秋の長夜の紅き月 その12
秋の長夜の紅き月 その12
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「ほほほ。あきらめが肝心とは言うが、外人さんもそれかの。それとも、何か策があるのかのう。ほほほ。どっちにしろ、わしには関係のないことじゃがの」
老人はそう言うと、弓を構え、弦を引く。
ただし、その弓に矢は無かった。
矢のない弓を引くという不可解な行動を取る老人。
それでも、老人は自信ありげに弦を引き続ける。
「ほほほ。分けが分からないという表情だの、外人さん。分からなくて結構、わしは外人が嫌いでのう。あんたみたいな金髪を見ていると虫酸が走るんじゃわい」
「あたしも、あたまの固いとしおりは嫌い」
老人の行動を一挙たりとも見逃さないように、オータムは全神経を集中させる。
一瞬でも隙を見せれば、今はまだ見えぬ矢がオータムの心臓に突き刺さるだろう。
オータムは弓が無く弦を引き続ける老人を、奇行だとは思わない。
ここは紅い月が浮かぶ戦場だ。
常識なんて、この世界には存在しない。
「ほほほ。そうかい。わしもお前みたいな外人さんに好かれたいとは思っとらんわい」
老人の目に殺意がこもり、弦が悲鳴を上げた。
「あたしはあなたがだいきらい」
「わしもじゃ」
弦がその戒めを解き放たれた。
集中力を限界まで張りつめていたオータムは、その刹那の瞬間に、見事に反応した。
体を滑らかな動作で横へと動かす。
鋭い何かがオータムの頬を切り裂き、何かが壁へと突き刺さった。
「Ice?」
壁に突き刺さっていたのは、透明な矢であった。
もし、その矢から氷柱のようにぽつりぽつりと水が滴り落ちていなければ、水晶と見間違えそうなほどに澄み渡った透明の矢がそこにはあった。
「そうじゃよ、外人さん。これが、わしの力じゃ。じゃがの、あの斧みたいなちんけな若造とは一緒にしない方が良い。わしはこんなことも出来るのじゃからな」
老人が再び弦を引いた。オータムが何処かに隠れようと体を横に動かす。
しかし、透明で冷たい壁にぶつかりそれ以上は進むことが出来ない。
反対側も、後ろも、上も、同じだった。
透明で凍てつくほど冷たい壁で辺りを被われている。
ただ、開いているのは、老人が弦を引いている正面だけである。
「Ice prison?」
「正解じゃ、外人さん。あんたに残った道はただ一つ、前に進むだけじゃ。そしたら、わしが氷の矢で向かい入れてやるわい」
老人が高々と笑う。
上下左右、逃げ道は何処にもオータムに用意されていなかった。
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しきりに後ろを振り返りながら小夜子は逃げ続けた。
だが、いくら走ろうとも、後ろから追ってくる男との距離は変らない。
石が引き詰められた線路の上、隠れられる場所なんて何処にもない開かれた場所。
小夜子は必死に逃げ続けた。
自分の記憶を信じて、逃げ続ける。
「っけ。分かってるだろう。逃げるなんて無駄だ。さっさと戦おうや」
後ろから迫り来る男の手には、いつの間にか、かぎ爪のような長い爪があった。
腕を垂らして歩くと爪が地面に真っ直ぐに引かれたレールを引っ掻き、火花を散らしながら、頭に響く嫌な音が響き渡る。
「っけ。俺は本当に貧乏くじだったようだな。もっと骨のある魔術師かと思ったんだが」
男が爪を擦りあわせた。すると、炎が瞬く間に爪全体に広がる。
まるで、紅が持つあの刀のように劫火のごとく燃え上がっている。
「終わりにしようや」
男が消えた。
そう錯覚した次の瞬間、男は小夜子の前に立っていた。
劫火を宿した爪が小夜子の命を削り取らんと振り下ろされてくる。
「きゃあああああ!!」
その爪を避けることが出来たのは、ひとえに小夜子の生存本能のおかげだろう。
頭を抱きかかえ、尻餅をつくように地面へとしゃがみ込んだため、劫火の爪が空を切ったのだ。
どんなに惨めな格好であろうとも、小夜子は逃げるのを止めない。
手と足を使って少しでも後ろへと下がり続ける。
小石が掌に食い込んでくるが、そんな痛み、死を前にした恐怖の前では無きにも均しい。
「っけ。本当に往生際の悪い奴だ。そんな惨めな姿で死にたいのか」
劫火の爪が紅い月を背景にして振り上げられる。
「私は死にたくない」
首を横に振りながらも、恐怖で体が震えながらも、目に涙を溜めながらも、それでも小夜子は逃げるのをやめはしなかった。
「じゃあ、戦えよ」
燃えさかる爪が小夜子へと振り下ろされてきた。
逃げれないと分かっていながらも、小夜子は少しでも後方へと下がるのを止めなかった。
距離にして、わずか数センチだが、その距離が小夜子を生き長らえさせた。
「え?」
「っち」
劫火の爪を受け止めるは、氷結の斧であった。
振り下ろされる劫火の爪を受け止めている氷結の斧があるのは、刹那前まで小夜子の首があった場所である。
あの氷結の斧は、小夜子の首を狙っていたが、小夜子が位置を変えたため、結果として
劫火の炎を受け止めることになったのだ。
「っけ。どういうつもりだ、斧。まさか、この魔術師を助けるなんて言い出すんじゃないだろうな!!」
「違います。今のは、ただの偶然です。ですが、その魔術師は私に殺させてください。そうでもしないと、私は鞭に殺されてしまう」
「っけ。そんなことは俺の知ったことじゃねえ。てめえの不始末だろう。俺の獲物を横取りするんじゃねえ!!」
「お願いします。このままだと、私は本当に・・・・・・。お願いします。私をどうか助けてください」
これまで血色の真紅石が人間相手に繰り返してきた虐殺。
その非道という言葉さえ生ぬるい行為が自分に及ぶと思うと、もはや意地やプライドなんて無くなってしまう。
惨めに土下座を繰り返し、必死の懇願を続ける警官。
しかし、爪を持つ男は他人のために自分を犠牲にする男ではなかった。
「っけ。やなこった。魔術師は他にもいた、糸か弓をあたればいいだろう。さっさと消えろ。これ以上俺の楽しみを邪魔すると鞭の変わりに俺がお前を殺してやるぞ」
額を地面に擦りつけている警官の頭に唾を吐きかけ、男は警官の横を通り抜けた。
視線を小夜子に映すと彼女はまだ逃げることを諦めていなかった。
尻を地面に付けた状態で少しずつだが後ろに下がっている。
警官も警官だが、小夜子も負けて劣らない程に惨めな姿だった。
「こんなにお願いしてるのに、どうして聞いてくれないんですか!!」
顔中に張り付いた小石を払いのけ、一生分の屈辱を怒りに変え、自分を見捨てた男へと斬りかかった。
氷結の斧が美しい軌跡を描く中、劫火が肉をくり抜く音が響き渡った。
「え?」
「っけ。うぜえんだよ、お前。どうせ死ぬしか道が残ってないんだろう。なら、さっさと死ねよ、この死に損ないが」
警官が理解出来ないという顔で、真っ赤な爪が突き刺さった自分の腹を見つめる。
陸に上がった魚のように何かを言おうと口を何度も開くが、何も言葉が出てこない。
気がついた時には体中から力が抜けていた。
折れた氷柱が地面に落ちた様な音が、自分が一心同体である斧を落としたためだと知ったとき、警官は眼前にもう一個の爪を見た。
目を閉じる時間もなく、真っ赤な爪が警官の眼球から脳髄を一直線に突き刺した。
何度か断末魔のように痙攣を繰り返した警官の体が遂に動かなくなった。
「っけ。手間取らせやがって。まあ良い、次はお前だ」
燃え上がる炎の爪を無用となった仲間から引き抜かれ、再び小夜子に狙いが定められた。




