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死んでも良い理由

作者: 佐藤コウキ


 友人が自殺した――。その理由は私だけが知っている。

 10月の冷えた風が吹く、葬儀場のそばにある小さな公園。

 葬式を終え喪服に身を包んでいる私は、この世から完全に消滅した彼に思いをはせながら砂利道を歩いた。斎藤は60歳になろうとしていたが、体は元気で、まだ死ぬべきではなかったと思う。

 高血圧の私は少し歩いただけで胸が苦しくなる。立ち止ってあたりを見回すと高い木に囲まれ薄暗くて静かな場所。

 斎藤は明るく闊達な人物だった。私とは違って付き合いが良くて友人は多い。背が低くて小太りの私と比べて、がっしりとした体格の彼。特に女性の知り合いは数え切れないほどで、関係が途切れることがなかったほどだ。

 心中にはどす黒い雲がこびりついている。これが近しい人間を失った悲しみというものか……。気を緩めると涙がにじんできた。

 私は控えめな性格だったが、彼は構わずに無頓着と思えるほどに私に接してきた。事前に連絡もしないで私のアパートにやってきて一晩中、話しこんだことがある。

 彼は言っていた。



「おい、佐藤。人間というものはなあ、いや生物というものは種の保存が唯一の生存理由なんだぞ。だから俺は女とやりまくっている。他人はとやかく言うが、俺は神様に与えられた使命を全うしているだけなんだよ」

 そう言ってタバコの煙を吐き出した。

 私はタバコを吸わないので、苦笑いしながら目の前の煙を右手でパタパタと撹拌した。

「お前は女がいないけど、それでは人間として半人前だ。今度、俺が良い女を紹介してやるよ」

 今度は気を使ってテーブルの下に煙を吹き出しながら言う。

「いいよ、私は50歳を過ぎたし、もう結婚とか諦めたから……。それにもう、そんな体力がないよ」

 プッと煙を吹き出して笑いながら顔を横に向ける。

 精力絶倫の彼と違って私は血圧が高く、そのせいで眼底出血を発症し右目をやられてしまった。若いころからの不摂生と肥満体質のせいで体はボロボロの状態だ。彼がうらやましい……いや、妬ましいと思うことがある。

「そのうち女に刺されるぞ」

 嫌味を言うと、彼は屈託のない笑い声を放った。人懐っこい目が親しみを呼ぶ。

 彼は話題が豊富で、会話をしていて飽きることがない。明け方まで酒を飲みながら話しこみ、彼はタオルケット1枚を巻きつけて寝てしまった。私が午前9時に起きたときには彼はいなかった。女と会う約束があったからだ。



 公園には人影が見えない。

 静かな林の中に黙って立っている私は、ふと下を見た。

 そこにはゴキブリがいて、足を動かしてゆっくりと歩いている。誰かに踏まれたのか、平たい体は歪んでいるが、それでも必死に前に進もうとしている。

 ああ、気持ちが悪い。無様だな。

 ゴキブリが嫌いな私は、それを蹴飛ばした。土煙りとともに半メートルほど飛んだが、それでも虫はもがきながら進んでいく。

 近づいていき、また蹴飛ばした。その生物は側溝の水たまりに落ちた。

 これで安楽死できるだろう。

 公園の出口に向かって歩き出す。

 もしかしたら私とゴキブリは同じなのか。嫌な思考がせり上がってきたので、首を振って、その考えを払いのける。

 少し歩いただけで息苦しくなった。なんで動脈硬化などになるかな! 腹立たしくなるが、どうしようもない。何か冷たいものを飲んで休むか。遠くを見ると自動販売機があったので、そこに向かう

 少し汗ばむが、空気が冷えているので喪服を着ていても暑いと感じることはない。

 もしかしたら、葬儀の参列者のことを考えて自殺する季節を選んだのだろうか。斎藤はそういう男だった。

 私は彼と最後に会った日のことを思い浮かべる。



 珍しく斎藤がアポイントを取った。

 電話がきて、これから会いたいが良いかという問い合わせ。

 私は年がら年中、暇だったのですぐに了解した。

 アパートに訪れた彼は驚くほどに落ち込んでいた。まるで10歳くらい加齢してしまったと感じるほどだ。

「どうしたんですか」

 聞いても、彼はうつむいたまま何も言わない。

 ビール缶をテーブルの上に置くと、彼はプルタブを開けてチビチビと飲んだ。

「立たなくなっちまったよ」

 自虐的な薄笑いを浮かべている。

「え? 何が……」

 反射的に聞いたが、彼の場合は容易に想像できる。

「チンポだよ、チンポ。勃起不全症候群というやつかな。やりすぎたせいで最後の赤玉が出ちまったよ……」

 そう言って、ふんと笑う。

 この場合、笑った方が良いのだろうか。それとも深刻に受け止めるべきだろうか。しかし、わざわざここに来ているということは彼にとって深い問題なのだ。

「もう俺には生きてゆく理由がない。生物としての使命が消滅したんだから、もう死んでもいいんだ……」

 返事に迷った。安直な考え方だと批判するのは簡単だが、彼を論破できないような気がする。しかしどうして、こんな込み入った話をするのだろうか。もしかしたら、彼は私のことを親友と思ってくれていたのだろうか。

「インポ野郎は死んだ方が世の中がすっきりするよな……」

 その言葉は私のちっぽけな逆鱗をこねくり回したよう。

「違うだろう!」

 彼が顔を上げる。

「人間というものは、もっと……なんというか上等な生物なはずだ」

「上等……」

「そう。人間は万物の霊長なんだから生殖機能が低下しても生存する理由はあるはずだ」

 彼は薄笑いを浮かべて上目づかいでこちらを見る。

「その理由ってのはなんだよ」

 私は言葉に詰まる。

「死んでもいい人間というものはいるのさ。例えばアルツハイマーで糞尿垂れ流しながら生きていたって仕方がないだろう」

 毒づく彼の目つきは鋭くて、私は無言で首を振るしかない。でも、彼の意見は間違っている。間違っているんだよ。

「私が困る」

「はぁ……」

「斎藤さんがいなくなると困るんだよ! だって私にとって友達というものはあんただけだし、あんたが消えてしまえば話し相手がいなくなってしまうじゃないか」

 説得力がないと自分でも思う。しかし、そういったセリフしか出てこない。

 ため息が二つ、狭い部屋に小さく流れる。

 彼は力のない笑いを浮かべ、ビールを飲み干してから立ち上がった。

「さようなら。ありがとう」

 部屋を出ていく前の、それが最後の言葉だった。



 冷たい風が吹く薄暗い公園。

 自動販売機までたどり着いた私はポケットから財布を取り出した。

 斎藤の人生は幸福だったのだろうか。

 幸せだったのだろうな……。やりたいように生きて、死にたいときに死んだのだから。

 では、私の人生は幸せだったのだろうか……。

 コインを入れて自動販売機のボタンに手を伸ばした。コーラを選ぼうとした指を止める。私は指を麦茶に移動させて点灯しているボタンを押した。静寂の中、異音を立てて、取り出し口にペットボトルが現れた。

 一口飲むと香ばしい味わいが口の中に広がる。

「少し、運動するか」

 私は軽い上り勾配の道をゆっくりと歩き出した。


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