ブロズロッズ
☆
ブロズロッズへの門は、固く閉ざされていた。
景子たちのように、入ることを待たされている人たちが大勢外にいる。
「どうなってるんですか?」
近くにいた年配の女性に、景子は問いかけてみた。
「ああ、何でも偉い人が神殿に入るとかで、その入殿の儀式が終わるまで、出入りを止められてるんだよ」
おしゃべり好きらしい彼女は、心底困った顔で、ぺらぺらと彼女に教えてくれる。
ふんふん。
景子は、これまで聞いてきたことを頭の中で組み立てながら、納得していた。
ブロズロッズというところには、『捧櫛の祭壇』というものがあるらしい。
そこは立派な神殿で、毎年多くの人々が巡礼に来るという。
いわゆる、宗教都市だ。
ただし、祭壇に入れるものはごく一部ということで、一般人の巡礼者用には別の神殿が用意されているらしいが。
もしかして。
景子の胸が、微かに高鳴った。
もしかして、その偉い人っていうのは──
景子の頭に、アディマが浮かんだ。
身体こそ小さいが、瞳の奥の深い人。
何事もなければ、おそらく彼女たちよりも速く到着しているだろう。
『捧櫛の祭壇』
アディマは、あの時そう言ったのではないか。
初めて、旅の行き先を聞いた時。
いまとなっては、音の一粒も思い出せない。
だが、アディマであればいいと、心から願ったのだ。
彼だとするのならば、無事に到着したということになるのだから。
「どうだって?」
菊が、人の群れを見ながら、景子に問いかける。
彼女はまだ、会話は苦手のようだ。
「ああ、うん……誰かの儀式が終わるまで、人の出入りは……」
そこまで言いかけた時。
「これより開門いたす!」
門の衛兵が、大きな大きな声を上げた。
人々の顔がぱっと明るくなり、立ち上がったり人を呼んだりし始める。
「あれ……入れるみたい」
絶妙なタイミングに、逆に景子があっけにとられてしまった。
※
ようやく門をくぐって、ほっとしていた時。
「あんた、そんな髪で神殿に行く気かい!?」
さっき、様子を聞いたおばさんに、突然後ろから呼び止められた。
「はい?」
驚いて振り返ると、とんでもないと言わんばかりの顔をしているではないか。
「そっちの兄さんはいいだろうけど……あんたそれじゃあ、神官様にあきれられるよ」
ちょっとおいで。
兄さんと言われた菊が、盛大に苦笑している中、景子は道の端へと引っ張られた。
「何だい、このくにゃくにゃの髪は」
そして、面と向かって髪をけなされるではないか。
ガーン。
景子の髪の天然パーマっぷりは、自分でも好きにはなれない。
だが、他人に向かってはっきりそういう人は、日本にはいなかったのだ。
少なくとも、建前上は。
旅を続けて随分たつので、肩下ほどに伸びはしたが、相変わらずのくるんっぷりだった。
「そんな泣きそうな顔しなさんな……ちょいと油をつけて編んでしまえば分からないって……まあ、短いのはごまかしようはないがね」
おばさんは、大げさに両手を広げながら、景子に笑いかける。
悪意のかけらもない。
ただ、腹の底から正直な人なのだろう。
「櫛を捧げる神殿だからね……見てごらん、女性の髪の美しいこと」
巡礼者が通り過ぎてゆくのを、おばさんは顎で指した。
右手に櫛、左手に油を取り出したせいである。
そう言えば。
景子は、女性の髪を見た。
つややかな栗色の髪や黒髪に白い髪。
いずれも、太陽の光を艶やかに反射している。
垂らしている人は、よほど髪に自信があるのか、長く長く美しい。
ほとんどの女性は結っていて、それでもなお艶は明らかだった。
「自信がないなら、せめて結っておくんだよ……こんな髪じゃ、お嫁にも行けないからね」
そして、やはりおばさんは──悪意はなかった。
男と間違われた菊は、その方が都合がいいと知らんぷりをしている。
しかし景子は、髪と嫁とのダブルパンチをくらい、頭がずっしり重くなったのだった。
この国では、31歳ってこと黙っててもいいかなあ、などと。
往生際の悪いことを考えながら。
※
景子の髪は、二つの小さな三つ編になった。
天然パーマの髪は、実はそんなに多くはないので、編んでしまうと小さなしっぽみたいになってしまうのだ。
あ、あは。
鏡はないが、その髪型には覚えがあった。
中高と、こんな頭だったのだ。
こんな年で、二つのおさげなんて、は、恥ずかしい。
おばさんに綺麗に整えてもらった手前、勝手にほどくわけにはいかず、景子は一人で照れまくった。
菊が、そんな彼女を見て。
「私より年下に見えるよ」
と、小さく茶化す。
「ちがっ、あう……あわっ」
顔が、ますます赤くなる。
「ああ、そうか……なんか変だと思ったら、あんたたち遠くの国から来た人かい」
二人の会話は、日本語だった。
おばさんは、珍しそうな、しかし合点のいった顔をする。
「道理で、髪もそんなだったワケだ……海でも越えて来たのかい?」
どんなところだろうねえ。
見知らぬ国のことを、彼女は想像しているようだった。
反射的に、景子の心に記憶の海が甦る。
ああそうか、ここにも海があるのか。
日本は、海に囲まれた国だから、海を越えなければよその国へは行けなかった。
ここへは、海以外の何かを越えて来た。
しかし、この世界を歩いている間に、海というものには出くわさなかった。
大きな大陸なのだろう。
その内陸部を、彼女は歩いて来たに違いない。
「海は……ここから近くの海は、どこへ行けばありますか?」
行く気が、あったワケではない。
でも、聞かずにはいられなかった。
「ん? ああ、そうだねえ……このままずっと東に行った方が近いかねえ」
指された方向は、これまで歩いてきた道とは逆。
梅のいる町より、もっと遠くなるところ。
「ありがとうございます」
行こうが行くまいが、関係ないのだ。
海はどっちか。
それが分かるだけで、少し安心する自分がいる。
ああ。
私は、本当に日本人なんだわ。
海に囲まれた祖国を、彼女は胸の中で噛みしめた。




