のさばる悪を、何とします(一)
ある日のこと。
剣呑長屋にほど近い大通りを、多助が杖を突きながら歩いていた。荷物を背負い、道行く人を上手く避けながら進んで行く。
その後ろから、無言のまま付いて歩く集団がいる。皆、幼い少年少女たちだ。一定の距離をとって、多助の後をついて行く。
そして、時おり石を投げる。
石は多助の背中や頭に当たり、鈍い音を立てる。だが多助は相手にすることなく、そのまま歩いていた。
すると、子供たちはさらに増長した。くすくす笑いなから、また石を投げつける……だが子供たちは、自分たちを見つめている男の存在には気づいていなかった。
龍は、じっと多助と子供たちを見ていた。
しかし突然、不快そうな表情を浮かべながら、大股で多助に近づいて行った。
「おい多助……おめえ、こんな所で何してやがる?」
言いながら、龍は子供たちを睨み付ける。龍は六尺の背丈と、二十貫を超える体格の持ち主だ。しかも顔は傷だらけで鼻は曲がり、前歯はほとんど無い。大の男でも怯んでしまうであろう人相だ。
子供たちの顔色は、一瞬にして変わる。
そして次の瞬間、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った……。
「ああ、龍さんかい。ちょいと野暮用でね。それより、ありがとよ。餓鬼ってのは、本当にしつこくていけねえ」
そう言って、軽く頭を下げる多助。だが、龍はぷいと横を向いた。
「勘違いすんな。おめえの為にやったんじゃねえ」
吐き捨てるように言った後、龍は立ち去ろうとしたが――
「おい、何だあれは……」
遠くの方から、何やらわめき声が聞こえる。次いで、こちらに走って来る者たち。さらに、それを追いかける者……。
「何か、きな臭い匂いがしますぜ。龍さん、さっさと行きましょうや」
多助が声をかける。だが遅かった。二人の浪人風の男が、こちらに走って来たのだ。
さらに、その二人を捕らえようとする町方……すると浪人は刀を抜き、町方たちを威嚇する。町方たちは距離を置き、浪人と対峙した。そして、どこからともなく集まって来た、多数の野次馬……。
だが、その時――
「助太刀するぞ!」
声とともに、野次馬をかき分けて浪人に襲いかかって行った者がいた。体格のいい中年男だ。太い眉毛と伸ばした髭が、武骨な雰囲気をいっそう際だたせている。
乱入してきた中年男に対し、刀を振り上げる浪人。だが、中年男は体格に似合わぬ機敏な動きで、一気に間合いを詰める。
そして浪人の着物を掴んだかと思うと――
一瞬にして投げた。
浪人の体は一回転し、地面に叩きつけられた。うめき声を上げる浪人を町方が取り囲み、捕縛する。
だが、中年男は止まらない。もう一人の浪人へと向かって行く。
浪人は刀を振り回す。しかし中年男は刀の軌道を冷静に見切り、あっさりとかわした。そして浪人の腕を掴み、手首の関節をひねり上げる。
悲鳴を上げ、刀を落とす浪人……さらに中年男は、浪人の鳩尾に当て身を食らわす――
腹を押さえ、崩れ落ちる浪人。すると町方が取り囲み、浪人を取り押さえた。
「いやあ、かたじけない。この二人には、我々も手を焼いておりました。出来れば、ご尊名をお聞かせ願えますか……」
同心が恐縮した態度で尋ねると、中年男は着物に付いた埃を払いながら口を開いた。
「要心鬼道流柔術……師範の花田藤十郎だ」
そう言って向きを変え、立ち去ろうとしたが――
振り返った瞬間、龍と目が合った。
その途端、花田の表情が険しくなる。
「何だ貴様……今の狼藉者を、ただ口を開けて見ていただけか。その図体は見かけ倒しのようだな。腰抜けが」
吐き捨てるように言う花田。すると、龍の顔つきが変わる。
「んだと……」
怒りの形相で詰め寄ろうとする龍……だが、多助がさりげなく割って入った。
「龍さん、一緒に蕎麦でも食いに行きましょうや。あっしが奢りますよ」
そう言って、龍の腕を小脇に抱える多助。一方、花田は馬鹿にしたような表情で鼻を鳴らし、その場を立ち去って行った。
「くそ、本当に腹立つ野郎だぜ!」
いかにも不快そうな表情で怒鳴りながら、蕎麦をすする龍……多助は思わず苦笑した。
「龍さん、あんた蕎麦食うか文句言うか、どっちかにしなよ……」
その二人の様子を、若干おびえた表情で見ているお春……すると、以蔵が近づいて行く。
そして、多助の耳元に顔を寄せた。
「多助さん、何があったんだい?」
「ま、色々ありましてね……以蔵さん、後は頼みますよ。お代は、ここに置きますんで」
「待ちなよ……あんたは食っていかないのかい?」
以蔵が尋ねると、多助は頭を掻いた。
「いやあ、あっしも用事がありましてね。また今度、食べにきますから」
そう言って、多助は立ち上がる。杖を突きながら出て行った。
龍は蕎麦をすすりながら、多助の後ろ姿に目を向ける。その時、奇妙な違和感を覚えた。上手く言えないが、何かがおかしい……。
「なあ龍さん、何があったんだい?」
以蔵の声を聞き、龍の意識はそちらに向いた。
「大したことじゃねえよ……どっかの阿呆が、俺のことを腰抜けだと言いやがっただけだ。多助が止めに入らなきゃ、ぶちのめしてやれたんだが」
「……」
龍の言葉を聞いた以蔵は、さりげなく周囲を見回した。龍の他に客はいない。お春は店の奥で洗い物をしている。
「龍さん、仮にあんたが下手な真似をして……町方に挙げられたりしたら、政吉さんを初めとしたみんなに迷惑がかかるんだよ。それは分かるね?」
「……んなことは、分かってる」
「じゃあ、止めてくれた挙げ句、蕎麦まで奢ってくれた多助さんに感謝するんだね」
以蔵の言葉に、龍は顔を歪めた。
「ちっ、うるせえな。言われなくても分かってるよ」
・・・
その頃、多助は寺の跡地へと向かう。杖を突き、慎重に歩いていく。
雑草が伸び放題になっている野原を抜け、門をくぐり抜けた。
そして、声をかける。
「お松、いるかい」
「ああ、いるよ」
お松の声。その直後、にゃあと鳴く声が続いた。どうやら、猫のみけ太郎も一緒にいるらしい。多助は笑みを浮かべ、寺の中に入って行く。
「買って来たぜ、お松」
そう言うと、多助は小さな袋を差し出す。お松はそれを受け取った。
「ありがとさん。だけど、今日は遅かったねえ。何かあったんじゃないかと思って心配したよ」
「いや、俺じゃねえんだが……ちょいと面倒なことになってな」
多助は、先ほどの出来事を話した。すると、お松の表情が変わる。
「ったく……龍の奴は、本当に馬鹿だね。てめえが下手を打って町方に捕まるのは勝手だけどさ、こっちまで巻き込まないでもらいたいよ」
吐き捨てるように言うと、お松は袋の口を開け、中身を確かめる。
「お松、火薬なんだが……もっと安く手に入るんじゃねえのか?」
多助が尋ねると、お松は首を振った。
「いいや、駄目だよ。花火師に掛け合えば、安く手に入るけどさ……足が付く危険もあるだろ。少しくらい高くても、闇で仕入れた方がいいのさ」
そう言って、お松は慎重に袋の口を結わく。この廃寺には、他にも火薬が閉まってあるのだ。万が一、引火でもしたら……お松は吹き飛んでしまう。
背中を向け、火薬の入った袋を片付けているお松。そのお松に、多助はにじり寄って行く。
やがて多助は、お松の背中を抱いた。
「あんた、今夜はどうするんだい? ご飯食べていくかい?」
「いいや、今夜は帰るとするよ。帰って、やらなきゃならんこともあるしな。じゃあ、また明日な」
言いながら、多助は立ち上がった。杖を突き、歩き出す。
すると、お松も動いた。すっと立ち上がり、顔に手拭いを巻く。そして、しなやかな動きで多助のそばに寄り添う。
「途中まで送るよ」
「そうかい、助かるぜ」
「お松よう、たまには一緒に、御天道様の下を歩かねえか?」
多助のその言葉に対し、お松は顔をしかめる。
「嫌だね」
「そうか……俺はめくらだけどな、御天道様の光ってのはいいもんだって分かるんだよ。体がぽかぽかしてくる。暖かいんだよな。お前もたまには、昼間に外に――」
「あんたが目あきで……あたしの顔が見えていたら、そんなことは絶対に言わないよ。それどころか、昼間にあたしと出歩こうなんて考えもしないさ……」
お松の声の奥には、深い怒りと悲しみがあった。
「いや、でも顔を隠せば――」
「あんたに分かるかい……餓鬼に化け物って言われながら、石投げられる気持ちが……あたしは嫌なんだよ……外を歩くのが……」
「少しは分かるつもりだ。俺も昼間は、餓鬼に石を投げられたしな」
言いながら、多助はお松の肩を叩く。
「すまなかったな。今は二人で、夜の散歩と洒落込もうや」
・・・
要心鬼道流柔術……その道場は、さほど大きなものではなかった。門下生も、他の剣術や柔術の道場に比べれば、それほど多いわけではない。
しかし今は、子の刻だというのに人が出入りしていた。
そして、道場内では――
「半方ないか? 半方ないか?」
柔術道場らしからぬ声が飛び交っている。賽子を振る音や、歓声なども聞こえていた。
そう、この道場は……夜になると賭場と化していたのだ。
そして道場の奥では、花田ともう一人、人相の悪い男が並んで座っていた。男は花田よりも、年齢は上に見える。体はさほど大きくはないが、頬に付いている刃物の傷痕が、男のこれまでの人生を物語っていた。
「先生、昼間はお手柄だったそうですねえ。気違い浪人をぶちのめしたそうじゃござんせんか。あちこちで噂になってますよ。この由五郎も鼻が高いってもんです」
言いながら、由五郎は下卑た笑みを浮かべる。すると、花田はふんと鼻を鳴らした。
「何を言っている。あんな痩せ浪人ごとき、何人たばになろうが俺の相手ではない」
「いやいや、大したもんですよ。ところで先生、急で申し訳ないんですが……今からあっしらの家に来てもらえませんかね。一つお願いしたいことがあるんですよ」
由五郎の言葉に、頷いて見せる花田。
「親分さんの頼みとあれば、断ることはできんよ。俺は何をすればいい?」
「さすが先生、そう言ってくださると助かります。実はですね、言うことを聞かない女がいるんですよ……で、お仕置きが必要かと思いましてね。先生、是非お願いします」
「お仕置き? 前と同じやり方でいいのか?」
花田が尋ねると、由五郎はにたりと笑った。
「ええ、そうです。では早速、お願いします」
その言葉の直後、立ち上がる由五郎。すると、花田も立ち上がる。
そして二人は、道場を出て行った。
「な、何するんだい!」
気の強そうな女が、二人に怒鳴りつける。だが花田は、冷酷な表情で近づいて行く。
「お文、おめえはどうしても嫌だと言うんだな」
由五郎が言うと、お文と呼ばれた女は彼を睨み、怒鳴りつけた。
「冗談じゃない! あんな狸親父に抱かれるなんて、まっぴらだよ!」
「そうか……馬鹿な奴だ。先生、お願いします」
由五郎の言葉に、頷いて見せる花田。
そして、お文の右腕を掴んだ。
次の瞬間、花田が動く。お文の右肘を伸ばし、関節を極める。
不気味な音。そしてお文は悲鳴を上げる。彼女の右肘は伸びきった状態で、ぶらぶらと垂れ下がっていた……。
だが、花田の動きは止まらない。その手が、お文の左腕へと伸びる――
獣のような悲鳴。今度は、お文の左腕が垂れ下がっている。まるで、壊れた人形のようだ……。
お文は叫びながら、必死の形相で花田の手から逃れようとする。だが、花田は容赦しなかった。今度は、お文の足へと手が伸びる……。
その光景を、じっと見ている者たちがいた。由五郎と、彼の店で下働きをしている女たちだ。両者の表情は対照的だった。由五郎は残忍な笑みを浮かべているが、女たちは恐怖の表情を浮かべている。
「よく見ておけ……俺の言うことが聞けねえ奴は、みんなああなるんだ。見ろよ、あいつの両手は動かねえ……ぶっ壊れた人形みたいなもんだ」
そして……由五郎と女たちの目の前で、花田は動き続ける。まるで流れ作業でも行なうように淡々とした表情で、花田はお文の両膝を外した。
「先生、ありがとうございやす。うちの若い者たちに任せると、加減が分からなくて……顔に傷を付けられたら、売り物になりませんからね」
言いながら、由五郎はそっと小判を渡す。花田はにやりと笑い、小判を懐にしまった。
「お安い御用だ。だがな、一つ言っておく。あの女の手足は、時間が経てば一応は治る。だが、もう二度と元のようには動かんぞ。動かす度に痛みが伴うだろう……それでも、構わんのだな?」
「客を取るのに支障なけりゃあ構やしませんよ。他の女たちへの、いい見せしめにもなりましたしね。下手に殺したりすると、後が厄介ですから……」