秋の長夜の紅き月 その4
秋の長夜の紅き月 その4
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小夜子は、まるで肉食獣に追われる草食動物であるかように走り続けていた。
だが、小夜子は野生に生きる草食動物ではなく、ただの人間である。
それも、普段はおとなしく読書を好み、部活も運動系ではない、普通の女子校生でしかないのだ。
当然、体力の限界はすぐにやってくた。
「あっ」
足がもつれて、受け身を取ることも出来ず、地面へと倒れ込んでしまった。
「は、あ、はあ、あああ」
息を吐き出すだけでも、胸が痛みを訴えるが、小夜子はなんとか、息を整えようとする。
脳に十分な酸素が行き届いていないのだろうか、いつもより半分ぐらいに狭められた視界の中で、辺りを探る。
あの真紅の血を塗りつぶしたような女性は少なくとも小夜子の視界には見えなかった。
そのことに幾分か安堵した小夜子は冷静さを取り戻し始める。
「そうだ。警察よ。警察なら……」
しかし、わずかな希望は、血色の絶望へ塗り替えられた。
目の前で血の滴る鞭を持った真っ赤な女性が悠然と小夜子を見下ろしていたのだ。
真紅色の手が、震えて動くことの出来ない小夜子の頬を撫でる。確かな実体がそこにあることを何よりも雄弁に小夜子に物語っていた。
レーザーグローブの肌触りが吐き気を催すほどに気持ち悪い。
「また逃げるの?」
真紅色の女性がまるで幼子のように首を傾げた。
彼女にしてみれば、他意のないただの確認にすぎなかったのだろう。
だが、今にも泣き出してしまいそうな程に顔を引きつらせた小夜子は首を横に振るのが精一杯だった。
「嘘じゃないよね?」
真紅色の女性は右手のレーザーグローブを外して、直に小夜子の頬を触ってきた。
その瞬間、何かを、体が突き抜けていった気がした。
それは眼前の真紅色の女性も同じ事だったのであろうか。
髪と同様に真紅色に染まりあがった眉がぴくりと動いたかと思うと、その氷よりも冷たい手を小夜子から離した。
立ち上がるという行為すら忘れて、この真紅色の女性の前から逃げ出したいという思考ばかりが先行し、体全体を引きずるかのようにして、真紅色の女性から距離を取る。
追ってくるとばかり思っていたが、真紅色の女性はもはや、小夜子への興味が失せたのか逃げる彼女に一瞥をくれることもなく、ただ静かに空を見上げていた。
そんな彼女につられるようにして、空を見上げた小夜子は思わず我が目を疑った。
真っ赤に染まって、月が紅く輝いているのだ。
「捕らえられた?」
真紅色の女性はまるで月に問いかけるかのように呟いた。
彼女の問いかけの意味がわからず、再び視線を紅い月から真紅色の女性へと移そうとした小夜子であるが、幸か不幸かそれが叶うことはなかった。
なぜなら、真紅色の女性は既に見る影もなく姿を消していたからである。
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紅は、相変わらず名刀を興味深げに見つめながら、この日本刀をどうしようかと懸命に考えていた。
この名刀をこのまま、家に持ち帰るか。
それとも警察に落とし物として届けるか。
個人的な感情を優先すればこのまま家に持って帰ってしまいたい。
だが、良心は落とし物は交番へ持っていくべきであると訴え続けている。
かれこれ、10分近くは欲望と良心との間で葛藤していた紅だが、ふと目にした地面に不思議な物が見つけた。
地面の一カ所だけが黒く焦げているのだ。それも人の形に。
注意深く匂いを嗅いでみれば微かに焦げた匂いもする。
「まあ、考えてみれば、こんな名刀が100円玉みたいに理由もなく転がっている訳なんてないよな」
ここで何が起きたのかは全くわからないし、たぶん想像しない方がいいことが起きたのだと思う。
少なくとも、この名刀は何かしらの事件に巻き込まれた結果、ここに転がっていたのは間違えないだろう。
この事実が決定打となり、紅はこの名刀を警察へ持っていくことにやっと決意し、ひとまずはこの路地裏を出ることにした。
しかし、彼女は欲望と良心の間で葛藤していたため、自身が囚われた事にまだ気づいていなかった。
「あれ。何で誰もいないのかな?」
路地裏から出てきた紅は見たのは、ただ光り輝くだけの町だった。
視界の中に人が一切入っていない。
左右を見渡すがやはり視界には誰も入っていない。
見慣れた風景であるはずなのに、まるで、映画のロケでも始めるのではないかと思うほど作り物めいて見えるのがうすら恐ろしかった。
「おっかしいな。みんなどうしたんだろう?」
鞘に収めた日本刀を両手で持ちつつ、紅はひとまず交番へと歩き始める。
異常としか考えられない出来事が目の前で起きているのに、彼女は至って平静だった。
これは過剰ともいえる日々の鍛錬によって身につけた精神力が成せる技であろう。
いつ、いかなる場面でも、剣に乱れなく技を使えること。江戸時代から代々続く道場の師範である祖父の鍛錬によって並大抵な出来事では動じない精神を身につけていたことが、まさか役に立つとは紅自身思わなかった。
中学時代などは、あまりに度を超した鍛錬に道場を抜け出したこともあったが、やっていればいつか役に立つ日がやってくるものである。
紅はふと空を見上げた。
先ほどまでビルに囲まれ、夜空がほとんど見えなかったため、気がつかなかったが、今日の月は紅く輝いていた。
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空には依然、紅い月が輝いている。
それを確認したオータムは今一度、満足げな表情で頷いた。
狩りは始まったが、標的はけして少なくない。
タイムリミットはこの紅い月が光り輝くのを止める時、すなわち、この世界に太陽が昇ってきた時である。
それまでに、この世界に招かれた8体の悪魔を狩らねばならない。
予定よりも2体多いことが気がかりであったが、オータムの目的に変更はない。
他人の視線を気にする必要の無くなった魔術師は、その煌めく金髪を惜しみなくさらけ出し、その手には蔦を編み上げることで作り上げられた杖を持ち、静寂の街を歩き続けた。
この静寂の世界に響いていたのは、オータムが刻む足音だけであった。
が、その世界に不協和音がついに現れた。
「Who are you?」
歩むのを止め、問いかける。
オータムの真っ正面から誰が歩み寄ってきたのだ。
「おいおい。普通は自分から自己紹介するもんだろう。人を勝手にこんな寂しい世界に閉じこめやがってよ。礼儀って奴は習ったことないのかよ」
不機嫌そうな男の声が浴びせられる。
苛立っているのか、手にしている棒状の獲物を思いの限り地面へたたきつける。
乾いた音が、静寂の世界に響き渡るが、オータムはそんな事など一切を気にすることなく、杖を彼に向かった。
「はん。本当に礼儀って奴を知らねえ野郎だ。魔術師って奴らはみんなこれだから嫌になる。この俺様、総次様が貴様に礼儀って奴を教えてやるよ!!」
総次と名乗った男は手に持っていた物干し竿並の棒を腰の辺りで構えた。
棒に見えていたが、それの先に刃物が付いており、振り回すと辺り一面を縦横無尽に切り裂いていく。
「Spear?」
それは答えを求めていない問いかけであった。
オータムが駆け出す。
それと同時に総次も駈け出し、二人の間の距離が一気に縮まる。
総次は槍を横凪ぎにならって、オータムの首筋を狙う。
オータムは迫りくる槍を杖で牽制しつつ、さらに総次との距離を縮めようとするが、総次の槍が簡単には近寄らせてくれない。
単純に総次の槍は、オータムの杖よりも倍以上の尺を持っており、リーチ差を生かしての攻撃がオータムを近寄らせない。
「どうした。いつまでもそんな所にいたら、俺の槍が貴様を串刺しにするぞ」
総次の槍が突きの攻撃に転じた。
その突きの早さと多彩さに、オータムはすべてを捌ききることが出来ない。
一度距離を取って体勢を立て直なおすが、漆黒の法衣に四カ所程穴があいていた。
悔しさからか、わずかにオータムの口元が歪んだ。
「Fire」
接近戦では不利であると理解し、距離を取たまま、杖の先から炎球を生み出す。
炎球は一目散に総次をめがけて飛んでいくのだが、総次は槍を扇風機のように回転させることによって、その炎を消し去ってしまった。
「おうおうおうおう。そんなもんなのかよ。もっと楽しめるかと思ったのに、貴様弱いじゃないか。そんなんじゃ、俺は倒せねえぞ!!」
紅い月明かりが照らす夜においても悪魔が持つ槍の矛先は鈍く煌めいていた。
「それとな、俺には距離を取っても無駄なんだよ」
総次の言葉を証明するかのように矛先から、黄金に輝く光が飛び出し、オータムへと迫る。
オータムは反射的に身を翻して、その攻撃をかろうじて避けた。
攻撃目標を見失った黄金の光はそのまま地面へと激突して、轟音をなびかせる。
見れば、黄金の光が当たった場所はえぐられたかのように地面がむき出しになっていた。
「Power of the thunder?」
「ああ、そうさ。俺の槍は雷の能力をもっているんだよ。だから、距離を取ろうと俺には貴様を攻撃する事が可能なんだよ。分かったか、貴様には勝機はもうないんだよ!!」
総次は勝ち誇ったかのように言い、その矛先には電撃が火花を散らしている。
「それはあなた」
総次の挑発にオータムはあえて挑発で返した。
総次の方が圧倒的に有利だと言うのに、自信に満ちたオータムの笑みが彼の癪に障ったのだろう。
元々、気が短い総次は完全に頭に血を上らせて矛先の標準をオータムに合わせた。
「てめえ、死にやがれ!!」
総次の槍から幾筋もの雷撃が放たれる。
オータムに向かって一直線に突き進む黄金の光達。
先ほどとは違い同時に幾重にも雷撃が放たれたのでは、身を翻して避けることも出来ない。
だが、オータムは笑みを浮かべたままであった。
敵の特性がわかった今、オータムは最初から逃げるつもりなどなかったのだ。
攻撃こそ、最大の防御である。
オータムは迫りくる雷撃には目をくれず、杖の先を総次へと向け、呪文を唱える。
「Water」
杖の先から水が生み出されオータムの前に壁として形成されていく。
水の壁は幾重もの雷撃を一心に引き受け、余すことなく雷撃を地面へと導いていく。
そして、同時に魔術師は水の道を作り上げていく。
この道の先にいるのはもちろん、オータムが倒すべき敵である総次だ。
総次の槍から放たれた雷は、オータムの作った水路を通って総次の元へと帰っていく。
実に単純かつ効率的な戦法である。
「Good bye the fool」
オータムの呟きを果たして、総次は聞くことが出来たのであろうか。
必殺の雷撃を自ら浴びた哀れな戦士は既に跡形もなくこの世界から消え果てていた。
もはや、彼がこの世界に残っていた証は、風に流されているわずかな黒炭と、無傷のまま地面へ転がっている槍だけであった。
「I get the second device」
総次が持っていた槍の元までオータムは歩み寄ると、事務的な作業のようにその槍を左手で持ち上げた。
その表情には勝利の余韻など一切感じられない。
これが当たり前のことであるといわんばかりに無表情であった。
金髪の魔術師は、右手で槍の上に六芒星を描く。
あくまで事務的に、一切の感情さえもこめずに、描いていく。
「Seal evil in」
そして、最後の詠唱を終えると、槍は光に包まれ、光の中にその姿を消していくのだった。