梅の生活
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「ウメ……ウメはいるの?」
イエンタラスー夫人の甲高い声に、ウメは振り返った。
声は、窓の開け放たれた屋敷の中から。
彼女は、あたたかな午後の日差しの下で、景子からもらった花を育てていた。
「夫人、ここですわ」
静かな声で、彼女は応えた。
もしかしたら、声は屋敷の中まで届いていないかもしれない。
しかし、廊下を歩く夫人に手を振ると、ようやく彼女は気づいたように窓辺に立った。
二人の日本人が旅立って、1ヶ月。
梅は、日常会話には困らないまでに至っていた。
身体が弱かったせいだろう。
元々彼女は、外に飛び出せない分、縫い物や本や琴に生け花と、インドアなことに傾倒していたのである。
そんな梅に、イエンタラスー夫人は、家庭教師までつけてくれた。
異文化の得体の知れない娘に、よくしてくれる恩を、梅は出来る限り返した。
竪琴のような弦楽器を覚え、こちらの世界のお茶の作法を覚え、活け花で部屋を飾り、頂いた華やかな布地で和裁を始めた。
文化的なことに理解のある夫人にとっては、それらはとても喜ばしかったようだ。
何かあると、ウメ、ウメと呼んで側にはべらせようとしてくれる。
今日も、何かあったようだ。
部屋に呼ばれて入ってみると。
「ウメ、ウメ、聞いてちょうだい」
夫人は、とても上機嫌だった。
「隣領の、テイタッドレック卿にお手紙を差し上げたら、とっても興味を持たれてね……是非、遊びに来て欲しいというのよ」
梅は、細い首を傾げた。
長い文章を理解出来なかったワケではないのだが、初めて聞く名前でもあったし、多少の言葉の省略の部分がうまく見えなかったのだ。
「隣領へ、ご訪問されるのですか?」
とりあえず、要約してみる。
「そうよ、あなたも一緒よ、ウメ。だって、テイタッドレック卿は、不思議な国からきた、あなたに興味を持たれたのですもの」
梅の知らないところで──夫人は、自慢の限りを尽くしていたようだ。
※
荷馬車が用意されていた。
飾り立てた幌のついた荷台の中は、暖かな敷物にクッションが用意されている。
お金持ちの移動手段、と言うべきか。
使用人たちが、荷馬車の準備を始めているのを見ながら、梅は先に旅立った一行のことを思い出した。
そう言えば、彼らは徒歩だった、と。
「夫人……私をここに連れて来た方々は、どうして荷馬車は使われなかったのですか?」
夫人が、最上の出迎えをする相手である。
それならば、もっと豪奢な荷馬車で移動してもいいはずだ。
「あの方は、自分の足で行かねばならぬのです……間に合えばいいのだけれども」
ふぅ。
イエンタラスー夫人は、ため息をこぼした。
「間に合う?」
梅は、繰り返す。
「そう……あの方は、誕生日までに──にたどり着かなければならないのだけれど」
心配そうな夫人の声。
彼女は、分からない言葉の意味を問いかけた。
「神殿よ……捧櫛の神殿」
神に櫛を捧げる特別な建物──平らにならした言葉で、ようやく意味が分かる。
神事の場所のようだ。
そこへ『彼』は、歩いてゆかねばならない、と。
ああ、なるほど。
神事には、形式がつきものだ。
身を清めたり、何らかの試練を受けたり。
そのような、しきたりなのだろう。
「でもねぇ……」
夫人は、困った顔をしている。
「もう、お二方も失敗してらっしゃるのよ……今回のお方がたどりつけないと、あとお一方しか残ってらっしゃらないはず」
空をあおぐのは、暗い未来について憂いているせいか。
梅もつられて心配しかけたが──記憶の中に住む者が、首をすくめて反論しているように思えたのだ。
定兼を携えた、彼女の愛すべき姉妹だった。




