仕事に生きるは、くたびれます(一)
「何を愚痴ってるんです? 大金が絡めば、命懸け……こりゃあ、当たり前のことですよ龍さん。むしろ、この程度の怪我で済んで幸いでさあ。あっしみたいに、両目を獲られるよりはましでしょうが」
言いながら、龍の筋肉質の体をじっくり揉みほぐしていく多助。龍は、呻き声とも喘ぎ声ともつかない声を上げる。剣呑長屋の前を通りかかった者がいれば、妙な誤解をされていたことだろう……。
「それにですね、十両の金を稼ぐのに、世間一般の人たちがどんだけ苦労しているか……あんた知ってるんですかい? そんな額の金が、一晩で手に入るんですぜ。こっちも、それなりに腹を括らないとねえ……あっしらみたいなのは、命を張らなきゃ、銭は手に入らないですよ」
龍の耳元に顔を近づけ、囁く多助。龍は顔をしかめた。
「わかってるよ……これでも昔は、大工の見習いだったんだぜ。安い日当でこき使われてたんだ」
やがて療治が終わり、龍は体のあちこちを動かしてみる。療治を受ける前よりはだいぶ良くなった。
巨漢の雲衛門との格闘は、未だに体の節々に痛みを残していた。幸いにも骨は折れていないようだが、痣は残っている。
「ところで龍さん、吐き気や痺れはないかい?」
横で見ていた以蔵が、不意に声をかける。
「いや、無いぜ……それがどうかしたか?」
「うん、無いならいいんだよ。蘭学の本によると、頭を打った後に吐き気やめまい、それに痺れがあると危険な症状だと書かれていたのを思い出してね。本当に大丈夫なのかい?」
以蔵の言葉に、龍は首を振る。
「たぶん大丈夫だ。頭は打ってねえしな。それにしても、あの野郎は本当に化け物みたいな男だったぜ。力も強いしな……あんな熊なみの奴とは、金輪際やり合いたくねえよ」
龍の言葉に、苦笑する多助。
「あの雲衛門には、本当にたまげましたね……めくらのあっしにも、あいつの大きさは伝わってきましたよ。あっしは運が良かったんですなあ……初めて会った時に、捻り殺されてもおかしくなかったんですから」
呟くように言う多助。すると龍が、その手に一文銭の束を乗せた。
「ほら金だ。ついでに、お松さんにも礼を言っといてくれ。あの人が化け物を仕留めてくれなきゃ、俺は今ごろ三途の川を渡っていたろうな……間違いなく、地獄逝きだったぜ」
龍の言葉に、意外そうな表情をして見せる以蔵。
「おやおや龍さん、あんたの口から、そんな弱気な言葉が出るとは意外だね……もっと豪放磊落な人かと思ってたんだが。私は、あんたのことを分かってなかったらしいね」
軽口を叩く以蔵を、龍は睨む。
「けっ、何言ってやがる……おめえだって今は気取っちゃいるが、俺たちと同類さ。いずれは地獄逝きじゃねえか」
龍のその言葉に、今度は多助が反応する。頷きながら口を開いた。
「それもそうですねえ……これまでに、さんざん人を殺してるんだ。あっしらみんな、いずれは地獄逝きでさあ。ま、地獄へ逝っても、仲良くやりましょうや」
そう言って、多助は笑った。
つられて、以蔵と龍も笑った……だが三人の目は、暗く冷えきっている。
・・・
江戸の片隅に、数人の同心が立っていた。妙に殺風景な場所であり、同心たちの顔つきも神妙である。昼間であるにもかかわらず、どこか不気味な空気が漂っていた。
だが、それも仕方ないだろう……なぜなら、ここは刑場なのである。今から、斬首刑が執行されようとしているのだ。
同心の中に、ひときわ異彩を放つ者がいた。青白く不健康そうな顔立ち。だが、それとは不釣り合いな逞しい体つき。死んだ魚のような虚ろな目で、じっと虚空を見つめている。
彼こそは、首斬り役である池田左馬之介なのだ。抜き身の刀を持ち、身じろぎもせずに立っている。
そこに、打ち首になる罪人が引っ立てられて来た。
「た、助けてくれえ! まだ死にたくない! おっかあ! 俺はまだ死にたくねえよ! おっかあに一目会わせてくれ!」
涙と鼻水を垂れ流しながら泣き叫ぶ罪人。年齢はまだ若い。二十歳になるかならないか……その着物は、既に漏らした糞尿で汚れてしまっている。処刑に対する恐怖ゆえ、もはや恥の意識すらないのだろう。その匂いがあたりにたちこめ、押さえつけている者たちも嫌悪感を隠せないでいた。
だが、左馬之介は平然としている。冷たい目で、罪人を見下ろしていた。
やがて左馬之介は、表情一つ変えずに刀を振り上げる。
そして次の瞬間、罪人の首が転がった……。
「いやあ池田殿、本日もご苦労様でした。いつもながら、見事な腕前ですな」
そう言って左馬之介に近づいて行ったのは、中村左内だ。
すると、左馬之介の表情に変化が生じた。
「中村……貴様、恥ずかしくはないのか。道場の中でも、俺とまともに勝負できたのは、先生とお前だけだったのだぞ。そんなお前が昼行灯などと呼ばれるとは――」
「昔の話は無しにしましょうよ。それじゃあ、私はこの辺で」
そう言って、左内は軽く頭を下げる。そして足早に去って行った。
左馬之介は、その後ろ姿をじっと見つめる。
殺せ……。
耳元に聞こえてきた声……左馬之介は、眉をひそめてそれを無視した。いつものことだ。数年前から、その場に居もしない者の声が聞こえている。誰の声かは知らないし、聞き覚えもない。
自分は気が触れているのだろうか。
あるいは、過去に首をはねた者が亡霊と化し、耳元で囁いているのか。
どちらでも構わない。自分の知ったことではないのだ。左馬之介は声を無視して歩き出す。
「旦那、ちょいと耳に入れたい話があるんですがね」
道を歩いていた左馬之介に、いきなり話しかけてきた者……それは、目明かしの岩蔵だった。
「何だ岩蔵……俺に何か用か?」
「旦那、ちょいと面倒なことを耳にしましてね。こないだ、あっしが捕まえた奴が、気になることを言ってたんですよ」
言いながら、岩蔵は顔を近づけて来る。一応、敬語を使ってはいるが……岩蔵の態度はあまりにも無礼なものだった。
左馬之介の目に、殺気が宿る。
「岩蔵……その汚い顔を、それ以上近づけるな」
「すいませんね。面が汚いのは生まれつきでさあ。それよりも……昨日、あなたに似た人が河原に居たそうなんですがね」
「知らんな」
左馬之介は言い放つ。その時、またしても声が聞こえてきた――
奴を殺せ。
早く殺せ。
今すぐ殺せ。
苛ついた表情になる左馬之介……だが、岩蔵はお構い無しだ。一方的に喋り続ける。
「池田の旦那……あっしの耳には、いろんな情報が入ってくるんでさあ。近頃じゃあ、旦那が妙な女と一緒に歩いているのを見たって奴も――」
その瞬間、空気を切り裂く音。
そして、左馬之介の手には刀が握られていた。抜く手も見せない抜刀術……常人なら、その一太刀で斬り殺されていたことだろう。
だが、岩蔵は避けていた……そのいかつい体躯に似合わぬ素早い動きで、左馬之介の鋭い太刀をかわしたのだ。
左馬之介の表情が、またしても変化する。
「ほう、やるな……鬼の岩蔵の二つ名は、伊達ではないらしい」
「へっ、舐めてもらっちゃ困りますぜ。こちとら、刃向かって来る悪党どもと殺り合い、修羅場くぐってるんでさあ。動かない罪人の首を落とせば終わり……のあんたとは違うんですよ」
言いながら、岩蔵は十手を抜く。一方、左馬之介は不気味な笑みを浮かべながら刀を構える。
両者の間の空気が、一瞬にして変化した。しかし――
「岩蔵、大変だよ。早く来てくれ……おいおい、何やってんだよ」
とぼけた声を発しながら現れ、両者の間に割って入ったのは左内だ。岩蔵の腕を掴み、半ば強引に引きずって行く。
「中村の旦那! こっちは今、それどころじゃねえんですよ!」
岩蔵は叫ぶ。だが、左内は聞く耳を持たない。岩蔵の腕を引っぱり、その場を離れて行った。
去っていく二人を、暗い目でじっと眺める左馬之介……あの岩蔵という男は、本当に強い。数々の修羅場をくぐってきた、という言葉に嘘偽りは感じられなかった。本気で殺り合えば、自分でも負けるかもしれない。
あの岩蔵ならば、この地獄を終わらせてくれたのだろうか?
ふと、そんな疑問が浮かぶ。だが、生きるも地獄、死ぬも地獄なのだ……死んだところで、本物の地獄が待ち受けているだけであろう。
今の自分に出来ることは、この地獄を忘れさせてくれるような、束の間の快楽を追い求めることだけだ。
お前が死んでも、誰も悲しまない……。
お前が死んだら、笑う人間が大勢いる。
またしても、耳元に聞こえてきた声。だが、左馬之介はそれを無視した。そして、足早にそこを離れる。
今はただ、何もかも忘れたかった。
しばらく歩いた後、左馬之介は奇妙な場所に辿り着いた。掘っ立て小屋の立ち並ぶ河原である。得体の知れない素性の者たちが住み着いている所だ。
今も、ざんばら髪にぼろぼろの着物を着た者たちが蠢いている。顔には埃や泥が付き、肌は日光と風雨にさらされて浅黒く、遠目からでは男か女かも判断しづらいような連中だ。
彼らは左馬之介の存在に気付き、一斉に警戒するような視線を向ける。
しかし――
「旦那、よくぞいらしてくださいましたね。ちょいと待ってておくんなさい」
そう言いながら、左馬之介に対し親しげに挨拶する女がいた。大道芸人のあぎりである。こちらも伸ばし放題のざんばら髪に汚い着物姿だ。笠を被り、手拭いで頬かむりをしているため顔はよく見えない。肌は汚れが目立つが白く、女にしてはかなり背が高い。あぎりという名前は恐らく偽名であろう。あるいは、芸名だろうか。
もっとも、左馬之介にとっては名前など、どうでも良かった。あぎりの存在は、今の彼にとって大切なものなのだから。
そして二人は、あぎりの住むあばら家へと向かう。河原からはだいぶ離れた場所だ。あぎりは普段は河原の周辺にいるが、夜になると寝ぐらにしているあばら家へと帰る。
そのあばら家には、重大な秘密があった。
家の中は暗く、あるのは行灯の僅かな明かりのみ。そんな中、左馬之介とあぎりは煙管をくわえていた。もっとも、中身は煙草ではない。
その煙管に詰められているのは阿片である。それも純度が高く、中毒性の強いものであった。
「あぎり……俺はもう、疲れた。近頃では、生きるのすら面倒だよ。なあ、さっさと俺を殺してくれんか。お前になら、殺されても構わん」
阿片の煙を吸いながら、そんな言葉を口にする左馬之介。その表情は虚ろで、目は虚空に向けられていた……。
「何を言ってるんです、旦那。旦那に死なれちゃ、あたしが困るんですよ」
そう言って、左馬之介に寄り添うあぎり。頬かむりの手拭いを取り去ったその顔は鼻が高く、まるで南蛮人のようであった。
左馬之介とあぎり……煙管をくわえている二人の姿は、あぎりの生来の不思議な容貌と相まって、この世のものとは思えぬ雰囲気を醸し出していた。
あぎりは、母親が南蛮人に強姦されて生まれた混血の女である。その風貌には、顔も知らぬ父親の血が色濃く現れていた。
成長するにつれ、あぎりの容貌は人目を惹くものになっていく。それゆえに、男たちからは好奇の目で見られてきた。もっとも他の女からは、嫉妬の混じった嫌悪の目で見られるようになっていたが。
その特徴的な容貌ゆえ、あぎりはまともな職に就けなかった。他の女たちからは異人の子と罵られ、男たちは欲望を剥き出しにした視線が飛んで来る……手込めにされたことも、一度や二度ではなかった。
やがて、あぎりはつまらぬいざこざから人を殺し、故郷を捨てて江戸に流れて来た。
江戸に流れて来るまでに、あぎりは自分の身を守る術を会得していた。
「それより旦那……また、頼みたいことがあるんですがねえ」
あぎりの言葉に、左馬之介は虚ろな目を向ける。
「何だ……言ってみろ。お前の頼みとあれば、俺は大抵のことはするぞ」
左馬之介の言葉に、あぎりは妖艶な笑みを浮かべる……その顔は、美しさと同時に禍々しさをも感じさせた。
あぎりの本心がどこにあるのか、左馬之介は知らない。知りたくもないし、知る必要もない。
ただ、自分があぎりを心から愛している……それだけで充分であった。
いや、違う。
これは……愛という感情とも、また別なものなのかもしれない。いかにお互いの存在を厭わしく思おうとも、最期まで関係を絶つことの出来ぬ者たちがいる。自分とあぎりとの関係もまた、そういったものなのかもしれない。
もっとも、それもまた……左馬之介にとっては、取るに足らないことである。




