欄干の上
☆
セルディオウルブ卿の晩餐では、美しい竪琴の音色が披露された。
年配の使用人の二人が、それぞれの手に竪琴を持ち、穏やかに奏でている。
太陽の差す草原を想起させるような、広々とした音楽。
ブロズロッズの宴の音楽とは、また違うそれに、景子は食事もそっちのけで聞きほれていた。
食事時に音楽が流れる──それが、ここではとても贅沢なことなのだと分かった。
「曲が気になるかの?」
気になるなら止めさせるが。
卿にそう言われて、恵子は慌てて否定した。
「い、いえ……とても綺麗な音色で……聞かずにはいられなくて」
慌てて、食事に戻る。
それでも、ふとしたはずみに耳を奪われそうになった。
「梅も……今頃何か弾いているかもしれないな」
隣の菊が、ぽつりと呟く。
ああ、そうかも。
景子も、簡単にその姿が想像できた。
多才な彼女なら、既にこちらの楽器も何かマスターしてそうだ。
「菊さんは、何か楽器できるの?」
剣術に、髪の編み込みという、不思議な組み合わせの技を持つ菊である。
叩けば、もっと何か出てくるかと思った。
「篠笛くらいかな……吹けるのは」
そして、やっぱり出てくるのだ。
逆さにして、叩いて振り回しても何も出てこない景子とは、大違いである。
「篠笛って……こういうの?」
景子は、ゼスチャーで横笛を吹く真似をしてみせた。
そう、と菊が頷く。
確か、ブロズロッズの宴では横笛もあったような。
景子の頭に、ふとそんな記憶がよぎった。
「横笛って……あります?」
日本語をやめて、景子は卿に聞いてみる。
「あるが……笛のたしなみがあるのかね?」
興味深そうな翁。
「あ、私ではなく……菊さんが」
景子が手で隣を示すと、菊は怪訝そうに片目を閉じた。
言葉がよく分からない彼女は、そこでようやく景子が何を言っているのか理解したのだろう。
「景子さん……」
制する声を、聞こえないふりをする。
だって。
聞いてみたいじゃない。
※
菊は、運ばれた笛を受け取ると──晩餐の席を立った。
「音を見てくる」
そう言い残して。
「どうしたのかね……彼女は」
「この国の笛に触れるのは初めてなので、試してくると」
セルディオウルブ卿の問いに、景子は答えた。
「恥をかかなければよいが」
ぼそっと。
リサーが呟く。
いたたたたた。
聞こえてしまった景子は、その言葉のつぶてを避けるように、アディマの方を見た。
彼は、機嫌良く微笑み返してくれる。
髪も、ほめてくれたのだ。
菊の手柄であることを、また説明しなければならなかったのだが。
編み込み、覚えよっかな。
景子は、本気でそう思い始めていた。
自分で出来れば、これから恥ずかしい思いをしなくなる。
菊という先生もいるし、幸い、この屋敷には二泊することになるのだ。
卿の孫娘も、景子の髪に興味を持ったようで、使用人を通じて髪のことを聞きに来たほど。
編み込みという技は、この世界では発展していないのか。
そんな風に、髪のことを考えていたら。
菊が、戻ってきた。
驚いたのは、彼女が袴姿になっていたこと。
荷物から出して、着替えてきたのだろう。
皆が。
皆が、見つめずにはいられない、その東洋の娘に──竪琴の音色さえも、止まった。
笛を唇の下にあて。
菊は、一音を吹き流した。
音色が、掠れる。
高い音を泣かせるべく、それに息を震えるように混ぜるのだ。
嗚呼。
景子の中の、魂が揺さぶられる。
五条大橋の、欄干の上に立つ彼女の姿を思い浮かべてしまうほど。
武蔵坊弁慶は、何処にもいなかったけれども。




