覚書/教養小説の「天使」と「悪魔」
ミステリやホラーといったジャンルの物語は、基本、短編または中編で、せいぜい原稿用紙4百枚相当の作品で、完成された人格をもった探偵役・エクソシスト役が、問題の謎解きすることによって、容疑者たち周囲の人々の呪縛を解いてやる「解除」の物語である。
これに対して教養小説は、主人公を成長させたり、逆には堕落させたりする、「天使」「悪魔」的な登場人物が、主人公の人生の節目に現れ、階段ステップのように、ドンと上に押し上げたり、逆に奈落へ突き落したりする大長編・大河ドラマだ。
私が現在読んでいる『ジャン・クリストフ』の場合はどうだろう。
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まずは主要な「天使」についてだ。
第一の天使ゴット・フリート伯父(あるいは叔父)さん。少年時代の主人公がドイツで過ごしたとき、無学ながら芸術の本質を見極め、主人公を刮目させる。
第二の天使シドニー。ブルターニュ地方・田舎出のメイドながら貴婦人の風格がある。故郷で問題を起こし、仏・パリに亡命した主人公の大衆蔑視を猛省させる。
第三の天使アントワネット、オリビエの姉弟。アントワネットは主人公というよりも弟である自殺願望者の弱々しい詩人オリビエに、「生きる」という意味で、絶大な影響を与えた。オリビエは、サイコパス的な主人公に、人の情というものを教える。逆にオリビエは、主人公に「生きる」強さを学ぶ。別のアングルから見ると、主人公とオリビエは「相棒」だったと言える。詩人の姉アントワネットは第六巻主人公として扱われている。
第四の天使アルノー夫人。オリビエ亡き後、天才サイコパスな主人公を人格者へ仕上げる最後の恋人。この人によって主人公は、万人を愛する芸術家、万人のための芸術に昇華する。
第五の天使・伯爵夫人グラチア。「マドンナ」にて後述。
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つぎに主要な「悪魔」についてだ。
第一の「悪魔」次弟ロドルフと末弟ジャン。主人公が積み上げていこうとするキャリアや人脈を妨害する引っ掻き回し役
第二の「悪魔」オイラー(オルレル、またはオラーゲルとも邦訳される)。主人公と母親ルイーザの下宿先大家さん。将来有望な主人公を娘婿にしようと画策し、面食いな主人公が他の娘に木のある素振りをすると邪魔をするトリックスター。
第三の「悪魔」ドイツの新聞社。ユダヤ御曹司フランツ・マンハイム及び左翼系新聞記者テオフィル・グージャール。主人公に甘言して近寄り、名声を上げさせもするが、結果的に破滅させるように仕向けるトリックスター。結果、主人公は、母を故郷・独に残し、仏・パリへ亡命する羽目になる。
第四の「悪魔」フランス・パリの新聞社。左翼(労働)団体。主人公の名声を利用し、主人公の名声を上げさせもするが、結果的に破滅させるように仕向けるトリックスター。結果主人公は、親友である詩人の葬儀にも出られず、スイスに亡命する羽目になる。
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ついでに「マドンナ」たちについてだ。
彼女らは主人公である音楽家ジャン・クリストフ、相棒の詩人オリビエの人生を彩る恋人「マドンナ」たちだ。
第一のマドンナ、ザビーネ。独人・隣人。アンニュイな未亡人・年上女性。死別。
第二のマドンナ、アーダ。独人・隣人。小悪魔。末弟に寝取られる。主人公を女性不信にさせる。
第三のマドンナ、ミンナ。独人・教え子・伯爵令嬢。ツンデレ。親の反対で別れる。
第四のマドンナ、コリーヌ。ユダヤ系仏人・教え子・ユダヤ富豪令嬢。目的のない女。主人公は女のいやらしさを見て女性不信になる。主人公の親友オリビエにもチョッカイをだす。
第五のマドンナ、ジャックリーヌ。仏人・主人公の教え子・上級国民令嬢。詩人オリビエの妻。勘違いの恋から夫妻の仲は冷え、息子を生むが、その子を産んで間もなく、俗物情夫のもとへ出奔。夫の死後、反省して、子供を預かっているピアニスト・セシルの許を訪れ、返してもらう。
第六のマドンナ、仏人・女優フランソワーズ。物語構成上詩人の妻ジャックリーヌの対をなす主人公音楽家のい恋人。互いに尊敬し合うのだが、生き方が違うので大人のお別れをする。
第七のマドンナ、スイス人アマンダ。暴動で憲兵殺しをしてしまった主人公が、スイス逃亡中に匿ってくれた国境近くの町の医師夫人。心に闇があり、暴動の際、親友を官憲に殺された喪失感の中にある主人公に共鳴。夫の拳銃で心中を図るも、錆びていて失敗。直後、容態が悪化。主人公は逃げるように同家を立ち去る。
第八のマドンナ、伊人・元女優・オーストリア外交官伯爵の夫人グラチア。第三巻から登場するが、主人公と恋仲になるのは、夫の死後、最終章である第十巻からだ。無教養だが機転が利き、また慈悲深い。しかもお洒落。結局、子供二人のうちの息子の反対もあり、恋は実らず死別する。窮地の主人公を助けたり、とるべき指針を示したり、最も強い影響を与える。
ノート20210821
覚書/教養小説の中の「天使」と「悪魔」