差し入れ
△
笛を、もらった。
菊の演奏を気に入った、老領主からの褒美だ。
景子も興奮した顔で、こっちを見ている。
面白かったのは、あのリサーか。
菊のことを、ただ野蛮な女とでも思っていたのだろう。
面白いほど、ポカンとしているのだ。
彼女は笛を腰に差し、一礼して晩餐の席へと戻った。
「どこの国の人かって……聞かれてるんだけど」
孫娘は、菊より少し年下くらいか。
その子からの質問を、景子が通訳してくれる。
菊は、まっすぐにその娘に顔を向けた。
「日本」
その国の名を、彼女ははっきりと日本語の発音で答える。
隠すつもりはなかった。
ここが、自分らの知る世界の一部でなかったとしても、彼女の生まれ育った国は変わらないのだから。
リサーと御曹司の視線も、菊に向けられた。
そう言えば、彼らにも国の名前は言ったことがなかった。
前に一緒に旅をしていた時は、今よりももっと言葉が不自由だったのだ。
再会した後には、今更そんなことを聞く気にもならなかったのだろう。
御曹司が、景子に問いかける。
彼女は、とても困った顔をしていた。
日本について、聞かれでもしているのか。
焦って、言葉がうまく出ていないようだ。
老人や孫娘まで、それに参戦してきたため、景子の容量は飽和状態になっていた。
言葉が半分も分からない菊は、逆に気楽で。
ただ。
孫娘が、非常に深い思いを込めて彼女を見つめてくる。
髪の編み方も、聞かれたと景子が言っていた。
やや、軽薄な視線を──菊は受け流す。
微かに、いやな予感が背筋を走ったのだった。
※
菊は、酒瓶と杯を手に、廊下を歩いていた。
杯は、この屋敷で借りたもの。
酒は──髪結いの礼と言って、町の娘にもらったものだ。
酒屋の娘であった彼女とその母に、編み方を伝授してきた。
これ以上、ブリ照りの修業は必要ないと思った菊は、人に教えることによって、修業を回避しようと思ったのだ。
こういう美しさに関する技を、女性は覚えるのが早い。
すぐに、母親は編み方をマスターし、娘も編めるようになったようだ。
そのお礼が、この酒だったのだ。
菊は、ダイを探していた。
景子が聞いた話によれば、ここにいる間、彼は御曹司の部屋の前で番をしなくていいらしい。
梅を置いてもらった領主の屋敷で番をしていたのは、ほんの直前に襲われたための用心だったのだろう。
旅の間は、決して酒を飲まないダイだが、今日くらいは息抜きをしてもいいと思ったのだ。
「コホン……」
そんな彼女の耳に、高い咳払いが聞こえる。
振り返ると、廊下には使用人を従えた孫娘がいた。
ああ、通るのか。
菊は、すっと廊下の脇に寄って止まる。
しかし。
孫娘は、廊下を通り過ぎるではなく──菊の前で足を止めたのだ。
「───」
高く早口で、何かを彼女に告げる。
とりあえず、上から目線の言葉なのだけは分かった。
さっきの笛の音でも、褒めて下さっているのだろうか。
菊は、首を傾げて見せる。
あなたの早口は、私にはわかりませんよ。
そういう意図を込めたのだが、孫娘は癇癪を起したように顔を真っ赤にして、更に早口になるのだ。
参ったなあ。
ただ、孫娘の騒々しさは幸いにも、とある扉を開ける手伝いをしてくれた。
奥の扉が開き、ダイがちらりと顔を覗かせたのだ。
何事かと。
ああ、そこか。
菊は、軽くダイに酒瓶を掲げる。
だがそれは──孫娘の癇癪を、更にひどくさせてしまったのだった。
※
「はー、参った」
菊は、ダイの部屋に逃げ込めた。
娘の癇癪を聞きつけた、母親の登場で解放されたのだ。
母にたしなめられ、彼女はようやくにして口を閉じ、しかし目には癇癪をためこんだまま、だっと駆け去ったのである。
「はいよ」
応対に困っているダイに、菊は酒瓶を差し出した。
この世界には、そう楽しみは多くない。
きっとダイも、酒を嫌いではないだろうと思っていた。
瓶に焦点を合わせるように、少し寄り目になった後、ダイは肩を上下させて息を吐く。
そして、ようやく瓶を受け取ったのだ。
客間というよりは、使用人の部屋の一室のようだった。
身体がおさまるのかと、心配するようなベッドと、古びた机と椅子が1セット。
私も、こっちの部屋の方が落ち着きそうだ。
菊は部屋を見ながら、そう思った。
ああ、と。
思い出して、手に持っていた杯を彼に渡す。
ダイはそれを受け取ると、手酌で酒をそれに注いだ。
そして。
杯を、菊へと差し出すのだ。
おっと。
意外な展開だった。
杯は、一つしかない。
それを、菊がもらってしまうと、ダイは飲めないではないか。
だが、まったくの杞憂であることは、すぐに分かった。
ダイは、杯を差し出したまま、瓶ごと彼は口をつけたのだ。
なーるほど。
ダイに、杯など不要なようである。
その様がおかしくなって、菊は杯を受け取ってしまった。
晩餐にも果実酒が出ていたが、それには手をつけていない。
酒は、感覚を狂わせる──かもしれないと、自重していたのだ。
椅子を借りて腰かけると、菊は一口、杯に口をつけた。
酸味の強い辛さが、口の中にぱっと広がる。
うまいのか……これは?
顔を微かに顰めた菊を見て。
ダイが、笑った。




