ふすまの戸
☆
あああああ。
今日は、もう旅立たなければならないというのに、景子の足は鉛のようだった。
さくさく旅支度を整える菊の横で、ナメクジのように彼女はのろのろとした動きしかできないのだ。
菊に、彼女の年齢的な不安は、よく分からないのだろう。
景子は、10代の自分を覚えている。
しかし、菊は30代の自分をまだ知らないのだ。
当人の実感としてのこの年は、かなりヘビーなのに。
そんな風に、ぐずぐずとしていたら、ノッカーが鳴る。
びくっとしたが、扉を開けたのはシャンデルだった。
「まだ、準備が終わっていないの?」
そして、景子のナメクジっぷりに鋭い一言。
「あっ、す、すぐ終わります!」
わたわたと。
彼女は、荷物を布にしまった。
「……」
そんな景子を、シャンデルは黙って見ている。
彼女の様子は、いつもと変わりはない。
昨日のアディマの爆弾発言を、リサーは誰にも言わなかったようだ。
い、言えるワケないよね。
冷や汗を流しながら部屋を出た景子は、そしてそのリサーと、次に出くわしたのである。
げっそりと。
一晩で、どうしたらそこまでやつれることが出来るのか。
リサーは、すっかり頬がこけていた。
だが、その目が景子を視認するや、敵意に似た光を放つではないか。
ひぃっと飛びのいた景子は、後ろにいた菊に思い切りぶつかる羽目となる。
「やぁ、リサー……おはよう。いい朝だな」
そんな彼女を支えながら、菊が信じられないほどさわやかな声で挨拶を投げる。
この国の言葉で、これほど長い挨拶を彼に向けたことなど、これまで一度もないというのに。
更に、笑顔さえ浮かべているのだ。
分かっていて、わざと言っているのだけは間違いなかった。
忠実なる従者のこめかみが、ぴくぴくと痙攣するのが見える。
あ、あああああああ。
青ざめながら、景子は右往左往するしか出来なかった。
※
「リサードリエック……」
あの、意思のある声が、忠実なる従者の名を呼んだ。
はっと、景子が振り返ると──アディマとダイが、こちらに向かっているのが見える。
慌てて、女たちは脇へとよけた。
「準備は整われましたか、我が君」
リサーは、目を伏せている。
アディマの目を見ると、何か咎められるとでも思っているのか。
と、人の心配をしている場合ではなかった。
景子は廊下の脇で、ガクブルの続きをするしかないのだ。
無意識に、菊にしがみついている自分に気づかないまま。
「ああ、いつでも出発できるよ」
リサーの名を呼びながらも、彼は特別用事のある言葉は投げなかった。
そして。
女性たちの方へと、彼は視線を向けるのだ。
「おはよう……今日もいい朝だね」
その言葉に、シャンデルは深々と腰をかがめる。
景子も、そうしようと思ったのだが、足がうまく動かせない。
菊にならって、頭を下げるので精いっぱいだった。
そんな彼女に、アディマは優しく微笑んでくれるのだ。
ああああ、そんな目で見ないでぇ!
自分の、女としての無能さとか至らなさとかを隠している、押入れのふすまを開け放たれてしまう気がしたのだ。
隠しているものが、そこから雪崩のように滑り落ちてゆくというのに。
一生懸命、ふすまの戸を抑えながら、景子は赤くなったり青くなったり忙しかった。
「じゃあ、行こうか」
そう言って、アディマは男二人を従えて歩き始める。
シャンデルが続く。
「大丈夫? 景子さん」
しがみついたままの彼女に、菊が一声かけてきた。
「う、うん」
ようやく手を離し、景子は深呼吸した。
どうしたらいいのか分からないままでも──また旅は続いてゆくのだ。




