石が流れて、木の葉が沈みます(三)
「先生、本当に済まないねえ。今日は、これだけしかないんですよ……足りますか?」
ぼろぼろの古い長屋の前で僅かな金子を手に、何度も頭を下げる中年女。その顔は日に焼け、長年の労苦によりやつれていた。不安そうな表情で、じっと立っている。
だが佐島章軒は女に対し、にこやかな表情で頷いて見せた。
「案ずることはない。それで大丈夫だ」
「本当ですか? ありがとうございます……」
そう言って、女は何度も頭を下げる。
「いやいや……医術は人を助けるためにある。困った時はお互い様じゃないか。もし、子供がまた苦しむような時には、この薬を飲ませるといい」
そう言って、佐島は紙の袋を渡した。
女はその紙袋を受け取り、もう一度頭を下げる。
「先生、本当にありがとうございました」
佐島は笑みを浮かべると、向きを変えて歩いて行った。
だが、その後を尾行する者がいた。
その頃、林の中にある一軒家では……。
戸が開き、作務依を着た二人の男が出てきた。二人は、家の中から藁に包まれた大きな何かを運び出している。
それは、腑分けが終わった後の死体だった。この家は、いわば佐島の手術場であり実験場でもある。時と場合にもよるが、多い時には一日で二人を切り刻むこともあるのだ。
だが、その死体をいつまでも放置しておくわけにはいかない。そこで佐島の弟子が二人して、林の奥へと運んでいくのだ。そして深い穴を掘り、死体を埋める……それが、彼らの日課であった。
しかし――
「そこのお人、ちょいと待っておくんなせえ……道に迷っちまったんでさぁ。哀れなめくらを、お助けくだせえ」
不意に声をかけられ、二人は腰を抜かさんばかりの表情で振り返る。
だが、そこにいたのは座頭風の男であった。杖を突きながら、こちらによたよたと歩いて来る。
二人の顔に、安堵の表情が浮かんだ。
「何だ……あんた、こんな所にいったい何の用だ?」
言いながら、一人が近づいて行く。相手は盲人である。警戒する必要はない。
一人の男が、こちらに近づいて来る。油断しきった表情だ。多助は仕込み杖の柄を握る。
次の瞬間、鞘から抜き――
男の腹に、刃を突き立てる。
そして、深く抉った。
「う、うわあぁぁぁ!」
もう一人の男は悲鳴を上げ、後ずさって行く……。
だが、背後に現れた者がいた。お松だ。
お松は音も無く近寄り、竹筒を構えた。
次の瞬間、銃声が轟く――
お松の竹筒で後頭部を撃ち抜かれ、男は絶命した。
その頃、小屋には玄達が一人で残っていた。
だが、異変を感じとり立ち上がる。彼は痩せてはいるが、身長は六尺四寸(約百九十四センチ)ある。しかも、医術だけでなく武術の心得もある。大抵の者に引けは取らない。
玄達はゆっくりと戸を開ける。
誰もいない。しんと静まりかえっている。
玄達は辺りを見回す。その時、木の陰から男が姿を現した。大柄で、がっちりした体格だ。顔は傷だらけで鼻は曲がっている。男は殺気に満ちた瞳で、玄達をじっと見つめていた。
「お前、佐島章軒の仲間だな……」
そう言うと、龍は身構える。以前に闘った雲衛門に比べれば小さいが、それでも背は高い。しかも、こいつは力ずくでない、頭を使った闘い方を出来る男だ。腕の方も立つ。
龍はじりじりと間合いを詰めていく。しかし、玄達は動こうとしない。突っ立ったまま、じっと龍を睨んでいる。その手に武器らしき物はない。
睨み合う両者……だが、先に仕掛けたのは龍だ。一気に間合いを詰めに動く。
しかし、玄達の足が飛んでくる。前蹴りを放ったのだ――
その異様に長い足が、鋭く伸びてくる。想定外からの距離の攻撃に、龍の反応が遅れた。
その直後、爪先が龍の腹に突き刺さる。分厚い腹筋に覆われてはいるが、それをも貫くほどの威力だ。思わず顔をしかめる龍。
すると今度は、玄達の手が伸びる。龍の髪の毛を掴んだ。そして次の瞬間、龍の顔めがけて膝蹴りが放たれた。まともに食らえば、龍といえども耐えられないだろう。
だが、龍は両腕で顔を防御する。強烈な膝蹴りを受け止めた。と同時に、頭から突進していった。腰に組み付き、凄まじい勢いで押し込んでいく。
玄達は、完全に不意を突かれた。腰に組み付いてくる龍を押し戻そうとする。だが、組み技では龍の方に分がある。腕力も、龍の方が上だ。玄達はなす術なく、ずるずると押されていった。
そして、龍の両腕が玄達の長い両足に巻き付いていく。
さらに龍は、その両足を引き倒しにかかる。両足の自由を奪われては、さすがの玄達も抵抗できない。派手な音ともに、背中から倒れた。
だが、龍の動きは止まらない。すぐさま体勢を変える。馬乗りになると同時に、その強靭な前腕を玄達の喉に押し付け、喉を潰していく……。
玄達は必死でもがくが、龍の体を引き離せない。
やがて、玄達は気道を押し潰された。
「な、何だこれは……何が起きたんだ……」
そう言ったきり、佐島は呆然とした表情で立ち尽くしていた……。
忠実な部下であった玄達が、家の前で仰向けに倒れているのだ。その目からは、既に光が消えている。間違いなく死んでいるのだ。
「何故だ……何があったんだ……」
佐島はひたすら繰り返すだけだった……だが、その時――
「佐島さん、申し訳ないんだが死んでもらうよ」
背後から聞こえてきた声……それと共に、以蔵が姿を現した。
「い、以蔵さん……何故だ……」
「あんたと、あんたの仲間たちを殺してくれという依頼を受けた。申し訳ないんだが、死んでもらう」
以蔵は表情の消えた顔で煙管をくわえ、ゆっくりと歩いていく。
「ま、待ってくれ以蔵さん……私を……私を殺したら、日本の医術はどうなる? 今の日本には、私以上の知識と腕を持っている者はいないのだぞ!」
「……」
佐島の言葉を聞き、以蔵の動きが止まった。その顔に苦渋の表情が浮かぶ。
一方、佐島はなおも言葉を続ける。
「以蔵さん、あんたなら分かるはずだ。日本の医術に、私は必要な人間なのだ。私ほど、多くの人間を切り開いた医者はいない。これは決して嘘偽りではないし、また過言でもない……以蔵さん、あんたなら分かるだろう?」
「ああ、分かるよ。あんたの言っていることは間違いじゃない。あんたのやったことも、間違いじゃないと私は思う」
以蔵は、顔を歪めながら答える。
「だ、だったら……助けてくれ。私はまだ、死ぬ訳にはいかないんだ。やらなければならないことがある。私の持てる知識を、若い医者に伝えなくてはならないんだ。それに、まだ試していないこともある。だから頼む、見逃してくれ……」
そう言うと、佐島は地面に膝を着いた。そして額を地面に擦り付ける。
「以蔵さん……頼む……」
以蔵は無言のまま、佐島をじっと見下ろしていた。
だが、煙管に仕込まれていた針を抜く。
「佐島さん……あんたは間違ったことはしていないと思う。あんたはむしろ、善人なんだろう。私は、あんたを嫌いにはなれない。むしろ尊敬している」
そう言いながら、以蔵はしゃがみこんだ。
「だがね佐島さん……今の私は仕掛屋なんだよ。あんたを殺す、それが仕事だ。許してくれ、とは言わないよ。私を憎み、呪いながらあの世に逝ってくれ」
その言葉を聞き、驚愕の表情を浮かべる佐島……だが次の瞬間、彼の延髄を針が刺し貫く。
佐島は抵抗する暇もなく、一瞬にして絶命した。
「すまなかった、とは言わないよ。今度は地獄で会おう、佐島さん……私もすぐに、そっちに行くよ」
その翌日、以蔵はいつものように店で働いていた。というより、働いていないと気持ちが押し潰されてしまいそうだった。昨日の仕事は、今までで最も後味が悪いものだった。一刻も早く忘れてしまいたい……。
しかし、そこに行商人ふうの男が現れた。栗栖であることは言うまでもない。何やら、ひどく思い詰めたような表情だ。
それを見た以蔵の表情は堅くなった。さりげなく近づき、囁きかける。
「どうかしたのか?」
「以蔵……すまんが、後で時間を作ってくれ」
栗栖の声は、ひどく虚ろだった。
「何故だ……何故に、佐島さんが死なねばならんのだ……」
町外れにある、一軒のあばら家。
そこで無念そうな表情を浮かべ、呻くような声を上げる栗栖……以蔵は口元を歪めた。栗栖の気持ちは、痛いほど理解できる。
かつて、以蔵と栗栖は二人して死体を掘り出し、腐りかけた匂いに顔をしかめながら腑分けをしたのだ。本に書かれたものを読んだだけでは、到底得られないであろう生きた知識……あの佐島は、その生きた知識の宝庫のような人物だったのだ。
だが、その知識は永遠に失われてしまった。それを受け継いだ者もいない。
「以蔵……どうやら佐島さんを殺したのは、裏の世界の仕事人らしい。佐島さんに切られた者の家族が依頼したのだろうが、馬鹿なことをしたものだ……日本の医術にとって、かけがえのない人が失われたのだ」
顔を上げ、怒りに満ちた表情で言葉を吐き出す栗栖……以蔵は何も言えず、黙ったままうつむいた。
「なあ以蔵……俺は、佐島さんを殺した奴を絶対に許さん。必ず探し出し、息の根を止めてやる」
その言葉を聞き、ぎょっとする以蔵……彼は驚愕の表情を浮かべ、栗栖の顔を見つめた。
「おい栗栖、何を言い出すんだ。馬鹿な真似はやめておけ――」
「いや、俺はやるぞ……佐島さんと、その弟子たちを殺した奴らを探し出し、その報いを受けさせてやる。奴らは、医術の夜明けを……ひいては、日本の夜明けを遅らせたのだからな」
そう言うと、栗栖は酒を飲み干す。そして壁を睨みつけた。まるで、壁に浮かんでいる何者かを睨み殺さんばかりに。
その壁に浮かんでは消える者は、佐島を殺した何者か……なのであろう。もっとも、その何者かが実は隣で酒を飲んでいると知ったら、栗栖は一体どんな反応をするのだろうか?
やけ酒をあおる栗栖を見ているうちに、以蔵もまた絶望的な思いに襲われた。いつの日か、自分は栗栖を殺すことになるのかもしれない。
あるいは、栗栖に殺されるか……。
以蔵は湧き上がってきた不安を打ち消すため、自らも酒をあおった。
・・・
出会い茶屋の辰巳屋……その一室に、二人の男が向き合って座っていた。一人は鳶辰こと、鳶の辰三である。もう一人は、人の良さそうな中年男だ。神妙な顔つきで、鳶辰の前に座っている。
ややあって、鳶辰が口を開いた。
「元吉、久しぶりだな……元気でやってるか?」
「へえ、おかげさんで」
「おめえは確か、裏の仕事からは足を洗ったはずだよな? いったい何の用だ……まさか、気が変わったのかい?」
鳶辰の言葉に、元吉と呼ばれた男は照れたような表情を浮かべる。
「いやあ、足を洗ったんですがね……最近、うちのかかあに、子供ができたんでさぁ。ですから、まとまった銭が欲しいんですよ」
そう言った後、元吉は真剣な顔つきで頭を下げる。
「鳶辰さん、お願いします……あっしには、まとまった銭が要るんでさぁ。仕事があったら、是非ともあっしにやらして欲しいんです……」
「仕事か……無いことも無いが、その前に一つ聞きたい。お前、本当に何でもやるのかい?」
「へい、もちろんです」
「殺しでも、かい? 俺が殺しを頼んだら、やってくれるのかい?」
鳶辰の顔色が変化した。冷酷な、闇の世界の大物の素顔が剥き出しになる……だが、元吉は頷いた。
「ええ、やりますよ……いえ、やらせて下さい。かかあには、今まで苦労させて来ました。生まれてくる子供のためにも、銭を残してやりたいんです」
「そうかい……だったら、次の丑の日にまた来てくれよ。お前の出来そうな仕事を探しとくから。ただし確認しておくが、掟は覚えてるだろうな?」
「へえ、もちろんです」
「念のため言っておくよ。万が一のことがあった場合、お前が口を割ったら……お前だけでなく、嫁と子供も死ぬことになる。だから……もし下手を打ったら、その時は、自分で自分の口を塞ぐんだよ。分かっているね?」
言った後、鳶辰は不気味な笑みを浮かべる。元吉は表情を強張らせながらも頷いた。




