イデアメリトスの子
☆
どっどっどっど……どうしよう。
景子の心臓は、自分のどもりの音よりも激しく打ち鳴らしている。
震える手には、太陽の枝。
彼女に言い渡されたのは。
この吉兆である太陽の木の枝を──儀式が終わったばかりの、イデアメリトスの子に捧げよ、というものだったのだ。
彼らは、枝の到来を伝説と呼んだ。
その伝説を、宗教画のような構図で仕上げようという気なのである。
い、いえ、私はこの枝を接ぎ木したかっただけで!
そう伝えたかったのに、景子の頭は突然のことに沸騰し、日本語でさえ不自由な状態になってしまったのだ。
あわあわしている内に、神官たちに引っ張られて連れて行かれる。
あ、いやだって。
心の準備なんか、出来ていなかった。
枝を捧げる相手は、おそらくアディマなのである。
向こうも驚くだろうし、彼女もどんな顔をしていいか、まったく分からなかったのだ。
彼女の心などよそに、広い礼拝場のようなところにたどりついた。
そこに、景子は跪かされる。
頭も垂れさせられた。
「そのまま……そのままでおられよ」
そして──神官は、後方へと下がったのである。
枝を握りしめ、景子はただただ石づくりの床を見た。
綺麗に磨きあげられているために、膝をついても痛くはなく、ただ少し冷たいだけ。
ずっとずっと前の方から。
石の床を踏みしめる、固い音がした。
誰かが、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来ているのだ。
その足が。
足が、すぐ前で止まった。
「イデアメリトスの子に、贈り物が届いております……太陽の木の枝です」
勿体ぶった神官が、朗々とそれを謳い上げる。
あ、ああ。
景子は、ゆっくりゆっくりと顔を上げた。
アディマ。
そう、心の中で呟きかけた言葉は──露と消えた。
顔を上げている最中で、違和感がこみ上げて来たのだ。
アディマじゃ……ない?
※
その瞬間の思いを、景子はどう表現すればよかったのか。
どきどきは次第に色あせ、足と手の先が少しずつ冷たくなって。
頭は緩やかに、思考を停止した。
思いこんでいたのだ。
ここで儀式をしているのは、アディマだと。
イデアメリトスの子と言うのは、彼に違いないと。
だが。
目の前にいるのは、ただ一人。
この人が、アディマであるはずがなかった。
顔を、膝の位置まで上げた時点で、気づいたのだ。
長い皮のブーツに覆われた膝下。
その時点で、既に大人の長さだったのである。
確かに、ブーツからは光は漏れていた。
だから、その人がただ者でないのはすぐに分かった。
だが──アディマではない。
景子は、思考停止したまま、顔を上げるのを途中でやめた。
自分が、泣いてしまわないように、そうするしかなかったのだ。
ああ。
私は、こんなにもアディマに会いたかったのか。
そんな気持ちさえも、石と同じように固めたかった。
景子の中に深くあった、接ぎ木のことさえ、思い出せなくなってしまうほど、彼女はただ義務的に、枝を差し出したのだ。
手が伸ばされたのが、分かった。
景子の側で、影が動いたから。
だが、景子はもはやただの抜け殻のように、ぼんやりとその影に任せていた。
その手が。
その手が、太陽の木の枝──ではなく、景子の手を取ったのだ。
温かい手に、彼女の固まった心は、すぐに反応出来なかった。
怪訝に思うことも出来ずにいる景子は。
こう。
呟かれた。
「……ケーコ?」




