ボンボン
○
「お前が、イエンタラスー夫人の屋敷の居候か」
案の定、青年は見事な上から目線で、言葉を投げてくださった。
本当に、性格というものは顔に出るものだ。
「梅と申します。お初にお目にかかります」
特別な言葉を考えることもせず、卿への挨拶と一言一句変わらぬ言葉を綴る。
「ウメ? はっ……面白いほど短い名前だな。この領地では、家畜にもつけぬほど短い名だ」
そして、客人を捕まえていきなり家畜以下の扱いである。
ジュゲムジュゲムゴコウノスリキレ──。
梅は、微笑みも浮かべないまま、自分の知る限り、一番長い名前を思い出そうとしていた。
それくらい、この男との話は退屈極まりないと分かっていたのだ。
そして、お馴染みの鑑賞タイムが始まる。
梅の着物を、首を傾げながら眺め回す。
ふーむ、と青年はうなった。
「だがまあ……僕の部屋に、招待してやってもいいぞ」
彼は、先導しようとした使用人の女性に、指で命令を出す。
梅を彼の部屋に案内するように、だろう。
動こうとする彼女を、梅は着物の手で軽く制した。
「申し訳ございません。夫人に控えの間で待つように言われておりますので……お言葉だけありがたく頂戴致します」
ただでさえ、まだ疲れが取れきっていないというのに、卿より倍は疲れそうなボンボンの相手をする気など起きそうになかったのだ。
幸い、イエンタラスー夫人という、別の領主が梅のバックにいる。
この時ばかりは、彼女の威光を借りるつもりだった。
嘘は言っていない。
『ウメは、控えの間で休んでらっしゃいな』
そう、夫人は言ってくれたのだから。
青年は、一瞬目を見開いた。
断られるとは、微塵も思っていなかったようだ。
そんな彼に。
「では、ごきげんよう」
梅は軽く腰を折り、部屋へ戻る道筋をたどり始める。
使用人が、二人の顔を一度見比べた後。
慌てたように、梅の方へと駆けてきたのだった。
※
控えの間に戻ると、他の使用人はいなくなっていた。
梅と、あの褐色の肌の使用人だけになる。
ふぅと深い息を吐いて、梅は椅子に浅く腰掛けた。
着物の帯があるために、背もたれに身体を預けられないのだ。
使用人は、いまにもまたボンボンが入ってくるのではないかと心配しているようで、扉と梅の両方を見比べるような動きをした。
「あなた……お名前は?」
そんな彼女に、穏やかに声をかける。
使用人は、びくぅっと飛び上がった。
本当に、文字通り飛び上がったのだ。
自分に声がかかるとは、思ってもみなかったのだろう。
「あ、あのっ、私、何か無作法なことをし、しましたか?」
眉尻を、思い切り下げながら問いかけてくる。
いつも、あのボンボンにでも叱られているのだろうか。
「いいえ……よかったら私の話し相手になって欲しいと思って……名前を知らなければ、呼びかけも出来ないでしょう?」
梅は、確かに夫人の庇護にあるために、よい立場に置いてもらっている。
しかし、決して自分自身の身分があるわけではないということもちゃんと知っているのだ。
「は、はぁ……ええと……では、エンとお呼び下さい」
遠慮がちに、娘は応えた。
梅は、それに首を傾げる。
本当は、笑ってしまいそうだったのだが、誤解を生むと思い我慢したのだ。
「ちゃんと本名を言ってくれていいのよ……聞き取れると思うから」
さっき。
名前が短すぎて家畜以下の扱いをされた梅に、気を遣っていると思ったのである。
髪も長いが、名前も長い。
この世界のしきたりにも、彼女はだんだん慣れてきていた。
「で、では……エンチェルクと……」
もしかしたら、まだ略しているのかもしれない。
「そう……私はウメ、よろしくね」
しかし、梅はその辺で納得した。
「で、さっきの殿方は……テイタッドレック卿のご子息でいいのかしら?」
問いかけに。
エンチェルクは、複雑な表情に変えながら頷いたのだった。
※
「ただ一人のご子息です……他に二人お嬢様がおられますが、どちらもお輿入れなさいました」
エンチェルクの説明を、梅は身体を休めながら聞いていた。
ということは、彼が次代のテイタッドレック卿になるのか。
「ところで……あなたは、この辺の生まれではないのよね?」
ボンボンの話は、それくらいにして。
梅は、エンチェルク自身の話へと切り替えた。
彼女は、またぎょっとした顔をする。
「は、はい……もっと南の……都よりもうちょっと南の町の生まれです」
あわてふためきながら答える言葉を、梅は一粒ずつ拾っていった。
ここより南に都があって、それよりももう少し南。
梅はまだ、この世界全体の地図を見たことがなかった。
広い範囲で行商をしている者か、まつりごとに関わる人でなければ、そんなに大きな地図はいらないのだ。
日本にいたころだって、本当の意味で世界地図など必要なかったではないか。
しかし、見えないとなると見たくなるのが性分である。
テイタッドレック卿の屋敷の話をした時、夫人がこう言ったのだ。
『卿のお屋敷には、立派な図書室がありますよ』
発音に比べ、筆記にはまだ自信がない。
それでも、図書室への興味は尽きなかった。
「この屋敷に、本がたくさん置いてある部屋が、あると聞いたのだけれど……」
エンチェルクに問いかける。
彼女自身の話も、もっともっと聞きたくはあったが、梅の興味はゆっくりとそちらへスライドしていったのだ。
「はい、あるようです……貴重なものばかりらしく、私は入れませんが」
あらら。
誰も彼も、自由に出入りできる部屋とは違うらしい。
となると。
卿自身の許可が、必要になるだろう。
もしくは──あのウィスキーボンボンに頼むか。
どう切り出そうかしら。
梅は、エンチェルクの頭の上の方を眺めながら、思案をめぐらせたのだった。




