紀後半の日本のとある地方の産婦人科医院。
母親は我が子を見つめてほほえんだ。さきほどまでの産みの苦しみを忘れるほど、子どもはかわいかった。
やっと会えたと思った。目尻から涙があふれた。
分娩室を出ると、仕事で遅れた夫が廊下で待っていた。
「ごめん、遅くなって」
予定より早いお産だったので、まさか今日とは思わず夫は得意先の接待を入れていたのだ。
「ごめんですめば警察はいらないよ。急に産気づいて大変だったんだから。連絡もなかなかつかないし」
夫の母は息子をしかった。携帯電話のなかった時代だから、会社を出てしまうと、連絡をとるのがむずかしいのだ。幸いにも、会社の人が電話で事情を聞いて、接待先の店に連絡をとってくれたから、仕事を抜けることができたのだ。
「あなたはいつも遅いんだから」
そう言った時、妻は、あれっと思った。夫は交際している時から時間をきっちり守る人だったのに。
「今度は間に合ったからいいじゃないか」
答えた夫もなんだか変だなと思った。
そこへ看護婦が赤ん坊を抱いて出て来たので、夫も妻もそれぞれの言ったことなど忘れてしまった。
待ちに待った我が子。
十月十日というけれど、もっと長く待っていたような気がする。
夫も妻も我が子を見て同じことを思っていた。
この子にはひもじい思いだけはさせたくないと。
医院の外は雪が舞っていたが、この親子は温かいしあわせに包まれていた。
その年の冬は長かった。
春のおとずれも遅かった。
けれど麦は病になることもなく、米は虫に食われることもなかった。
品種の改良や農薬の普及の成果だった。
世界中から多くの食品を輸入し、この国の食卓はかつてないほど豊かになった。
ただ、忘れないで欲しい。
かつてこの国では麦や米の不作で飢饉が起き、数百万の人々が命を落としていることを。
もし、食品の輸入がなくなったら。
もし、農薬の効かない害虫が増えたら。
農林水産省のサイトによると、平成27年度の食料自給率はカロリーベース(一人一日当たりの国産供給熱量÷一人一日当たりの供給熱量)で39パーセントである。