山本家の娘
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アルテンのことは、多少は見直した。
梅は、自室でため息をつく。
しかし、二人きりになる気はない。
「ウメ……私の話を聞いてくれないか?」
ノッカーと扉ごしに、そう語りかけられる。
夜に、突然彼女の部屋へとやってきたのだ。
「今日は疲れました……また明日にして下さいませ」
初日の夜であれば、無碍には出来ないと思ったのだろうか。
アルテンは、明日の夜までこの屋敷に居座るのだから。
しかし、きっぱりと梅は拒絶した。
扉を開けるほど、彼女は相手に心を開いてはいない。
「……ほんの少しの時間でいいんだ」
殊勝な声音になるが、梅は心をまっすぐにした。
まるで、七匹の子ヤギだ。
『おかあさんだよ、開けておくれ』
扉を開けると、よからぬことが待っている。
たとえ白い手を差し伸べられたとしても、だ。
「貴方も紳士であられるのなら……部屋にお戻り下さい」
鋼鉄の扉に変えた梅は、穏やかにアルテンをまわれ右させようとした。
「そ、そうだ……君は、うちの使用人の女をえらくお気に入りだったよね……君が欲しいというのなら、あれを君にあげよう」
言葉でダメなら、懐柔か。
彼は、今度はエンチェルクという褐色の肌の娘を、梅の目の前に吊り下げる。
ああ。
梅は、理解した。
アルテンは、人の好意が何に集まるのか、それを知らないのだ。
後継ぎで、ちやほやされて育ったせいだろう。
誰も彼には逆らえず、多くが彼に媚びる。
そんな環境で育てば、こうなってもおかしくないのかもしれない。
「あなたは……」
梅は、扉のところに近づきながら、声をかけた。
向こう側がそれに気づいて、気配を跳ねさせたことが分かる。
しかし、彼女は扉を開けたりはしなかった。
こちら側で、その扉を見ながら、こう言ったのだ。
「あなたは……武者修行に出られた方が、よろしいようですわね」
※
扉が、開いた。
乱暴な一撃だった。
何の障害物もなくなった、ほんの少しの距離のところで、アルテンは目の周りを真っ赤にして梅を睨んでいる。
「この、次期テイタッドレック卿となるべき私が、武者修行だと!」
野にまみれろ、というのか!
片手を大きく横に広げ、彼は全身で怒りを露わにする。
梅は、それを静かに見ていた。
「貴方はもっと……人をお知りになるべきです」
最終的に怒り散らせば、彼は全てを手に入れられたのか。
たった一人の跡取り息子──そんな肩書が、アルテンをこんな男にしてしまったのだ。
「うるさい、うるさい! 何の身分もない、どこの馬の骨とも知れぬお前に、こんなに目をかけてやっているのに、何だその態度は!」
横に広げられた手が、梅にまっすぐに伸ばされる。
彼女はそれが、スローモーションのように見えた。
すっと、横に身をかわす。
アルテンは、勢い余ってよろめいた。
振り返る彼の胸を、人差し指でまっすぐに突く。
「うっ」
一瞬、長身のアルテンは動きを止めた。
指先に、気を強く込めたせいだ。
山本家の娘である。
たとえ身体は弱くとも、護身術は身につけていた。
「ここから先は、屋敷の中の御両親ではなく……世界に育てられていらっしゃいませな」
梅の脳裏に、『彼』がよぎった。
菊と景子を連れて行った、小さい者。
最初から、ああだったわけではあるまい。
『彼』もまた、世界に育てられているのだ。
「行き先に迷うようなら……捧櫛の神殿にでも詣でてみられたらいかがですか……あの御方のように」
指を、離した。
アルテンは、突然酸素が戻ったように、ぜいぜいと呼吸を繰り返す。
「……!」
そして。
怒りを消しきれないまま、走り去ったのだ。
走って帰れるだけ、元気で良いことだわ。
その場にへたりこみ、今度は逆に梅がぜいぜいと息を乱す番だった。
久しぶりに、武道の呼吸を使ったせいだ。
ああ。
疲れた。




