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晴らせぬ恨み、晴らします(一)

 その侍は、ひどく苛立っていた。

 今夜は、いつにも増して異常なまでの血のたぎりと、体の疼きを感じる……このままでは、どうにも眠れそうにない。そのため、提灯を片手に外に出て来たのだ。

 侍は提灯を高く掲げ、血走った目で辺りを見回す。今は丑の刻であり、人通りはほとんどない。したがって、侍の目当てのものも見つかりそうにない。そんなことは、百も承知のはずだった。

 しかし、侍の体を突き動かしているものは、理性では御しきれぬものだ。これは、もはや病としか言い様がない。侍は取り憑かれたような表情で歩き出した。

 やがて侍は、剣呑けんのん長屋と呼ばれる場所にやって来た。花のお江戸、などと人は言うが……この剣呑長屋だけは、江戸らしからぬ魔窟の様相を呈している。素性の怪しげな者が多く住み着いており、町方も迂闊に手を出せない。事件があったからと言って下手に首を突っ込むと、非常に面倒なことになるからだ。

 もっとも……逆に言うなら、この辺りの人間を一人や二人殺したところで、町方もいちいち詳しく詮議したりはしない。ほとんどの場合、無縁仏で片付けてしまうのだ。その点は、侍にとって好都合であった。




 前から、一人の男が歩いてくる。坊主頭にみすぼらしい着物姿だ。杖を突きながら、ゆっくりと慎重に歩いている。察するに、揉み療治か何かを営んでいる盲人であろうか。盲人なら、昼も夜も同じことなのだろう。

 そして盲人であるのなら……万が一、仕損じたとしても顔を覚えられる心配もない。


 侍は近づいていき、鋭い声を発した。

「そこのめくら……ちょっと止まってもらおうか」

「へ? あっしに何か御用ですかい?」

 そう言うと、坊主は立ち止まった。暗がりのせいで、顔はよく見えない。だが声の調子からして、こちらを警戒している雰囲気は感じられない。

 その様子を見た侍は、残忍な笑みを浮かべる。一太刀で終わるだろう。正直、獲物としては物足りないが……この際、贅沢は言えない。

「冥土の土産に、一つ教えてやる……俺の名は徳田新之助、奥山新陰流の免許皆伝だ。俺の剣であの世に逝けることを、誇りに思うがいい!」

 言うと同時に、徳田は腰の刀を抜いた。

 その時、落雷のような音が辺りに響く――

 そして徳田の胸を、何かが貫いていた。


「ぐ……」

 胸の一部を抉り取られるような激痛……しかし徳田は、その痛みを必死でこらえながら周囲を見回す。

 すると、二間ほどの距離(約三・六メートル)の先に、奇妙な出で立ちの者が立っていた。頭に編み笠を被り、さらに手拭いで顔を隠している。一応、女の着物を身に付けてはいるが……女かどうかも判断がつかない。手には、黒焦げになった竹の筒のような物を握りしめている。いつの間に接近していたのか……。

「この……」

 徳田は痛みをこらえ、刀を振り上げる。そして、新たに現れた何者かへと向かって行くが――

 今度は坊主が動いた。杖だったはずの物が一転、鈍く光る刀身が現れる。

 次の瞬間、その刃が一閃――

 徳田の体を、正確に切り裂いていた……。


 何が起きたのか理解できぬまま、徳田は倒れる……薄れゆく意識の中で彼が見たものは、自分を殺した二人の姿である。一人はめくらの坊主だ。あらぬ方向に顔を向けながら、徳田の体を杖でつついている。

 そして、もう一人……編み笠を被っていた者が、こちらを見下ろしている。

 その顔は、徳田が今までに見たこともないほど醜かった。目の位置は左右でズレており、鼻は曲がっている。唇は歪んでおり、さらに顔全体には……太い線のようなぎざぎざの傷痕が、何本も張り付いていた。

「貴様……なんと醜い……物の怪か……」

 薄れゆく意識の中、徳田はそれだけを言い残す。

 そして次の瞬間、息絶えた……。

「物の怪だぁ? お前みたいな人斬りの気違いにだけは言われたくないんだよ……」

 吐き捨てるように言ったその声は、紛れもなく女のものだった……。




 そして翌朝。

「おいおい、こりゃあ何なんだよ……」

 同心の中村左内なかむら さないは、徳田の死体を眺めながら面倒臭そうに呟く。本来なら、この剣呑長屋の界隈で出た死体は、適当な理由を付けて処理するところだ。

 しかし、死体が二本差しとなるとそうはいかない。見たところ、死体となっているのは身分の高い侍だ。どこの馬の骨とも知らぬ貧乏浪人とは訳が違う。

 しかも厄介な事に、刀傷による殺しなのだ。


「旦那、こいつ知ってますぜ」

 岡っ引きの岩蔵が、いかつい顔をぬっと近づけて来た。左内は思わず目を逸らす。この岩蔵という男は、どうも苦手だ。立場は左内の方が上だが、捕らえた罪人の数は岩蔵の方が遥かに多い。

「本当か……何者だこいつは?」

 左内の問いに、岩蔵は馬鹿にしたような表情で答える。

「徳田新之助っていう名の、旗本の三男坊でさあ。剣の腕は立つんですが、三度の飯より人斬りが好きだった……って噂ですぜ」

「とんでもねえ奴だな」

 言いながら、左内は顔をしかめた。親が旗本となると、非常に厄介なことになる。下手をすると、剣呑長屋を調べなくてはならないかもしれない……。

「大丈夫ですよ、旦那……この新之助はね、鼻つまみ者だった。あちこちで、すぐに刀を振り回してた本物の気違いでさあ。親もほとほと手を焼いてましたし。ひょっとしたら、親が金を積んで殺させたのかもしれませんぜ……噂に名高い、仕置人とやらにね」

 言いながら、岩蔵は愉快そうに笑う。名は体を表すという言葉があるが、岩蔵は正にその言葉通りだ。岩のような頑健な体つきと、それに劣らぬいかつい面構えをしている。事実、悪党の間からは「鬼の岩蔵」と呼ばれて恐れられているのだ。

 しかし庶民の間では、岩蔵の人気は高い。「仏の岩さん」などと呼ぶ者までいるくらいだ。悪党には容赦ないが、老人や女子供といった弱者には優しい姿勢が評価されるのだろうか。「昼行灯」などと呼ばれている自分とは大違いだ。

 まあ、そんなことはどうでもいい。とりあえず、型通りの仕事だけはしなくてはならない。左内は死体を調べ始めた。


 ・・・


 剣呑長屋の周囲には、奇妙で怪しげな店が幾つかある。大概は盗品を捌いたりする犯罪絡みのものだが、中にはまともに商売している店もあった。

 上手蕎麦じょうずそばもその一つだ。店の主人である政吉まさきちは、三十五歳の博打好きな男だ。髪は短めで、髷は結っていない。ぎょろりとした目と、いかつい顎が特徴的である。客に接する態度は穏やかで愛想がいいが、時おり見せる表情は鋭いものだ。

 そして店では、他に二人の人間が働いている。一人は、お春という名の若い女だ。飾り気のない地味な風貌ではあるが、性格は明るく朗らかだ。客あしらいも上手く、店に無くてはならない存在である。

 そしてもう一人は、以蔵いぞうと呼ばれている若い男だ。すらりとした体つきと、色白で整った顔立ちが女たちに人気である。その態度や物言いから、学問を修めた男であることは容易に想像がついた。しかし、自分の過去の話は語ろうとしない。


 夜になり、政吉は店の暖簾を仕舞う。お春が仕事を終えて家に帰った後、奇妙な男が店を訪れた。きちんと剃り上げられた坊主頭が特徴的だ。みすぼらしい着物を着て、杖を突いている。体つきは一見すると細いが、着物から覗く腕は筋張っており、腕力は有りそうだ。全体的に、どこか死神を連想させる雰囲気を漂わせている。

 そして、男は店の戸を叩き声を上げた。

「上手蕎麦の政吉さん、あっしですよ……多助たすけです。揉み療治に参りました。開けておくんなせえ」

 ややあって、戸が開けられる。中から以蔵が顔を出した。

「やあ多助さん。待ってたよ。入んな」


 以蔵に手を引かれ、蕎麦屋の奥に入って行く多助。中はさほど広くない。余計な物はほとんど置かれていないためか、まるで牢屋のようだ。

 そして、地下に通じる階段がある。多助は以蔵に手を引かれ、ゆっくりと階段を降りて行った。


 階段を降りた先には、広い地下室があった。上とは違い、しっかりとした造りである。椅子や机、蝋燭などが置かれていた。

 その椅子の一つに、政吉が座っている。


「来たか多助さん……後金は用意してある。さあ、持って行きな」

 そう言って、二枚の小判を握らせる政吉。多助は、大げさな態度でぺこぺこ頭を下げる。

「いやあ、これはこれは……政吉さんには、いつも世話になってまして。また、よろしくお願いします」

「こちらこそ、また頼むよ……あの気違い侍、頭は弱いが剣は強いからな。以蔵に殺ってもらおうかと思ってたんだが、あんたらが引き受けてくれて良かったぜ」

 そう言って、政吉はにやりと笑う。

「へえ、あっしは仕事は選びませんから。銭になるなら何でもしますよ。じゃ、そろそろ失礼します。以蔵さん、頼みます」

 多助がそう言うと、以蔵が手を差し出した。そして、多助の手を引いて歩いて行く――

 しかし、政吉が呼び止めた。

「ちょっと待ってくれ。なあ、お松さんはいつになったら、ここに顔を出してくれるんだ?」

「……お松、で?」

 逆に聞き返す多助。すると、政吉が頷いた。

「ああ。お松さんとも、顔を合わせておきたいからな……次に来る時は、お松さんも連れて来てくれよ。お前さんだって、その方が便利だろうが――」

「申し訳ないですが、そいつは出来ません」

 政吉の言葉を遮る多助。その声は冷たく、先ほどまでの愛想が微塵も感じられなかった。

「おい、それはどういう訳なんだ? お松さんが、俺たちに会いたくねえとでも言ってるのかい?」

 政吉の顔つきも変わった。表情が堅くなり、目付きが鋭くなる。一方、以蔵の態度は変わらないが……懐から何かを取り出している。煙管のような物だ。

 すると、多助の表情が和らいだ。場の空気を和ませようとでも考えたのか、愛想笑いを浮かべる。

「まあ、そうなんですよ。あいつは外に出たがらないんで。それに……あっしは、めくらなんですよ。以蔵さん、すまねえが椅子を取ってくれねえか」

「ああ、いいよ」

 以蔵は頷いて、椅子を差し出す。そして、多助の手を引いて椅子に導いた。

「ありがとう、以蔵さん。でね、政吉さん……あっしはね、目が見えないってだけで、今までに色々と酷い目に遭わされてきたんですよ。子供に蹴飛ばされたり、大人に殴られて金を盗られたり……そうそう、食ってる握り飯を取り上げられて肥溜めに浸けられた挙げ句、それを無理やり食わされたこともありました」

「そいつは聞き捨てならないな……多助さん、あんたは私たちを、そんな屑野郎と同類だとでも思っているのかい? あんたは、私たちがそんな真似をするとでも思ってるのかい?」

 以蔵が、横から口を挟んできた。彼にしては珍しく、あからさまな怒りの表情を浮かべている。

 すると、多助は軽く頭を下げた。

「ああ以蔵さん、気に障ったなら謝ります。しかしね、あっしがこれまでに受けてきた仕打ちは、あんたらには想像もつかないもんでしょう……いくら学のあるあんたでも、こればかりは分からんでしょうね。あっしはね、今までずっと痛い目に遭い続けてきた。だからね、用心深くならざるを得ないんですよ」

「なるほど、それは分かった。だがな、お前さんの哀れな身の上と……お松さんが俺たちの前に面を晒さねえのと、いったい何の関係があるんだ?」

 今度は政吉が尋ねる。彼の表情は険しい。目を細めて、じっと多助を見つめていた。その瞳には、危険な光が宿っている。

 だが、多助は平然としていた。もっとも、目の見えない彼にとっては、政吉がいかに恐ろしい形相をしていようが無意味なのだが……。


「お松はね、あっしにとっての切り札なんですよ」

「切り札?」

「ええ、そうです。あっしに何かあったら、お松が動く手筈になっています。ここにやって来て、あんたたちの脳天を吹っ飛ばすことになっているんですよ。いくら腕が立とうが、鉛玉には勝てませんからね」

「……」

 政吉は何も言わず、じっと多助を見つめる。以蔵も黙ったまま、事の成り行きを見守っていた。


「政吉さん、それに以蔵さん……あっしはね、あんたらを信用してます。ただし当面の商売相手として、です。あっしは、これまで色んな人間と会いました。人の世話を焼きながら、懐の銭をくすねるような奴。口では真っ当なことを言いながら、金が絡めば自分の子供でも殺す奴。そんな連中と関わっていたりすると、誰も信じられなくなるんでさぁ。政吉さん、あなたも分かりますよね? それに……お松の面がどうしても見たいなら、この場であっしを殺すんですね。そうすりゃ、お松は必ずあなた方の前に現れますよ」

 そう言うと、多助は政吉の方に顔を向ける。その瞳は閉じられたままだ。にもかかわらず、得体の知れない凄みを感じさせた。以蔵は思わず声を出す。

「ちょっと多助さん、あんた――」

「わかった。そう言うことなら、俺もこれ以上は何も言わねえよ。だがな、そっちも忘れるな。もしお前さんが俺たちを裏切るような真似をしたら、お松さんともども死んでもらうぜ。いくら短筒でも、俺と以蔵……それに龍の三人をいっぺんに仕留めることは出来ねえからな」






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