本
○
「ウメ、ウメ!?」
イエンタラスー夫人の呼び声に、梅はクスッと微笑んだ。
今日は部屋にいるというのに、自ら探してくれるなんて、また何か素敵なことでもあったのだろうか、と。
ゆっくりと立ち上がって、部屋の扉を開けると、ちょうど夫人が小走りで駆けてくるところだった。
こういうところだけは、まるで少女のようである。
「どうかなさいました? イエンタラスー夫人」
梅を確認するなり、彼女はすぐさま手を引いて行こうとした。
「さあさあ、玄関へ……私の楽しみがやってきたのよ」
夫人を浮かれさせる何かが、そこにあるらしい。
それに、クスクスと微笑みながらついていく。
どんなお楽しみなのか、想像もつかないが、あえて聞くような無粋な真似はしない。
驚かせようとしている夫人の思い通り、存分に驚こうと思ったのだ。
そういう意味では、梅にも楽しみだった。
玄関につくと、そこに大きな箱が二つ置いてあるのが見える。
ただし、箱だけではない。
その側に、誰かが膝をついているのだ。
「イエンタラスー夫人には、ご機嫌うるわしゅう」
見上げてくるのは男。
しかし、頭に長い布を縛り付けている。
よく、大工の棟梁なんかがしている巻き方だ。
縛って後ろに垂れる布が、彼の髪のように見えた。
しっかりした目の人だわ。
それが、梅の第一印象。
やや太めの上がり気味の眉に、意思の強そうな目。
そこまで大きいわけではないが、たくましい体つき。
夫人に敬意は示しているものの、その姿は町民でも農民でもないように思えた。
沢山の匂いが、入り混じった男だ。
「挨拶はいいわ……早く見せてちょうだい、早く早く」
夫人は、男のことなど見ていない。
見ているのは、大きな二つの箱。
それが開かれるのを、いまかいまかと待ちわびているのだ。
ハイヨっと、男は大きな箱のふたを開けた。
そこには──見たこともないような品物が、ところ狭しと詰め込んであったのだ。
※
「まぁ! まぁ!」
夫人は、黄色い声を上げて、品物を覗き込んでいる。
なるほど。
彼は、どうやら夫人御用達の行商人のようだ。
道理で、沢山の匂いが入り混じっていると思った。
町から町へと、渡り歩いているのだろう。
普段であれば、町の代表以外とは直接会わないイエンタラスー夫人も、自分の好奇心には勝てないのだ。
珍しい梅を引き取ったように、こうして行商人が来るのを楽しみにしていたに違いない。
夫人が、商品に夢中になっている間。
男が、少し怪訝そうに彼女を見た。
それもそうだろう。
何回も出入りしているのなら、梅のような娘がいなかったことくらい知っていたはずだから。
「ウメです……どうぞよろしく」
夫人の邪魔をしないように、彼女は小さく挨拶をした。
すると。
彼は、軽く目を見開いたのだ。
そして、更に怪訝に──今度は、夫人の方を見るのである。
男の驚きは、多少は理解出来た。
彼は、身分のある者が自分から行商人ごときに挨拶をすると、思ってもみなかったのだろう。
だから、ますます彼女の立場が、分からなくなったというところか。
それがおかしくて、梅は小さく笑ってしまう。
夫人は品物に夢中だし、彼女は笑っているせいで、男は少し困った顔をした。
だが、決して夫人の邪魔をしようとはしない。
黙ったまま、好きなだけ彼女の選別を見守るのだ。
やたらと、商品を勧める気配もない。
よい商売人だと、梅にも分かった。
旅暮らしとは思えない、腰の据わりようである。
「あ、ああそうそう」
ようやく夫人が、男に声をかけた。
首飾りを手に取ってはいるが、唇は何かを思い出すような動きをしている。
「あなた……本は売ってないのかしら? 何か面白い本」
イエンタラスー夫人の言葉に。
男は、一瞬沈黙し。
梅は、頬を赤らめた。
それは、まちがいなく──梅のための品物だったからだ。
※
テイタッドレック卿の図書室のことを、夫人は忘れないでいてくれたのだ。
あれから一ヶ月は、軽く過ぎたというのに。
自分の家に図書室がないことを、夫人が残念に呟いていたのを、梅は覚えている。
なくてもいいのだと伝えたのだが、きっと心のどこかに残っていたのだろう。
「本……ですか? あるにはありますが……」
男は、少し考え込んでいるようだった。
「何の本かしら…さあ、出してちょうだい」
あると聞いただけで、夫人は小躍りしそうなほど声を上ずらせる。
「いえ…本を所望されるのは、テイタッドレック卿なので、そちらにお売りする分としてお持ちした物はありますが…」
考え込みながら、男は箱の底を探る。
彼は、行商人だ。
この町が終わったら、卿の領地に行くつもりだったのだろう。
「女性が読んで楽しい本ではないと…思いますよ」
考え込んだ理由は、それか。
本なら何でもいいはずはないと、男は思っているのだろう。
取り出されたのは、三冊の本。
男は夫人に差し出そうとしたが、彼女は黙って梅を促した。
わずかに戸惑った後、大きな手は梅にそれを差し出す。
ああ。
一番上の本のタイトルは、もうとっくに読んでいた。
『歩測量記録史』
分厚いその本を、他の二冊を抱えたまま開くことは出来ない。
梅は、迷うことなく膝を折った。
「ウ、ウメ」
夫人が驚いているが、彼女は日本家屋でそうするように正座をして、膝の上に残りの二冊を乗せてから、一番上の本を開いたのだ。
ち、ず。
テイタッドレック卿の屋敷では、見つけることの出来なかった、測量地図の本である。
ぱっと開いただけでは、どこの地図かは分からないが、めくってもめくっても、地図が描かれている。
そして、一番最後のあたりに。
それは。
あった。
この大陸の、全体の形が描かれている地図、が。
※
はっと我に返って顔を上げると──男が、自分を見ていた。
あら?
驚いて、梅がキョロキョロと辺りを見回すと、既に夫人の姿はない。
ただ、使用人が一人、側に控えていた。
「わ…わたし…」
梅は、カァっと恥ずかしさに頬を赤らめる。
ついつい本に夢中になって読みふけっていたことを、ようやく理解したのだ。
夫人があきれて、先に戻ってしまうほど長い間。
「気に入られたようですね」
その間。
行商人は、勝手に出て行くことも出来ず、そこで辛抱強く付き合ってくれたのだろう。
「ごめんなさい…私ったら」
ますます、頬が赤くなる。
こんな失態をしてしまうなんて、自分でも信じられなかった。
「女性で、小難しい本にそんなに興味を示した方は、初めてですよ」
薄く、男は笑った。
その笑い方が、少しだけ菊に似ている気がする。
「あ、あの…この本…」
買いたいと言いかけて、夫人がいないことを思い出す。
彼女の一存で動かせるお金など、まったくないのだ。
屋敷に住んでいる分には、金銭取引など発生しないのだから。
夫人に、許可を取ってこなければ。
梅が、正座を解いて立ち上がろうとしたら。
「ああ…御代は既に受け取っています。三冊分」
男は、静かに彼女の動きを止める。
そんなやりとりにさえ、気づかなかったなんて。
そして、ようやく彼は荷物を片付け始めた。
支払いが終わっているのならば、先に片付いておいてもいいのに、そうしないのが、彼の商売人魂のなせるところだろうか。
「ありがとう…素晴らしい本を、本当にありがとう」
梅は、三冊を重いながらに胸に抱え、男に謝意を告げる。
彼は、困った顔をした。
「ただの商売です…お礼を言われることではありません」
それが、この国のしきたりなのか。
だが、梅は膝をついたままにこりと微笑んだ。
「でも、あなたが来なければ、私は一生この本と出会えなかったかもしれないでしょう?」
彼女の言葉に──男は、微かに目を細めた。




