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随分遠くへ来た

「ああ、疲れた」


 ようやく白無垢から解放された菊は、動きやすい袴で伸びをした。


 隣にいるのは、ダイ。


 仰々しい近衛の上着を脱いで脇に抱えている。


 道場には、酔い潰れた兵士たちがいくらか残っている程度。


 もういいからと、梅が二人をそこから抜け出させたのだ。


 今日は、ダイの官舎に泊まれと言われていた。


 何もかも、手抜かりのない姉妹だ。


「あんな妙な結婚式をしたのは、きっとダイ、私達だけだな」


 梅の趣向は、かなり彼女を愉快にしたのだ。


 だから、隣を歩く男に自慢したくなった。


 太陽と月と、貴族と平民と、剣術家に商人に。


 あれだけ違う方向を向いている人間たちが、ひとつの空間を共有したのは、驚くべきことだろう。


 リサーだけは、最後までうまく空気に馴染めずにいたようだったが。


「あれが……」


 ダイが。


 ぼそりと呟く。


「あれが……お前の望む世界か?」


 言葉と共に、視線が下ろされる。


「さあ、私は何でもいいだけだ。上があってもいい、下があってもいい。右も左もあってもいい」


 真面目に考え過ぎだ。


 菊は、彼の腕をぽんぽんと叩いた。


「でも、みな笑っていたろう? あれは、いいな……」


 ああいうのは、いい。


 無礼講という言葉ほどではないが、それぞれの立場を尊重しつつも、みな式を楽しんでくれていた。


 あの太陽が、月と酒を酌み交わす──そんな、すさまじい光景まで見られたのだ。


 みなが、嬉しげに子供たちを抱きかかえる。


 短い間だが、あの空間は楽園のような素晴らしさだった。


 式の記憶でいっぱいになっていた、そんな菊に。


「美しかった……」


 一言、ダイが口にした。


 多分。


 菊の姿の事だったのだろう。



 ※



 肌を、合わせる。


 重くたくましい身体が、菊を抱く。


 ダイは、多くを言葉に出来ない。


 そんなことは、知っている。


 だが、彼は目で、息で、大きな手で、菊に語りかける。


「さすがに……痛いな」


 痛みというものに、彼女は他の女性より慣れている。


 しかし、自分の身を内側から裂く痛みは、これが初めてだ。


 弱音ではなく、ぽろっと素直に感想を漏らしてしまった。


 動きが、中途で止まった。


 ダイの瞳が、彼女の瞳を覗きこむ。


「大丈夫だよ……」


 熱い痛みの中で、菊は微かに笑った。


 耐えられないわけではないのだ。


 嫌なわけでもない。


 ただ。


 景子の言葉が、ふっとよぎった。


『私達は随分遠くへ来ましたね』


 ああ、本当だ。


 あの時は、どこか漠然とそれを聞いていた。


 しかし、こうしてダイと身体を重ねようとしていると、すぐそこに、この男の体温を感じると、ひしひしと伝わってくるのだ。


 遠くに、来た。


 出会うはずのない男と、出会った。


 そして。


 ああ。


 自分が、女だということくらい、ちゃんと知っていた。


 だが、今日初めて。


 ちゃんと、分かった。


 目の前に、戦う身体がある。


 戦う男がいる。


 身体の芯が、じんじんと痛む中。


 そんな男と──唇を交わした。

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