子供
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「あの……馬鹿」
山本菊は、口の中でそう呟いていた。
自分の双子の相方が、ついさっき大声を上げたのだ。
おそらく、今頃ぶっ倒れている事だろう。
しかし、いまはとりあえず前に進む。
彼女は一人ではなく、行きずりの花屋の女性が一緒なのだ。
それに、梅も自分がどうなるか分かっていて叫んだのである。
覚悟が出来ているなら、いい。
菊は、袴の紐に定兼を鞘ごと差した。
山本家の家宝だ。
一度だけ、抜いたことはある。
だが、それを本当に使ったことはない。
ここが。
ここが、本当は黄泉路ではないことくらい、菊は気づいていた。
しかし、理論だてて説明すべき言葉はないのだ。
それならば、あえて黄泉路ということにしておくというのならば、菊はこの定兼を抜くことが出来る。
守るため、と称して。
怒りの気配と声が、進むごとにつぶてのように菊の頬を打つ。
殺気の塊だ。
さっき、梅は『前はだめ』と言った。
どうしてそれに気づいたのかは、菊には分からない。
しかし、梅が自分の体力の限り叫んだのだ。
信じないわけにはいかない。
菊は、正面から向かってくる最初の小集団を、足を止めてじっと待った。
いい気だ。
力強さや美しさ、そして良い意味で知らない気が混じっていたのだ。
確かに、手を出したくない相手のようだ。
そして、おそらく。
その中に、手練れがいるのが分かった。
いま逃げているのは、一人で後ろを相手に出来ないと思ったのか。
いや。
相手にくらい出来るだろう。
それならば。
すぐ側に、守らなければならないものでも、いるということか。
※
「逃げるにしては……馬鹿な道を選んだものだな」
菊は、定兼に片手をかけたまま、静かに声をかけた。
向こうは、足を止めない。
「こんな草原では、身を隠せないだろうに」
ほんの目前まで来て、彼らは足を止めた。
「────!」
男が一人、大声で何かを叫ぶ。
そこにきて初めて、菊は相手と言葉が通じないことに気づく。
後ろの集団の声も、意味不明な音ばかりだ。
気配を追うことで一生懸命で、そんな当たり前の情報さえ、菊は拾っていなかったのである。
まあ。
菊にとって言葉など、どうでもいいことだ。
相手に手練れがいるのならば、菊の腕前くらい読み取るに違いない。
そういう生き方を、これまで彼女はしてきた。
子供の頃から。
男の一人が、剣を抜こうとした。
それを、もう一人が手で制する。
全部で、たったの四人。
男が二人。
いまにも倒れそうな女が一人。
そして。
「────」
子供が一人、菊の前に進み出る。
男らが止めようとする手を、その子は逆に手で制すのだ。
語りかける声は、子供のものにしては非常に落ち着いていて。
言葉こそ分からないが、相手が自分に何かを説明しようとしているのは伝わってくる。
見知らぬ菊に向かって。
随分と、大きい器に見えた。
意味も分からないまま、菊は軽く頷く。
そして。
彼女が、より手練れと認識した、図体のでかい男を見た。
顎で軽く、彼らの後ろの集団を指す。
もう、そう距離はない。
「そっちのお嬢さんはもう、そう長くは走れないだろう……良かったら加勢するが?」
言葉が通じないことなんか、本当にどうでもよかった。
そして、ついでに自分の後方にも意識をやる。
菊の連れもいるのだと、軽く示すだけでいいと思ったのだ。
図体のでかい男は、膝をかがめるようにして子供に何かを話す。
そうして。
子供は。
頷いた。




