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魔術師と剣士と無力な少女  作者:
秋の長夜の紅き月
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秋の長夜の紅き月 その15

秋の長夜の紅き月 その15



 ★ ★ ★ ★ ★




 紅く照らされた世界で、小夜子は立ち上がった。

 目の前の繰り広げれた悪魔同士の仲間割れにかつての小夜子なら怯えきって何も出来ないでいたことだろう。

 しかし、今の彼女は自分に出来ることを知っている。

 掌に食い込んでいた小石を払いのけ、回りの景色を確認する。


「っけ。全くとんだ邪魔が入ってしまったな」


 研ぎ澄まされた爪と爪がぶつかり合い火花が散る。

 今にも膝が震えだしそうな程に恐ろしかった。

 どんなにも惨めで、不格好だと言われてもかまわない。

 これだけが今の彼女に出来る唯一であるのなら、せめてその唯一だけは精一杯にしなければならない。

 小夜子は悪魔に背を向け、再び走り出す。

 何処までもいける所まで逃げ続ける。

 オータムや紅みたいに戦う力は持っていない。

 でも、それは何もしないことの言い訳にはならないから。


「っけ、いい加減、止めろよ!!」


 爪が暗闇を凪いだ。数に10メートルは離れた距離があるというのに、あの悪魔が無意味に爪を振るうとは思えない。

 そして、今宵、小夜子は同じような光景を見ていた。


「あっ」


 気がついた時には既に、足に力が入らなくなっており、為す術無くそのまま地面に倒れ込むしかできなかった。

 右の脹ら脛に肉を切り裂かれた痛みと火傷の痛みが同時に襲ってくる。

 今、小夜子を追っているのはただの人間ではない。

 魔力を持つ悪魔である。

 紅が、炎の剣を使えるように、この悪魔もまた炎を操ることが出来るのだ。

 流れ出る血の温かさと、火傷の熱が小夜子を襲うが、それでも、小夜子は諦めない。

 真っ直ぐに伸びるレールを握りしめ自らの体を引き寄せるように、男から逃げ続ける。


「っけ」


 しかし、歩みとではその速度はウサギとカメの程の差がある。

 悠々とした足取りで、小夜子の横まで歩み寄った男は、小夜子の顔に唾を吐き捨てた。

 それでも、小夜子は逃げるのを止めない。


「いやあああああああああ!!」


 肉が裂かれ、火傷を負っている小夜子の傷口が力の限り踏みつけられた。

 目の裏で火花がちらつくほどの激痛に溜まらず悲鳴が漏れる。


「っけ。鬼ごっこも終わりだ」


 悪魔に踏みつけられても逃げるのを諦めない小夜子に、もう一度唾を吐きかけた。

 そして、燃え上がる炎の爪を小夜子の背中に押し当てた。

 真っ赤な月明かりに照らされた世界で燃え上がる炎は、じわりと小夜子の服を燃やしていく。

 邪魔な物が燃え上がり、小夜子の背中が見えてくる。

 爪が向けられた背中、その先にあるのは、彼女の心臓である。


「ねえ、爪、何してるの?」


 鈴の音色のようにその声はとても良く通り、深海の水のように濁って冷たかった。

 小夜子を踏みつけ、少しでもおかしな真似をすればすぐにもその心臓を刳り貫けるようにしつつ、爪の男がそっと彼女の方を向く。

 この紅い月に照らされた世界においても、とけ込むことなく、さらに異質な赤に全身を包み込んだ彼女の名前は、血色の真紅石。


「っけ。斧と言い、鞭と言い、何でみんなして俺の邪魔をする?」


 自分に向けられた質問を無視して血色の真紅石は首を傾げ続ける。


「ねえ、何してたの?」

「っけ。見て分かるだろうが、鞭から言われたとおりに魔術師を殺そうとしている所だ。分かったら邪魔をするな」

「魔術師なの? あなたは私の食料じゃないの?」


 血色の真紅石は爪ではなく小夜子に問いかける。

 血色の真紅石に見つめられるだけで小夜子の息は苦しくなる。

 それだけ血色の真紅石に受け付けられた恐怖は深いのだ。


「違う。私は魔術師じゃない」


 それでも、小夜子は必死に言葉を絞り出せた。

 この紅い月の下、同じように悪魔と対峙している二人を知っているから。

 彼女たちのことを思うと自然と勇気がわき上がってきた。

 もしかしたら、1秒後には背中から心臓をえぐり取られるかも知れない。

 だけど、その1秒を少しでも長引かせることが出来るなら、また状況が変わってくるかも知れない。


「何だと? だったらどうしてお前がここにいる?」

「分からない。でも、オータムさんは、あの鞭を持った人が触っていたからこっちの世界に入ってきてしまったって教えてくれた」


 自らが犯してしまったミスに気づいてしまった爪は慌てて血色の真紅石を見る。

 彼女は真っ赤な鞭を持ち、首を傾げてこっちを見ていた。

 その目に怒りの感情はない。

 あるのはいつもの如く疑問の表情であった。

 なのに、爪は腕が震え出すのを止めることが出来なかった。

 今、彼が殺そうとしている小夜子はあらかじめ血色の真紅石が目を付けていた食料だった。

 それを爪は知らなかったとはいえ横取りしようとしてしまったのだ。

 ただ、それだけのことだったのに。


「私、間違ってた?」


 爪の男が何かを言おうとしたが、言葉は出ず変わりに流れ出たのは彼の血であり、肉片であり、全てであった。

 風を切り裂く音と共に血色の真紅石の鞭がしなり悪魔であった男を解体したのだ。


「はあ、あぅ、ああ」


 まだ温かさの残る血を全身で感じとり、小夜子はたまらず胃の中の物を全て吐き出してしまった。

 血と胃液があわさった匂いはとても耐えうる物ではなかった。

 再び胃の奥から逆流してくるものを必死に押さえ込み、小夜子はゆっくりと立ち上がった。

 すっぱい唾を吐き捨て、力無き少女は独り、血色の真紅石と向かい合う。


「これから、私を食べるんですか?」


 傷つけられた右足はやっぱり、殆ど力が入らないが全く動けない訳ではない。

 こんな何もない線路上では支えになる物は何もないが、目的の場所はもうすぐそこだ。


「食べて欲しい?」


 首を横に振った。

 血が抜けているからだろうか、段々と小夜子の意識がもうろうとしてきくる。

 それでも、彼女は血色の真紅石からに一歩でも遠くに逃げようと後退を始めた。

 右脚が動かせないから、何度も転んでは立ち上がって、立ち上がっては転んで、僅かずつであるが横へ逃げ続けた。


「逃げるの?」


 もはや、聴覚がなくなり、嗅覚もなくなり、視覚も白と黒の二色だけになってしまった小夜子。

 気を抜けばすぐにでも、意識が暗い闇の中に入り込んでいきそうだった。


「あなたは美味しいの?」


 紅い悪魔が、小夜子の全身を眺め回し、これから食べる食料をじっくりと見聞する。


「あなたの傷はこれから治るの?」


 体温と体力は流れ落ちる血と共に体外へ排出されていく。

 黒い靄がかかった意識の中で彼女が意識を手放さずに入れるのは、この紅い月が浮かぶ世界にいる仲間への思いと、朝日が昇った世界で手に入れた記憶があるからだ。


「答えてくれないの?」


 再び転び地面に尻餅をついた小夜子を不思議そうに見下ろした血色の真紅石がその身をかがめ、石を拾い上げた。

 紅い月が照らす世界で、その血よりも赤く染まった舌が伸ばされ、拾い上げた石を舐める。

 何度も何度も、ミルクを与えられた猫のように舐め続けた。

 無作為に石を舐めているのではない。

 その石に小夜子の血が染みついている。

 血色の真紅石は飽きることなく、小夜子の血を舌で舐め続けた。


「あなたも嘗めてみる?」


 よほど美味しかったのだろう、満足げな表情を浮かべ、血の付いた岩を小夜子に差し出す。


「あ、あ、ああ、ああ」


 狂気という言葉さえも超越した出来事に小夜子の手足が痙攣を始めた。

 もはや体を支えていた腕に力は入らず、仰向けになるようにして背中を地面に付けてしまう。

 もう一度起き上がろうとするが、手足の痙攣は収まるところを知らず、一切の力が入らない。

 体を回転させようとも、丁度レールの間にすっぽりとはまる位置でたれ込んでしまったため、左右のレールが小夜子を閉じこめる塀となって存在している。


「食べても良い?」


 レールとレールの間に倒れ込んだ小夜子を血色の真紅石は不思議そうな顔で見ている。

 小夜子は何も言うことが出来ずにただ、自分の真上にある顔を見上げることしかできない。


「血がたくさん出たの?」


 しゃがみ込み、小夜子の首筋に手を添え口元に笑みを浮かべる血色の真紅石。

 切れの長い唇が作り出すその笑みは危険なぐらいに美しかった。

 真っ赤な彼女の手に伝わってくる小さな鼓動。

 今にも止まってしまいそうな鼓動だが、それでも体内に血を潤滑させている。

 舌で自らの唇をしめらせ、血色の真紅石は真っ赤な唇を小夜子の首筋へと運んだ。

 小夜子の素肌は冷たく、暖かみは殆ど残っていない。

 弱々しい鼓動が唇に伝わる。

 口内に広がる、赤く、苦く、暖かい液体。

 血色の真紅石は喉を鳴らし、それを体内へと吸収する。

 小夜子のそれは、とても美味しかった。

 とても一度では味わい尽くせないほどにだ。

 血色の真紅石は小夜子の首筋から口を離した。

 小夜子の血を吸い尽くしたわけではない。

 まだ、数口しか飲んでいない。

 それなのに、食事を止めた理由は小夜子の腕時計のアラームが鳴ったからだった。


「これは何?」


 首を傾げて、電子音を鳴らし続ける腕時計を見つめる血色の真紅石。

 しかし、からくり玩具を前にした子供のような純粋なる疑問への解は返ってこなかった。


「私は、幼少の時代から鍛錬を続けてきた、月島さんのように剣術に長けてもなければ、オータムさんのように、魔法を駆使して命をかけて、あなた達悪魔を狩ることも出来ない。私は、ごく普通の女学生として、学園生活をしてきたに過ぎない」


 紅い月光により、紅く染まった夜空を見上げながら小夜子が口を開いた。

 今宵、紅き月の下で体験した全てを思い出すかのように、深く息を吸い込み、血色の真紅石へゆっくりと語りかける。

 母親が子供におとぎ話を聞かせるように、けして、子供の興味が薄らいでしまわないようにしながら。


「でも、私は、私なりに一生懸命、これまで生きてきた。だから、多分、これが私の出来る唯一の事だって、思ったの」


 空には依然と、紅い月が浮かんでいる。

 最初は、永遠にこの紅い月が浮かぶ世界に閉じこめられるのでは不安に押しつぶされそうになった事もあった。

 しかし、この紅い月が世界を作り出した魔術師に出会って、彼女が教えてくれた。

 この世界は一夜限りの世界であると。


「あなたは、何を言っているの?」


 小夜子の上に追い被さるようにし、血色の真紅石が真っ正面から小夜子をのぞき込む。

 目と鼻の先に、血色の真紅石がいるというのに、小夜子はもはや恐怖を感じてはいなかった。

 いや、それどころか、今、彼女が思っているのは、いかにして血のように真っ赤なこの女性を自分から引き離さずにいるかである。


「私は、自慢じゃないけど、高校に入学して以降、無遅刻無欠席を続けています。毎日同じ時間に家を出て、同じ電車にのって、学校へ登校しているの」


 オータムが教えてくれたこの世界の決まり事。

 それは、朝日がこの紅い月が浮かぶ世界を照らした瞬間、この世界が崩壊を初めて、小夜子が生まれ育った本来の世界に戻る事である。


「特に春と秋は登校が楽しいの。毎朝、日が昇る前に家を出て、電車の窓から朝日が昇るのを見る事が出来るからなの。暗い世界に朝日が差し込む瞬間、さあ、今日も一日頑張ろうって思えるのよ」


 そして、白銀の光が世界に差し込み、紅い月が支配する世界が崩壊を始める。

 創造は困難であっても、破壊は容易いように、この世界で味わってきた困難や恐怖がまるで夢であったのではないかと思えるぐらいあっさりと、紅い月が浮かぶ世界は消えて無くなった。


「それで、ね、そんなこと考えていたら、何時しか、電車に乗ってどのタイミングで朝日が昇ってくるか、覚えちゃったの」


 小夜子の言葉は、しかし、鳴り響く轟音により掻き消されてしまった。


 荒れ狂う暴風の中に突如として投げ込まれたかのような爆音が左右のレールから鳴り響き、小夜子の顔にスライムのような堅さと柔らかさを併せ持つ何かが堕ちてきた。


 練り固まっていない団子を投げつけられたかのように全身に、かつて伝説の悪魔と呼ばれた存在の肉片が降りかかってくる。


 小夜子の見上げる上には、もう紅い月は無い。

 そこにあるのは、血色の真紅石をただの肉片へと砕いた高速移動する鉄の固まりであり、それは彼女が毎日登校に使っている電車の底辺でもある。


 左右から鳴り響く轟音の中、肉と骨が剪断される音がした。


 彼女たちが元の世界に戻ってきた時、彼女たちがいた其処には既に電車は走っていた。


 小夜子はレールとレールの間に挟まるようにして倒れ込んでいたため無事であったが、彼女に乗りかかっていた血色の真紅石は自分の身に何が起きたのか認識する時間さえ無く、電車にひき殺されるしか出来なかった。


「はあああああ、やりましたよ。月島さん、オータムさん」


 血色の真紅石をひき殺した電車が通り過ぎ、小夜子の視界に白銀の光が差し込んでくる。

 昨日までは当たり前のように思えたこの朝日を見れることが今は、涙が出るほどに嬉しい。

 こんな所で寝ていたら、後で何を言われるか分かったものじゃない。

 一刻も早く線路から離れて、紅とオータムと合流しなければ。

 そうと分かってはいるものの、暖かな白銀の日差しを浴びたら、小夜子の中でずっと張りつめていた何かが、遂に切れてしまった。

 安らかに瞼を閉じて、光に包まれた少女の意識は、深い闇の底へ沈んでいくのであった。

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