溝
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景子は無事だったが──彼女とリサーとの間の溝が、決定的なものになってしまった。
菊は、その気の流れをはっきりと目にしたのだ。
参ったね。
それほど、先日の御曹司の行動は暴挙だったわけだ。
この分だと、遠からずリサーの堪忍袋の緒が切れるだろう。
ぴりぴりとした空気に、菊は吐息をついた。
「景子さん」
歩きながら、菊は彼女に語りかける。
勿論、日本語で、だ。
「はい?」
小さな声。
一番後ろから歩く二人は、こうして時々母国語で話をする。
「場合によっては、彼らと別れることもあると思う」
前を歩く4人を、菊は軽く視線で指した。
片言の言葉や町の様子など、学ぶべきことは、足りないながらに身に付けている。
最悪の事態がきても、行き倒れにならずにすむだろう。
「あ……やっぱり、そう……ですよね」
景子も、リサーのピリピリした空気を察知しているようで、声が深く深く沈んでゆく。
彼女が獣に襲われたのは、さしたる落ち度があるとは思えない。
言うなれば、ただ運が悪かった。
普通の人間に、気配を殺した獣の気を察知しろというのは、無理というものだ。
「大丈夫……心配しないで。旅のやり方は分かったし、ね」
そう言葉を紡ぎながらも、本当は知っていた。
菊と二人で旅をすることに、彼女が不安を覚えているわけではない、ということを。
景子が気にしているのは。
ちらりと、メガネの視線が前を見る。
そう──御曹司だ。
最初から、この二人には不思議なものを感じていた。
年が離れているせいで、疑似的な母と子の感情のようなものかとも思った。
しかし、どうも違う気がする。
小さいくせに。
御曹司は、男の顔で景子を見るのだ。
※
夜。
ダイの夜番に、菊も付き合っていた。
そこへ、寝ていたはずのリサーがやってくる。
おいでなすったか。
ダイではなく、自分に近づく彼を、菊はゆるやかに見詰めた。
言われることなど知っているし、とっくに覚悟も出来ているからだ。
リサーが、ちらっと御曹司の方を見る。
よく眠っているのか、確かめているのだろう。
それが、とてもおかしかった。
起きている間に御曹司に聞かれたら、絶対に止められると知っているからだろう。
だから、内密に話を通そうとしているのだ。
先に、ダイがため息をついた。
彼もまた、リサーが何を考えているか分かるのか。
だから。
菊は、手でしゃべり出そうとする男を止めた。
「分かっている」
まだ慣れない、こちらの言葉。
「明日……朝……早く……出る」
単語をつなぎ合わせても、話は通じる。
景子は、だいぶ文章になってきたが、彼女ほど熱心ではない菊はこの程度だ。
リサーは、彼女の言葉に戸惑っていた。
まさか、菊から切りだされるとは、思っていなかったのだろう。
景子にすら分かるほど、ダダ漏れの気をばらまいていたクセに。
御曹司に、何回か言葉を受けていたようだが、それでも彼のそれは治らなかった。
忠義者だな。
彼を、悪者だと菊は思っていなかった。
気楽な菊とは違い、リサーには立場があるのだろう。
主君と客を秤にかけて、客を取る家臣はいないのだ。
御曹司のためにも、景子が邪魔だと判断したのである。
「食べ物……くれ」
当座の食事は、必要だった。
保存食を、担いでいるのはダイだ。
リサーは、ダイに頷く。
彼は、少し重そうに大きな身体を起こすと──荷物を取りに行ったのだった。




