春の七草
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「お……」
よろよろしながら、景子が神殿から出てきたのは、すでに太陽が大きく西に傾いた頃だった。
丘の上から見る夕焼けが、とても美しい。
菊は、その夕日から景子に顔を移した。
手には、少し短くなった枝を持っている。
「スズナスズシロホトケノザ……」
足取りの変な景子は、発言まで変だった。
何故か、春の七草を暗唱しているのだ。
とても衝撃的なことが、中で起きた──菊に分かることは、それくらいだった。
「景子さん……」
近づいても自分に気づかない彼女に、声をかける。
そこでようやく、景子ははっとした。
「あ、あ……菊さん」
そして、慌てて後方を振り返るのだ。
自分が出てきた、大いなる神殿を。
「大丈夫?」
問いに、景子はコクコクと頷く。
まだ、言語中枢は復活していないようだ。
「今夜は、この町に泊まりかな? どこかに、宿を探そう」
とりあえず、彼女は落ち着く必要があった。
どこかに座り、何か飲む必要がある。
「あ……」
町に向きかけた菊の服が、掴まれた。
景子が、何かを言いたがっているようだ。
ゆるやかに、彼女が言葉を探すのを待った。
「木のとこの家……話行ってる」
ようやく出たそれに、菊は了解した。
あの若奥様と、ちびっこの家だ。
景子が神殿にいる間に、既に伝達が行ったのだろう。
ということは、枝の件は、よい返事がもらえたということか。
枝が短くなっているのは、一部を神殿に捧げてきたからだろう。
この案件だけを見る限り、景子はうまくやったに違いない。
残りの問題は。
この大きな衝撃の元が、何であるか──それだけだった。
※
「へぇ」
菊と景子には、一部屋与えられた。
あの若奥様の夫は、神殿に関する仕事についているらしく、そこそこよい暮らしをしているようだ。
椅子など置いてある部屋ではないので、二人はベッドに腰掛けて、ようやくゆっくり出来た。
景子の話は、おとぎ話でしか聞かないようなもの。
たとえるならば、一寸法師。
お姫様が、うちでの小槌を振るとあら不思議── 一寸法師は、人と同じ大きさになっておりましたとさ。
この世界には、うちでの小槌が存在するというわけか。
菊は、まだその成長した御曹司を見ていないが、彼女の言葉を疑う気は、ハナからなかった。
景子は、演技が出来るタイプではない。
その彼女が、あれだけの衝撃を受けていたのだから、このくらいのトンデモ話が起きていてもおかしくはなかった。
第一。
菊は、見たのだ。
御曹司が、『何か』を使ったのを。
あの、獣を打ち据えた水の玉。
ただの人間じゃない。
その理解は、菊は持っていた。
リサーより大きくなっているという話には、笑ってしまったが。
御曹司を見上げなければならない彼を想像すると、とてもおかしかったのだ。
そんな一寸法師のお話の後、景子は枕元においた枝をじっと見た。
「明日……接ぎ木の許可が出たの。神殿からも人が立ち合うみたい」
ため息は、どんな気持ちから生まれてくるものか。
「あいつらは?」
菊は、そっちの方が気になった。
すると。
景子の身体が、ベッドの上で一瞬跳ねる。
隣に座っていた菊は、その衝撃の巻き添えを食って、視界を揺らした。
「あ……えっと……多分……来る……みたい」
ピヨピヨピヨピヨ。
景子は、頭をくらくらに動かしながら、舌の回らない唇でそう告げる。
また、春の七草でも暗唱し始めそうな勢いだった。




