草津の湯
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ノッカーが鳴って、菊は目を開けた。
床に座り、呼吸を整えていたので、立ち上がりながら「どうぞ」と客を招き入れる。
客は、御曹司だった。
その横では、景子が彼に支えられ、ぐったりしていた。
「景子さん?」
菊は、足早に彼女に近づく。
「き……菊さん……」
全身真っ赤で、目まで潤んでいるし、呼吸も速い。
風邪か、原因不明の発熱でも起きたのかと、御曹司から彼女を受け取ろうとした。
それを、彼は大丈夫と制する。
そのまま、景子を支えてベッドまで連れて行って下さるのだ。
大丈夫なのか?
心配している様子のない彼に、菊は首を傾げた。
景子びいきの御曹司だ。
彼女の具合が悪いなら、誰よりも心配してもおかしくないはずなのに。
「ア……アディマ……あの……」
ベッドに座らされながら、景子が彼に何かを言おうと顔を上げた。
それを、ゆっくりと制す手。
人の心を、あの手は知っている。
どんな言葉よりも、雄弁な御曹司の手のひら。
言わなくていいよ。
リサーを制する時とは違う、優しい動きだ。
菊が見ていて、恥ずかしくなるほどのまなざしを景子に向けている。
少なくとも、この二人の間にいる自分が、限りなく野暮に感じたのだ。
あー……そういうことですか。
景子のあの症状は、風邪をひいたわけではない、と。
いまの二人の雰囲気が、それを十分自分に教えてくれるのだ。
風情のある言い方をするならば。
草津の湯でも治せないアレ、なのだろう。
「失礼するよ……おやすみ」
菊にも分かる程度の言葉で、御曹司は彼女に一言投げる。
そんな男に、彼女は苦笑混じりの視線しか返せなかった。
※
どう、笑えばよかったのだろう。
景子のたどたどしくも、怪しい日本語の説明で、菊はこみあげるものをこらえるので必死だった。
二人きりでいることに、小姑リサーが小言を言いに来たら、返り討ちどころか木っ端微塵とか──おかしすぎて、胃が裏返りそうだったのである。
やるなぁ、若さん。
菊は、彼の甲斐性っぷりに感心さえ覚えたほどだ。
だが、爆風に巻き込まれた景子ときたら、オロオロでボロボロでヨレヨレだった。
テンションが、さっきから天井から奈落まで行ったりきたりしている。
「とりあえず……景子さん、今日は寝ない?」
呼吸が、とても疲れているのが分かった。
これでは、本当に知恵熱でも出しそうだ。
「でも……だって……」
興奮しているせいか、本人はまったく気づいていない。
「さっきの若さんの様子からすれば、答えを急いでいるわけじゃないさ。大体、都とやらに帰り着くまで、1年以上はあるんだろ?」
ベッドに腰掛ける景子の、肩を叩いてなだめた。
その肩が、パンパンに張っているのが触れるだけで分かる。
相当、力を入れ続けていたのだろう。
「こういうことは……急いでもいいことはないよ」
言いながらも、御曹司の方が少し求婚を、急いだようにも思えていた。
ただし、答えは急いでいないという矛盾を含んでいる。
景子が、これから選択するもののひとつとして、明確に刻んでおきたかった──そういうことだろうか。
彼女らは、この国の人間ではない。
だから、本当の意味で、景子を縛るものなどないのだ。
どこへ行こうが、誰を好きになろうが自由。
その自由選択のひとつを、自分にしておかずにはいられなかったのか。
項目として用意しておかなければ、景子はそんなとんでもないことに手を出す冒険心など、ないだろうから。
将来、王様かそれに似たものになるとかいう男との結婚を、選択候補に入れる厚かましさなど、菊や梅にだってない。
とりあえずは。
興奮したままの景子を、休ませなければならない。
梅を寝かしつけるより──ちょっと時間がかかった。




