仕事に生きるは、くたびれます(三)
「政吉さん、ちょいといいかな」
店の奥で、珍しく真面目に蕎麦を作っていた政吉。しかし突然、以蔵が声をかけてきた。
「ん、どうしたんだ」
言いながら、顔を上げる政吉。
「いや、あの人があんたを呼んで来てくれって言ったんだよ。知り合いかい?」
「あの人? 誰だろうな……」
政吉はちらりと覗いてみた。すると、店の中に恰幅のいい中年男がいる。黒い着流しを身にまとい、温厚そうな表情を浮かべて座っていた。
その人物を、政吉は知っている。
弁天の正五郎だ。
「ああ、知り合いと言えば知り合いだな」
政吉の表情が、僅かに曇った。
「おやおや、正五郎さんじゃありませんか。まさか、ここにお見えになるとは思いませんでしたよ。いったい、どうしなさったんでさょうか?」
政吉は笑みを浮かべて、正五郎の前に出て来た。
だが内心では、正五郎が何の用でここに姿を見せたのか……その理由について考えを巡らせていた。弁天の正五郎と言えば、裏の世界ではかなり名の知れた男である。鳶辰ほどではないにしろ、この業界では影響力もある男なのだ。
その正五郎が、わざわざ店にやって来た……どう考えても只事ではない。
「政吉さん、あんたに大事な話があるんだよ。ここじゃ何だから、ちょいと来てもらえると助かるんだがね……」
正五郎はそう言うと、政吉をじっと見つめる。口調も顔つきも穏やかなものではあるが……しかし、その言葉の奥には有無を言わさぬものがある。
政吉は、以蔵の方を向いた。
「以蔵、ちょいと店を頼むな」
政吉と正五郎は、二人並んで歩いた。先ほどから二人とも、ずっと無言のままである。この雰囲気から、政吉は話の内容が何であるのかは理解していた。間違いなく殺しの依頼だ。
しかし、正五郎が直々に出てくるとは……よほどの大物が相手なのか、あるいは込み入った事情なのか。
その時、正五郎が足を止めた。つられて、政吉も立ち止まる。
「政吉さん、俺はあんたを信用してる……だから、これはここだけの話にしてもらいたいんだ。いいね」
「へ、へい……もちろんです」
正五郎の言葉に、頷く政吉。すると、正五郎は笑みを浮かべる。
「あんたに一つ、仕事を頼みたい。赤造の仕切る阿片窟を潰してくれ」
「え……」
「俺の馴染みの女郎がな、奴らの阿片を吸いすぎた挙げ句に……心臓が止まって死んだんだ」
そう言うと、正五郎は懐から紙に包まれた小判を取り出す。
そして、政吉の手に握らせた。
「これはあくまでも、個人的な意趣返しだ。だから、子分たちに殺らせる訳にはいかねえ。そこのところ、くれぐれも頼んだよ」
「……分かりました」
その夜、店の地下室に仕掛屋の面々が集結した。
「何の因果か知らねえが、別口からまたしても、左馬之介とあぎり……それに阿片窟を仕切る赤造を殺ってくれという依頼がきた。そっちは五十両だ。合わせて一人あたり十と一両だが、お前らどうするんだ?」
そう言うと、政吉は皆の顔を見回す。その時、多助が口を開いた。
「もし、あっしが降りると言ったら……政吉さんはどうなさるんで?」
「どうもしねえ。俺と以蔵、それに龍の三人で殺るだけさ……降りたいなら、降りても構わねえよ」
「そうですかい。ま、あっしは降りませんよ。首斬り左馬之介だか何だか知りませんが、お松の鉛玉なら一発ですよ」
言いながら、手のひらを突き出す多助。すると、政吉はその手の上に小判を十枚を乗せた。
「多助さん、頼んだぜ。あの厄介な二人を、きっちり仕留めてくれや」
政吉の言葉に、多助は笑みを浮かべる。
「じゃあ、俺はその赤造とかいう奴を殺る。ま、たまには楽させてもらうとするか」
言いながら、龍は机の上の五両を手に取る。
「よし、決まりだな……みんな、頼んだぜ」
翌日。
森の中に造られた阿片窟……そこに、ずかずか歩いていく龍。すると、番人の男たちは血相を変えた。
「な、何だてめえは!」
龍の大きな体といかつい人相に、一瞬怯んだような素振りを見せたが……すぐに気を取り直し、怒鳴りつける。と同時に、短刀を抜いた。
しかし龍の反応の方が早い。男が短刀を抜くより先に、左の鋭い前蹴りを放つ――
腹を押さえ、崩れ落ちる男。
さらに、龍はもう片方の男の襟を掴む。
その強い腕力で、男を引き寄せた。
男の首を脇に挟みこみ、一気に絞め上げる――
男の意識は、一瞬にして飛んだ。
「おい、何やってんだお前ら……」
騒ぎを聞きつけ、家の中から現れた赤造。だが、表に立っている龍の姿を見るなり表情を変える。
さらに、龍の足元に倒れている二人が目に入った。
「て、てめえ誰だ!」
「闇の仕掛屋だよ」
低い声で答えた龍。その直後、獣のような勢いで襲いかかって行った。
龍は一気に間合いを詰め、鍛え抜かれた正拳を顔面に叩き込む――
強烈な一撃が、赤造の眉間に炸裂した。
赤造は完全に不意を突かれて反応が出来ず、その一撃で昏倒する。
さらに追い打ちをかける龍。倒れた赤造の首めがけ、踵を降り下ろす――
骨が砕ける音が響き渡った。
「おらおら、さっさと出て行け」
赤造と子分たちを始末した後、龍は家の中に入って行った。そして阿片を吸っていた女たちを、力ずくで追い出す。女たちは気だるそうな表情で、ぶつぶつ文句を言いながら外に出て行った。
一人残った龍は、家の中を捜索する。そして、奥の部屋に置かれていた阿片を発見する。
龍は思案した。どうやって始末したものか……と考える。一番手っ取り早いのは、火を付けて家ごと燃やしてしまうことだ。だが、そうすると火が外の木に燃え移り、大事になる可能性がある。
ならば、後の始末は以蔵に任せるとしよう。それが奴の仕事なのだから……龍は阿片を放置したまま帰って行った。
・・・
左馬之介とあぎりは、その日もいつものごとく、あばら家にて煙管をくわえていた。
だが――
「誰か来たぞ」
来訪者の存在に先に気づいたのは、左馬之介の方だった。刀を手に取り、立ち上がる。
すると、外から声が聞こえてきた。
「すみません……揉み療治に来ました」
表から聞こえてきたのは、気弱そうな男の声だ。あぎりも立ち上がると、音を立てずに歩いていく。入り口で、そっと表の様子を窺った。
杖を突いた坊主頭の男が立っている。ただの座頭のように見えるが……こんなあばら家を訪ねて来るというのも妙な話だ。
「さっさと失せな。揉み療治なんか頼んじゃいないんだよ」
戸を閉めたまま声を発したあぎり。同時に、懐から手裏剣を出す。
「いやあ……そんなはずは無いんですよ。池田左馬之介様というお役人様と、あぎり様のお二人に按摩をするように頼まれていますんで……」
表からは、なおも声が聞こえてくる。
左馬之介は、訝しげな表情になった。自分がここに居るのを知っているとは……いったい何者だろうか。ひょっとしたら、目明かしの岩蔵の差し金かもしれない。
殺せ。
奴を殺せ。
今すぐに殺せ。
またしても、耳元で聞こえてきた声。
左馬之介は不快な気分になった。何もかも忘れるために、自分はここに居るのだ。あぎりと二人だけの大切な時間を、誰にも邪魔させない。
「あぎり……俺が行こう。ぐだぐだ言うなら殺す」
そう言うと、左馬之介は苛ついた表情で戸口まで歩いていく。
「旦那……いいですよ。あたしが追っ払いますから――」
「いや、お前が行くことはない」
表に出た左馬之介。目の前には、座頭らしき者がいる。目を閉じ、杖を片手に立っていた。
そして、左馬之介は感じ取った……この男からは、血の匂いがする。
「貴様……按摩をしに来た訳ではなさそうだな」
左馬之介の言葉に、男は笑みを浮かべる。
「さすが、首斬り左馬之介さんだ……話が早い。あんたのお命、頂戴しに参りました」
にやりと笑う座頭。そして、杖を握りしめる。
左馬之介もまた、にやりと笑った。ちょうど、人を斬りたくてたまらない気分だったのだ。
彼は刀の柄に手をかけ、ゆっくりと抜いた。
多助は仕込み杖を手に、じりじりと下がる。目の前にいる男は、確実に自分よりも腕が上だ。まともに殺り合ったら、自分に勝ち目はない。そもそも多助の戦い方は……盲人のふりをして隙を狙い、不意をついて仕留める暗殺剣である。
しかし、左馬之介にはそんなものは通用しない。ここは、お松に任せるしかないだろう……。
じりじりと下がる多助。狙い通り、左馬之介は間合いを詰めに来ている。後は、お松の隠れている大木のそばに誘い込む――
「旦那! 火薬と火縄の匂いがしますよ! 気をつけて!」
不意に声がした。いつの間にか、あぎりが出てきていたのだ。あぎりは手裏剣を構え、左馬之介のそばに駆け寄る。
舌打ちする多助。まだ、距離が遠い。左馬之介とは三間( 約五・四メートル)ほど離れている。この距離では……。
その時、業を煮やしたのか、大木の陰からお松が飛び出して来た。竹筒を構えながら、間合いを詰めていく。
しかし、それに素早く反応したのはあぎりだった。すかさず手裏剣を投げつける――
お松めがけ、一直線に飛んでいく手裏剣……だが彼女は素早く身を翻し、からくも避けた。
だが、あぎりは手を休めない。お松めがけ手裏剣を投げ続ける。
お松は、咄嗟に地面を転がって避けるが……そこに襲いかかって行ったのは左馬之介だ。飛び道具を持っているお松を、先に片付けるべきと判断したらしい。刀を振り上げ、斬りかかって行く。
だが、多助の仕込み杖が一閃――
左馬之介は、その一太刀をかわした。
さらに、多助は仕込み杖を振り回しながら突っ込んで行く――
しかし、左馬之介はその攻撃をあっさりと見切り、飛び退いて距離を取る。
左馬之介は刀を構え、あぎりは手裏剣を手に、じっくりと多助の動きを見つめていた。どこか余裕すら感じさせる振る舞いだ……二人には分かっている。有利なのは自分たちだ。ここは無理に押す必要はない。
一方、多助の額からは汗が落ちた……まともに勝負したのでは勝ち目がない。お松も今は大木の陰だ。手裏剣の射程距離は、お松の竹筒と同じ二間のようだが……あぎりの手裏剣は、一発外しても次がある。あの手裏剣に阻まれ、お松は竹筒を撃てないのだ。
いよいよ、年貢の納め時ってわけかい……。
多助の頭に、そんな思いがよぎる。
その時だった。
「おやおや、どうしなさったんですか?」
飄々とした声と共に、その場に現れた者……それは以蔵だった。 以蔵は煙管をくわえ、なに食わぬ顔であばら家の裏から姿を見せる。
そして、すたすた歩いて来た……。
「貴様! 何者だ!
左馬之介が吠え、向き直る。あぎりの注意も、一瞬ではあるが以蔵の方に向けられた。
しかし、お松にとっては一瞬あれば充分であった。隠れていた大木から踊り出た。
続いて、落雷のような音が響く――
次の瞬間……左馬之介は胸を押さえて倒れた。
「旦那ぁ!」
あぎりが、悲鳴のような声を上げる。その目は、倒れている左馬之介の方を向く。だが、それは大きな過ちだった。
彼女の背後から、以蔵が迫って行く。
煙管に仕込まれた針を抜き、首の急所に突き立てる以蔵。
あぎりは、その一刺しで絶命した。
「あ、あぎり……」
顔を上げ、あぎりの死体に向かい這って行く左馬之介……お松の撃った弾丸は命中したが、僅かに急所を逸れたようだ。三間近く離れた距離からの射撃だったため、弾丸の殺傷力も落ちていたのかもしれない。
多助は、さりげなく目の辺りを手で覆う。そして複雑な表情で、あぎりのそばに這って行く左馬之介を見つめた。
もう、自分が手を下すまでもないかもしれない。即死はさせられなかったが、お松の弾丸は確実に胸を撃ち抜いた。放っておいても、長くはもたない可能性の方が高い。
だが引き受けた以上、止めは刺さなくてはならないのだ。
仕込み杖を突きながら、左馬之介に近づいて行く多助。
その左馬之介はうつ伏せのまま、あぎりの死体に手を伸ばしていた。
「あぎり……」
震える声で呟き、あぎりの手に触れる左馬之介。多助は仕込み杖を構えた。
「左馬之介さん……あんたも今、送ってやるよ。あの世で、あぎりさんと夫婦になりな」
「なら……早くしてくれ……」
左馬之介のかすれた声が返ってきた。
だが、その顔に笑みが浮かぶ。
「貴様……地獄で待っているぞ……」
「ええ、あっしもいずれは地獄に逝きますよ。その時はよろしく……それまで、鬼に剣術でも教えてやってて下さいな」
言うと同時に、多助は刃を振り下ろす。
左馬之介の心臓を、多助の刃が貫いた。
「以蔵さん、今日は助かりましたよ。あなたが助っ人に来てくれなきゃ、くたばってたのはあっしらの方でしたぜ……」
言いながら、その場にへたりこむ多助。お松が駆け寄り、そばに寄り添う。
「そりゃ良かった。じゃあ、私は行くよ。阿片の始末をしなくちゃならないからね……」
そう言って、以蔵は振り返りもせずに去って行く。その後ろ姿を、お松は不快そうな表情で睨んだ。
「何なんだい、あの野郎は……面がいいからって気取るんじゃないよ」
吐き捨てるように言った後、お松は左馬之介とあぎりを見つめた。寄り添って死んでいる、二人の姿を……。
左馬之介の表情は、安らかなものだった。まるで呪縛から解放されたような顔つきで、あぎりの手を握りしめていた。




