リサーの受難
☆
日がたつつれに、景子も落ち着いていった。
アディマは、あの話を蒸し返すこともなく、リサーに至っては口に出したくもないようで。
あれは、夢か聞き違いだったんじゃ。
景子の逃避は──着々と進んでいた。
そんな、ある日。
峠を越えると、視界がいきなり開けた。
一面の穀倉地帯が、景子の眼下に広がっていたのだ。
素晴らしい平野の眺め。
実りが近いらしく、畑は色づき始めていた。
あ。
景子は、ふと南側を見た。
行きに菊と二人で通ったルートは、そっちの方だったのだ。
あの畑は、どうなっただろうか。
連作障害の出ていた、穀物畑だ。
無事、実りは増えているだろうか。
冬のない地域だから、刈り終えたらまたそう遠くなく、次の穀物を植えるに違いない。
「なに? あの村に寄りたいの?」
菊が、遠くを見るように伸びをする。
彼女も、忘れてはいなかったようだ。
「南の方、だよね……多分」
南に抜けて、そしてもう少し西に向かえば、またたどりつけるはず。
だが、あいまいな記憶でもあった。
「そうだね……確か。じゃあ、行こうか」
何と気楽に。
菊は、南へと顎を向けるのだ。
「あ、いや……そんないきなり」
今度は、二人旅ではないのだ。
進路を決定する権利など、景子にはない。
「何も、ずっと一緒に旅をしなくてもいいんじゃない? どこかで合流できればいいし、最悪、梅のところで会えるんじゃないかな」
菊は、とても身軽な発想をする。
梅が残る時も、リサーに追い出された時も。
人の出会いと別れは、あるがままに任せればよいと思っている気がする。
「ケーコ?」
後方の騒動に、アディマが足を止めて振り返る。
あああ。
ど、どう、説明しよう。
しがらみだらけの景子は、覚悟も決め切れずあたふたとするだけだった。
※
ああああ。
景子が、ルート変更の説明を、しどろもどろにアディマにしている間。
リサーの眉間の皺が、どんどん深くなっていくのが分かったのだ。
「ああ、でも……わ、私と菊さんだけで行くから」
だが、そう付け足した瞬間のリサーの顔は、まるで陽が差したように明るく晴れやかに変わる。
彼が、二人の離脱をとても喜んでいることだけは、はっきりと伝わってきた。
よほど、景子たちが邪魔らしい。
だが。
「どうせ急ぐ旅ではないから……僕らも、そちらのルートをゆこう」
アディマが、そんなことを言ったがために。
「「……!!」」
また、リサーと景子の息が合うこととなったのだ。
「いけません、我が君。この街道でないと、次の領主のところへゆくのに遠回りになってしまいます」
そして、彼の忠実なる従者は、もっともな意見を情熱的にぶつけるのである。
コクコクと、景子も頷いた。
これは、あくまでも彼女のワガママの範疇の話なのだ。
どうしてそれに、アディマを巻き込めようか。
「何? 若さんも行くって?」
二人の様子で、菊にまで会話が筒抜けたようだ。
彼女は、とても面白そうに目を細める。
い、いや、面白くないから。
「リサードリエック……時間は、余るほどにあるよ」
「安全は、余るほどにございません!」
主君の言葉に、それでもリサーは食い下がる。
ふむ、と。
アディマは、ここを強硬に通す気配はないようで、しばらく考え込んだ。
景子は、それにほっとしかけた。
菊と二人で行かせてもらう方が、よほど気楽だった。
それか、行くことをあきらめるか。
話の流れは、前者に傾きかけたように見えた。
なのに。
「では、リサードリエック……お前が、この二人と同行してもらおうか」
アディマの結論は──遥か高みにぶっとんだのだ。
「「……!!」」
そして、リサーと景子の目を飛び出させたのだった。
※
「我が君! な、なんという!」
リサーは、これほどの屈辱はないというほどに、目の縁を真っ赤にしていた。
「勝手に行きたいと言っているのです、二人の勝手にさせればよいでしょう!」
まったくもって、おっしゃる通りでございます。
景子は、いまのリサーには、1ミクロンも逆らう気などなかった。
アディマの従者として、彼には誇りがあるのだ。
それなのに、目の敵にしている景子に同行しろなど。
彼は、随分無茶を言っている気がした。
「リサードリエック……」
アディマは目を閉じて、穏やかな声でその名を呼ぶ。
「お前は、ケーコの話を聞いてたかい?」
開いた瞳は、艶やかなカラメル色の金。
深い迫力さえ含むその色が、リサーに向けられている。
「き……聞いていました」
答える声を聞きながら、景子も一緒に首をひねっていた。
一体、彼女の話とリサーに、何の関係があるというのか。
「ケーコは、自分のしたことで穀物の収穫が上がったかどうか、様子を見に行きたいと言った……これの意味することを、お前ともあろうものが分からないのか?」
瞬間、従者は硬直した。
何か、強い衝撃を受けたかのように。
「この穀倉地帯は、この国でも有数の食料を生み出す地域だ。だが……年々、収穫は落ちている」
作付面積は変わらないというのに、だ。
アディマの、憂う声。
ああ、そうか。
景子たちにとって、食料とは単なる食料に過ぎない。
だが、国を治める者にとっては、食料は食料であり、税であり、そして民を満足させるためのものでもあるのだ。
食料の生産が減れば、税は下がり国庫は枯れ、民の不満も上がる。
「わ、分かりました……」
喉から搾り出すように、リサーは答えた。
彼は、いつか政治に参加することになるのだろう。
だからこそ、アディマは彼に同行しろというのだ。
景子が何をしたか、その目で知るために。
「デジュールボワンス卿の屋敷で、到着を待っている」
優しいアディマの声が、優しさだけで出来ているのではないと──分かった。




